ウォーター

第百四十二部

 


宏一は恵美との時間がどうなるのか考えてみた。恵美の様子から考えて、会って楽しい友達との食事、と言う感覚なのだろうと思う。しかし、恵美だって宏一との食事に何も期待していないわけではないだろう。上手く宏一がリードすればそれなりのことが起こる可能性はあった。取り敢えず、宏一は知り合いのバーテンダーに電話をして、中華街の近くで雰囲気の良い店を紹介して貰った。バーテンダー協会に属している店なら、たいていは快く他店を紹介してくれる。紹介専用のカードを持っている店も多い。

これでとにかく食事と酒の準備はできた。既に店と料理が決まっているので恵美と落ち合って空いている店を探して歩き回る必要はなくなった。店を探して歩き回るのも楽しいのだが、7時過ぎからそれを始めるとゆっくりと食事をする時間が無くなってしまう。まだ恵美が何時に変えるのか、食事の後に酒に誘えるかも分からないのだ。

それでも宏一が石川町に着いたのはちょうど7時になった時だった。改札を出て見渡すが、まだそれらしい女性の姿は見えない。ただ、恵美はかなり小柄なはずなので、ちょっと見ただけでは見つけられない可能性はある。それでも時間通りに来た宏一は駅前広場のちょっと横から改札の方を見ながら恵美を待っていた。

しかし、待っているとなかなか待ち人は来ないものだ。十五分ほどしてから、『もしかして見落としているのかも知れない』と思い改めて改札に近づくと、先程の場所からはキオスクの陰になっていた所に見覚えのある小柄な美人が立っていた。

「久しぶりですね」

「あ、来てたんですか。分からなかった」

「ちょっとあっちから見ていたものだから」

「いつ頃着いたんですか?」

「ちょうど7時頃だったかな?恵美さんは」

「5分ほど前です」

二人は自然に会話を始めると、中華街の方へ歩き出した。もちろん、会話をしながらでも宏一の頭の中では先程覚えた店の位置と現在地を常に確認しながら歩いている。

「恵美さんは職場からどれくらいかかったの?」

「だいたい四十分少々かな?三谷さんは?」

「一時間弱だね。早い奴で来たからもう少し短かったけど」

「ごめんなさいね。ギリギリまで連絡しなくて」

「ううん、待つのも楽しいものだよ。俺だって連絡しようと思えばできたのに、それをせずに待ってたんだから」

「ごめんなさい。今日はちょっと仕事が忙しくて」

「薬剤師さんだったよね。金曜日は忙しいの?」

「ううん、いつもと同じ。今日は早番だったから」

「早番の時は何時に終わるの?」

「早番は8時から始まって5時までだけど、いつもは残業になるの。でも、今日は約束があるって言って6時に終わってきたんです。ちょっと街に寄ってきたから遅くなってごめんなさい」

「何もこんなところで言わなくたって。大丈夫。全然遅れてないから」

「三谷さんはいつも遅いんですか?」

「それほどでもないかな。遅い時は凄く遅いけど。ねぇ、恵美さん、できれば名字じゃなくて名前で呼んでくれない?」

「そっちこそ、そんなことを道の上で言わなくたって良いのに」

そう言って恵美は軽快に笑った。

二人が着いた店は中華街でも老舗で通っている店で、かなり大きなビルだった。入り口が小さな広場になっているので待ち合わせに使う人も多い。二人が通されたのはグリルと呼ばれるフロアで、個室ではない一般客が使うフロアだ。歴史ある中華料理店そのままという感じの上品で落ち着いた内装で、既に半分近くが埋まっていた。

「凄い。ここに来たいとは思ったけど、来た事なんて無いもの」

「俺だって初めてだよ」

「良いんですか?こんなところに来ちゃって」

恵美は勘定のことを気にしているのかも知れない。もしかしたら言外に奢りかどうか確認しているのかも知れないと思った宏一は、はっきりと言った。

「良いんだよ。恵美さんと食事するならこれくらいの店にしないと悪いかな、と思って、って言うか、正直に言うと捜してる時間がなかったから電話を掛けた一軒目で決めちゃっただけなんだけど」

