ウォーター

第百四十部

 


 翌日の金曜日、宏一は張り切っていた。朝から仕事を精力的にこなしていく。それは友絵から見ても宏一が生き生きしているのがわかった。最初、友絵は一昨日の夜に宏一と楽しい時間を過ごしたから宏一が元気なのかとも思ったが、女の感はそうではなさそうだということを教えていた。そこで思い切って聞いてみた。

「三谷さん、今日はうきうきしてますね。何か楽しいことでもあるんですか?」

「え?そうかな?だって今日は週末じゃない。なんとなく、かな?」

「へぇ、そうなんですかぁ?何か特別いいことでもあるのかな?」

「なんだい、新藤さん、その笑い方は」

「いいえ、何でもありません」

「なんか気になる言い方だなぁ、棘があるって言うか」

「気にしないほうがいいですよ。一人だけさびしい週末を迎える子がいるだけですから」

「友絵さん、今日、都合悪いの?」

「だめですよ。三谷さん。本当に今週はダメなんです。ごめんなさい。実家に行かなきゃならないので。玲子のことで」

それだけを小声で言うと、友絵は仕事に戻った。友絵が仕事に集中し始めると宏一でも声をかけられなくなる。あっという間に猛烈な仕事のオーラが友絵の周りに分厚く張り詰め、友絵は電話をしながらパソコンを叩いて帳面を探し、入力しながら電話ではにこやかな声で用件を片付け始めた。

宏一は友絵が週末塞がっていることに安堵した。今日は恵美と約束しているのだ。残った唯一の問題は友絵がいるときに電話がかかってくる可能性があることだったが、こればかりは友絵と一緒にいる以上仕方がない。宏一の携帯は恵美からの着信はマナーモードになるように設定したので、仕事を乱すことはないだろう。

そんなことを思いながら昼近くまで仕事をしていると問題が発生した。

「三谷さん。問題が起きました」

友絵がはっきりとそう言う時は、すぐに宏一が処理しなくてはいけない案件が持ち上がったということだ。宏一はあわてて自分の仕事を一時中断しながら確認した。

「オプトテックの鈴木さんからですが、3階北側のパイプスペースに回線を通すダクトが無いそうです」

「え?ダクトが無い?まさか?あの人、今3階にいるの?」

宏一は先ほどここで話をしていった細身の人を思い出しながら友絵に確認した。

「はい、回線の施工図では確かにパイプダクトがあるはずなのに、実際にはダクトが塞がっているそうです」

「エーと、確かあそこの配線は電話線なんかと共通のダクトを使うはずだろう?それじゃ、電話線はどうなってるんだ?」

「なんか、ダクトの中にコンクリートが入っていて通すスペースが無いそうです」

「そう来たか!」

宏一は納得した。宏一のやっている社内通信回線の工事は、全てこのビルの大家である会社から提供された設計図面を基にしている。誰でも目に留まる部分の仕上げは手の抜きようが無いが、電線等を通すパイプダクト等の様に特定の業者しか触ることの無い部分の仕上げは手抜きが多い。たぶん、パイプダクトにケーブル類を張ってしまった後の仕上げの段階で水周りの工事か何かが追加になり、それに合わせてコンクリートを張ったときに出来上がっていたパイプダクトまで流れ込んでしまったのだろう。コンクリートを流した業者はきっとそれに気がついたはずだが、申し出ても面倒が起きるだけだし、黙っていてもケーブルの張替えなどをやらない限り問題が発覚する恐れは無い。だから黙っていることにしたのだろう。宏一も以前に一度だけ同じ目に遭ったことがある。

ところがそのケーブルの張替えを今まさに宏一たちがやっているのだ。こう言う時は正攻法でコンクリートを除去する手はずを整えるという手もあるが、それだと猛烈に時間がかかるし、もしコンクリートの除去作業中にケーブルを傷つけたらとんでもないことになる。

