ウォーター

第百九部

 


『竹芝・・・・』友絵はその場所の意味するものを知っていた。思い切って宏一にアプローチした夜、竹芝で二人は初めて唇を重ねた。今でもあの時のときめきは昨日のように思い出せる。あの時から友絵にとって宏一はある意味で特別な人になったのだ。タクシーに揺られながら友絵は宏一がこれから友絵が話すことを予感しているのかも知れない、と思った。今の二人のスタートになった場所、竹芝。友絵にとっては、そこから新しくスタートすることも、スタートしなかったことにすることも、どちらでもできる場所。友絵はタクシーの中で一言も話さなかったが、宏一も何も言わなかったし、その場所に行くことも不思議ではないような気がした。

タクシーを降りると、二人は何も言わずに以前にも来たことのあるホテルの最上階のバーへと入っていった。入り口で宏一は予約していた旨を言うと、カウンターの端へと通される。カウンターなら小さな声で話すこともできるし、視線を目の前のレインボーブリッジに固定したまま、独り言のように話すこともできる。それにカウンターの端なら友絵の隣には宏一だけしかいない。友絵は案内された席に座って宏一の心遣いを感じ取ると、宏一が用意してくれた舞台に上がる事にした。

「最初に飲み物だけオーダーするね」

そう言うと宏一は、友絵にソルティドッグ、自分にはドライマティーニを注文した。

「話したいことがあるんだろ?」

宏一の言葉は友絵の耳にとても優しく響いた。

「・・・はい・・、話したいことがいっぱいあって、でも、今はどれから話して良いのか分からなくて・・・・」

「約束があったよね。お昼の」

「あ、そうだった・・・・」

友絵は自分に『がんばれ』と心の中で声を掛け、大きく深呼吸すると覚悟を決めてゆっくりと話し始めた。

「私、今日、ある人と会ってきました。そして・・・・・別れてきました」

「どうして?」

「二人とも分かっていたんです。長続きするはず無いって。ここまで続いたのだって不思議なくらい。だから・・・修羅場にはなりませんでしたよ」

友絵は無理に微笑んだ。

「でも、友絵さんの心の中はそうじゃないみたいだね」

「え?・・・なのかな?・・・・私の方が好きだったから、かな?」

宏一は友絵がその先を話してくれるのをじっと待った。

「私、宏一さんがここに連れてきてくれた日のこと、良く覚えていて、今でも何を飲んだか、どんな話をしたか、直ぐに思い出せます。あの日は本当に嬉しかった。宏一さんが好意を持っていてくれたって言うこともそうだったんだけど、なによりも出口が見つかったって思ったの」

「出口?」

「そう、それまで私、どうしようもないって分かっていても、彼に寄りかかっていたから。そんなこと続けちゃいけないって分かっていたのに、気持ちが彼から離れなくて」

そこまで聞いて、宏一は突然友絵の相手が分かった。なぜだか分からない。でも宏一には確信のようなものがあった。友絵の話を遮るように宏一の口が動いた。

「でも、遙か年上の妻子持ちじゃ、長続きするはずがない・・・・かな?」

友絵の表情が何かを懐かしむようなものから厳しい表情に一瞬にして変わった。

「まさか宏一さん、・・・・知ってる?」

「総務部長だろ?」

友絵は絶句した。そう、友絵の上司だった。

「ど・・ど、どうしてそれを・・・・誰にも知られてないはずなのに!・・・。それとも、誰かから?誰です?」

「安心して。そんな怖い顔しなくても大丈夫。誰からも聞いてないし、誰にこのことも話してない。だって、今突然気が付いたんだから。どうしてだか分からないけど」

「そう、宏一さんにはバレちゃったんですね」

「バレちゃったんじゃなくて、分かっちゃったんだよ、今」

「そう、どうやって言おうかさんざん迷ってたのに。意地悪なんですね、宏一さん」

「そんなこと言われても・・・」

「私がどれだけ悩んだのか知らないでしょ」

「うん」

「雄介さん、総務部長のことですけど、去年、私がとんでもないことをやっちゃって、そうか、それから話さないと。少し長くなりますよ」

「いいよ」

「去年、会社の賃貸の延長契約の更新の時、えーと、手っ取り早く言うと・・・」

「分かるよ、今のビルに入っているって言う契約だね」

「はい、その契約の時に、雄介さんに渡す書類を間違えちゃったんです。会議が終わったら直ぐ出られるように、ちゃんと机の上にその書類を封筒に入れて一番上に載せておいたつもりだったの。でも出る時に慌てていて中身を確認せずに封筒だけ持って飛び出したから、きっと間違えたんです。あの時は3ヶ月も前からチームを作って何種類ものシミュレーションをやって、最終的に今のビルに残るか、今度移る予定のビルにするか、二つの案が残って、最終的に今のビルに残ることになったんです。でも、その結論を出すのにギリギリまで時間がかかってしまって・・・、その結論が出てから慌てて書類を持って出たんですけど、管理会社の会議室に入って私が雄介さんに渡したのは新しいビルに移る方の条件とかが書いてあった書類で、今のビルの延長契約の条件なんかが書いてある方の書類は私の机の上に置いてあったままだったんです。私、契約の時に横にいたんですけど、契約の場で雄介さんに指摘されるまでそのことに気が付かなかった」

「取りに戻れば良かったのに」

「ビルの管理会社は埼玉に移転したから電車を乗り継いで1時間以上かかるんですよ。それに今のところには他の会社も申し込んでいて、ウチの会社にはあの日しかなかったのに、取りに戻る時間がなかったの」

「急いで誰かに届けてもらえば良かったのに」

「それでも時間がかかって間に合わなかったんです」

「FAXかメールは?」

「社長印が必要なんです。法的にも判子を押した紙でないとだめなんですよ」

「延長することだけ告げて、書類は翌日送ることにすれば?」

「私もあの書類を纏めたりしてましたから、内容は知ってました。契約時には全ての条件が合意に達していることが条件に付いていたんです。だから、翌日書類を送ることにすると、条件を満たさないって。雄介さんが管理会社に必死にお願いしてたけど、管理会社は、『うちは管理するのが仕事でビルのオーナーではないから、書類に書いてある通りにするだけです。お宅が今日中に条件を満たさないなら、明日、他の会社に話をする以外に無い』って言って、話を聞いてくれませんでした。たぶん、他の会社が申し込んでいる条件の方が良い値段だったんだろうって雄介さんが悔しそうに言ってました」

友絵はちょっと涙声になった。

「私の所為で、この会社はビルからでなくちゃいけなくなったんです。信じられます?女子社員が書類を一つ間違えただけで、一つの会社が丸ごと追い出されることになったんですよ」

「その出ていく期限が今年なの?」

「そう、丁度あの日から1年後の今年9月30日。延長契約の期限切れから1年が退去の期限なんです」

「それで、友絵さんはどうしたの?」

「謝りました。何度も何度も。辞表を出せばいいですかって。でも雄介さんは私のミスをかばってくれたんです。部長会での決定を無視することになったけど、総務の独断でビルを移ることに決めたって。賃貸契約と管理は総務の専管事項だからって」

「そんな無茶な。いくらやり手の総務部長だって・・・」

「そう、あのころは凄かったです。毎日営業の部長が雄介さんと大声で会議をやってました。怒鳴りつけてたって感じかな。新しいビルに移れば家賃が上がるから、販売価格を値上げしないとやっていけなくなるって本気で怒ってました」

「それで?」

「私、課長にも言ったんです。私が間違えましたって。でも、その時は『今はもう、それどころじゃない。辞めて済む問題を越えてる』って言われて・・・。私、会社を首になった方がよっぽど良かった」

「課長は誰にも言わなかったの?」

「そうみたいです。総務課の責任になるからって言ってました」

「そうか、一人の女子社員に押し付けるには事が大きすぎたんだ」

「それで、私、ある意味責任をとらされる形で総務部長と新しいビルに移る代案を早急に作るように言われたんです」

「きっと大変だったね」

「本当に大変でした。十月なんて半分くらいしか家に帰れなかった。毎日毎日朝の7時から夜中の1時過ぎまで家賃の計算、それに伴う引っ越し費用、内装費、工事費、部ごとのスペースの割り振り、それらのコストの計算、ビルの管理費、維持費、社員を増やした場合、減らした場合、社員を同じにして借りる面積だけ変えた場合、とにかくずーっと計算ばっかりやってました」

「それで総務部長と?」

「十一月くらいだったかな?もともと総務部長は外出が多かったんですけど、やっと大枠ができたからって食事に誘ってくれたんです。その時の私、社内で孤立していて、優しく話を聞いてくれる人は雄介さんだけだったんです。だから、嬉しかったなぁ。あの時は令子が家を飛び出してきて私の部屋にいたものだから毎日疲れて部屋に帰ると親と電話で長電話して喧嘩して・・・。そんなことやらなにやら全部聞いてもらって・・・」

「疲れていたんだね」

「くたくたでした。家でも会社でも。だから、雄介さんに寄りかかって行っちゃった・・・」

「その時から男性として意識するようになった?」

「みたいですね」

「それで、いつから別れるつもりになったの?」

「いつからかな?丁度宏一さんに雄介さんが会いに行った頃かな?あのころにはもう上手く行かなくなってたみたい」

「もう半年近く前だね」

「そう、最初は時々二人で会ったりするだけで充分幸せだったけど・・・」

「分かったよ。それ以上は聞かない」

「良いんですよ。宏一さん、ここまで話したんだから。もう、何でも話しますよ」

友絵は宏一を真剣な眼差しで見つめると、はっきりとそう言った。

「ううん、良いよ。でも、今日は総務部長、なんて言ってた?」

「部屋はどうするんだって」

「部屋?」

「実は私、今の部屋代を少し出してもらってるんです。令子が来ても別の部屋で寝られるようにって、雄介さんが言ってくれて、年末に今の部屋に移ったんです。でも雄介さんは一度も来なかった。結局、あの部屋にお客さんで来たのは宏一さんだけだったですね」

確かに最初に部屋に案内された時、友絵の給料で小さいとは言え二部屋に台所付きの部屋を借りているのは少しおかしいと思ったが、それほど深くは考えなかった。でも、言われてみれば友絵の給料では半分以上が部屋代で飛んでしまうだろう。

「それじゃ・・・」

「雄介さんはこれからもしばらくの間は出してくれるっていったんですけど、それは断りました。なるべく早く別の所を借ります。少し遠くてもいいですから」

「だって、直ぐには見つからないだろう?」

「貯金があります。これでも少しくらい、貯めてるんですよ。数ヶ月なら何とかなりますよ」

そう言って友絵は無理ににっこりと笑った。

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