「わかった。エンブレスエンジに行って来るから、その場所はそのままにしてほかの場所にかかるように言ってくれない?」

友絵は言われた通りに告げたようだが、さらに困った表情で宏一に返事を返してきた。

「もう3階西のケーブルの立ち上げでブラケットが無くてこの場所をやることになったので、ほかに回って欲しいと言われても、他の場所をやる部品が無いそうです」

「わかった。それじゃ、ここに一回戻ってきてもらって」

「はい」

「それと、新藤さんは直ぐに牛丼3人分、大盛りで買ってきて」

友絵は、はぁ、と息を吐くと財布を持って出て行った。

宏一が戻ってきた業者と施工図面を見ながら対応策を話し合っていると、友絵が牛丼を買って戻ってきた。ちゃんと味噌汁も付けている。宏一はそれをテーブルの上に並べて3人に勧めながら、今後の仕事の進め方を話し合った。仕事を何度も中断されて最初はギスギスしていた業者も、嫌々ながらも進められた牛丼に箸を付け、友絵がお茶を出してくれるころになると和らいできた。彼らは工数、つまり仕事量で報酬を得ている。時間ではないのだ。だから仕事に時間がかかればかかるほど彼らの損になる。工数での契約は仕事の速い遅いを業者の個人的な技量に左右されないで契約できるのは良いのだが、宏一の側のミスで時間がかかれば施工業者の機嫌が悪くなって当然なのだ。

「不思議だなぁ、この部屋に入る時は、今日こそ三谷さんの額をテーブルにくっつけて見せるぞ、って思って入ってきたのに、いつの間にか牛丼を掻き込みながら相談に乗ってるんだから」

業者の一人がそういって呆れると、

「こう言う時のために新藤さんがここにいるんだから。それくらい分かれよ、いい加減」

ともう一人が言った。

「三谷さんが買ってくるように言ったんですよ」

そう友絵が牛丼の領収証をヒラヒラさせながら部屋の反対側から声をかけると、

「準備万端で待ち受けてたってか。ダメだこりゃ」

と、その業者のチーフは破顔した。

結局、その業者は午後から1階のエレベーターホール横のパイプダクトの仕事をやることで話がついた。この仕事は簡単だし狭いパイプダクトに入らなくて良いので、つなぎように取っておいた仕事だ。こう言う時にこそ割り振ろうと宏一が遭えて取っておいた仕事だった。ただ、あまり時間はかからないので直ぐに設計業者と対応策を決めなくてはいけない。それを聞いた友絵は大急ぎで作業工程表の組み換えを始めた。友絵は作業そのものは知らないくせに、まるで配線作業のベテランが作ったかのような見事な工程表を作り上げる。ただ、直ぐに午後の仕事が始まるので、その工程表の組み替えが終わるまではお昼はお預けだ。

宏一は、

「それじゃ、エンブレスエンジに行ってくる」

と友絵に声をかけると書類をまとめて設計業者と設計変更に出かけていった。

宏一は社の前でタクシーを拾うと行き先を告げ、慌ててタクシーの中でエンブレスエンジの作った図面とビルの配線施工図をチェックする。やはり両方とも間違いはなかった。

タクシーが着くと宏一は弾かれたように車を降りて担当者の所に飛んでいった。先方でも宏一を待ち受けており、小さな会議室で宏一と担当者の対策協議が始まった。

「三谷さん、こういう事は時々はあるんだ。特に大きなビルに多いよ。大きなビルだとコンクリートを下から打ち上げずに現地階でコンクリートを練るだろう?そうするとどうしても流し込む段取りや作業が雑になるんだ。だから大きなビルはそれを見越して強度計算してあるんだよ」

「それにしてもパイプダクトって言ったってかなり大きいよ。人が入れるとは言わないけど、それに近い容量があるのに」

「そんなもんさ。鉄筋も入ってないから強度的にはゼロに近いだろ?時々地震なんかで割れてケーブルを傷つけたりすると、ウチに文句が来ることだってあるんだから」

「そう言う時はどうするの?」

「いろいろだね。でも、今回はコンクリートの除去はできないから、迂回路を捜すことになるな」

「迂回路って言っても、階の真ん中まで戻ってセンタースペースから立ち上げるとすると、かなり長い距離が居るよね」

「そうなんだ。だから困ってるんだけど・・・、どうだろう、こう言うのは?」

業者は白い紙にラフスケッチで修正案を書いて宏一に見せた。

「う〜ん、そうかぁ。そう言うことか。それなら思い切ってこうしてみるか?」

宏一が更に書き足す。

「そうだなぁ、そこまでしなくちゃいけないのかなぁ・・・・」

「だって、こことここにルーターがあるんだから、こういう風には絶対しなくちゃいけないし、この部分で分けてるんだから電源はこうしなくちゃいけないだろ?」

「ちょっと待って。それじゃ絶対にコストは上がるよ。誰が払うの?」

「それが問題なんだけど、何とか掛け合ってみるよ。だから追加の設計費は5万で勘弁してよ」

「ええっ?だって二日はかかる仕事だぜ」

「何とか頼むよ。後は俺がやるから。それと、一人で二日じゃなくて二人で一日でやって欲しいんだ。できるだろう?元の図面はあるんだから」

「もう、無茶苦茶言うなぁ・・・・。分かったよ。時間掛けても良いこと無いからそれでいこう」

「ありがとうございます。恩に着ます」

「それじゃ、明日の3時までにメールで流せばいいんだね?」

「そう、お願いします!」

宏一は打ち合わせも早々に再び社にとって返すと、ヘルメットを二つ持って総務課長の所に行き、無理やり引っ張って3階の現地に行った。いきなり飛び込んできた宏一に言われてスーツ姿にヘルメットを被せられて天井に押し込まれた課長は偉く不機嫌だ。

「ここを見て下さいよ。こんなにコンクリートが流れ込んでちゃケーブルなんて引けませんよ」

「そうだな・・・・・。とにかく戻ろう」

総務課長は早々に逃げ出して自分の所に戻ってくると、ヘルメットを置いてため息をついた。

「それで、三谷君。説明してくれるかな?」

「はい、課長が今ごらんになった場所に変にコンクリートが流れ込んでいるために予定していた配線工事ができません。明らかに4階の変更工事の時にダクト内にコンクリートが流れたのが原因です。現在、対応策をとりますが、設計を変更するために三十万余計にかかります。その分を認めていただきたくてお願いに上がりました」

「オイオイ、俺にはそんな権限無いよ」

「これは明らかにビルの貸し主の責任です。全ての証拠はそろっています。お願いします」

「そう言うことか。まぁ、あと1年で出て行くならこれ以上義理立てすることもないか」

「お願いします。今回追加で使用する配線類は今後役に立ちますから」

「どう役に立てるんだい?」

「回線の電源をバッテリーでバックアップするのに役立てます。あとは小さな部品とバッテリーさえ買ってくればそれができます。特売で売ってる普通の自動車用のバッテリーで良いんです、ほんの十個ほど。それで停電時でも通信系統は守れます」

「分かった。部長に話してくる」

総務課長はそう言うと、もう一度事情を宏一に確認してから総務部長に会いに行った。そして十分もしないうちに戻ってくると、

「良かったな。許可が出たよ」

と言ってニッコリ笑った。宏一が直接総務部長に会いに行っても良かったのだが、これで総務課長の顔が立ったと言うものだ。こういう事は後できっとプラスになって帰ってくる。人の手間は掛けるものなのだ。

宏一はそれを聞くと再び社の前からタクシーに乗ると、今度は買い出しに出かけた。そこから友絵に電話を掛ける。

「あ、友絵さん?」

「はい、三谷さん。どうなりましたか?」

「エンブレスエンジとの話はついて総務課長の了解も貰った。明日の3時までに変更図面が届くから差し替えをお願いするよ」

「はい、分かりました。三谷さん、今はどこですか?」

「もう、友絵さん。電話の時くらい・・・」

「三谷さん、良く聞こえませんが?」

「はいはい、新藤さん。今は買い出しにタクシーの中ですよ」

「了解しました。でも三谷さん、4時くらいには戻ってきて下さい。オプトテックさんの仕事はそれくらいで終わりそうです」

「ええっ?早いなぁ、もう終わっちゃうの?さっき始めたばっかりなのに」

「早く戻ってきて下さいね。寂しいから」

「え?あの・・・・」

友絵の最後の言葉に驚いて聞き返した時には電話は切れていた。きっと友絵は電話の前でニヤニヤしていることだろう。全く、困った子だ。

 

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