「三谷さん、あ、違った、宏一さん、でしたよね?わざわざ電話で予約してくれたんですか?殆ど時間がなかったのに」

「うん、運良く空いてて良かったよ」

「休みの日とかは凄く混んでるんです。ここの新館に飲茶のフロアがあるんですけど、1時間待ちとかですよ」

「そう、恵美さん知ってるんだ。良かった」

「良かったどころか、ここで食事できるなんて、明日友達に自慢しようかな?」

「早々、それで思い出したけど、一品はあるみたいなんだけど、基本的にはコースなんだって。だからコースを頼んどいたよ」

「充分、充分。もう、ここで食事ができるんだったら最高」

恵美はそう言ってニッコリ笑った。ここで宏一は恵美を改めて観察してみた。今日の恵美は薄手のブラウスの上に粗い目のサマーセーターを軽く羽織っている。スカートは膝丈の大人しい柄だ。全体的には落ち着いた良い雰囲気を出している。恵美の髪は緩くカールして肩まで伸びており、肩幅は小さめで形の良い胸の膨らみは小柄な割には大きそうだ。以前にフェリーで確かめた時の感触が頭の中で蘇る。あの時、少しだが確かに恵美は感じていた。

「どうしたの?そんなに見ないで欲しいのに」

「ごめんね。フェリー以来だから。なんか懐かしいと思った方が良いのか、改めて初めて会う感じの方が良いのか恵美さんを見ながら迷ってたんだ」

「それって、もしかしてアタックの方法でも考えてたの?」

恵美は笑いながら軽い感じで切り返してきたが、二人とも実はもっとも気にしていることなのでドキドキしながらお互いの反応を探った。しかし、ここではまだそれを深く語る時ではない。宏一は話を変えた。

「面白いね」

「え?何ですか?」

「ううん、何でもない」

「何ですか?そんな変な笑い方して」

「ごめんなさい。恵美さんと楽しく会話してるのが嬉しくて。本当だから」

「そう?」

「そうだよ。だって、フェリーでちょっと話をしてお酒を付き合って貰って、それでしばらく会ってなかったから」

「そうですねぇ。確かに不思議かも?・・・でも、往復のフェリーで一緒になったし、あんなこともあったし・・・・・かな?」

そう言って恵美は少し回想にふけったようだった。宏一は話を戻そうとした。

「そうでしょ?不思議だよね。だって、俺も恵美さんも会わなくちゃいけない理由なんてどこにもないでしょ?でも、俺は恵美さんに会いたかったし、恵美さんだって会ってくれる気になってくれたから」

「なんかその言い方、少し変」

「そうかなぁ。でも、正直に嬉しいって事は分かって欲しいな」

「それは私も同じ。宏一さんにまた会えるんだから」

「嬉しいね」

そんな話をしていると、飲み物の注文を取りに来て、宏一も恵美もビールを頼むと一品目が運ばれてきた。

「ほう、美味しそうだね。果物と、これは車エビかな?」

「うわぁ、綺麗。食べても良いですか?」

「それじゃ、恵美さん、また敢えて嬉しいです。乾杯」

「私も、乾杯」

宏一はグイッと一気にグラスを傾けた。暑い中を歩いてきたのでビールが旨い。恵美は余り飲めないようで、軽く口を付けただけだった。

「恵美さんはお酒、強くないの?」

「時々多めに飲むこともあるんですけど、普通は余り飲まないようにしてるの」

「何だ。今日はセーブしてるのか」

「セーブしてるって言うか、これが普通」

「そうか、でも、俺は飲む方だから恵美さんもいつもよりちょっとだけはたくさん飲んでくれると嬉しいな」

「はい、ちゃんとお付き合いはしますよ。ご心配なく」

「え?付き合ってくれるの?本当?」

宏一はちょっとおどけて見せた。しかし、その明け透けなやり方に恵美は眉をひそめた。

「三谷さん、まだ会ったばっかりじゃないですか。全部がこれからなのに、そんなに言うと帰っちゃいますよ」

「ごめんなさい。もう言いません」

宏一はペコリと頭を下げた。

「宏一さんて、ちゃんと謝るんですね。ふふふ、なんか、楽しいかも」

「恵美さん、機嫌直してくれた?」

「え?最初から悪くないですよ?どうして?」

「ううん、ちょっと気分を悪くしたかと思って」

「三谷さん、女の子を簡単に食事に誘い出せるくせに、観察は全然できないんですね」

「グサッと来るようなこと平気で言うなぁ、恵美さんは」

「傷付きました?ごめんなさい。悪気はないんですけどね」

「ううん、良いの。この車エビ、美味しいね」

「三谷さん、エビの種類なんて分かるんですか?私はぜーんぜんダメ」

「これくらいは分かるよ」

「それ、私に対する挑戦?」

「直ぐそっちに持って行こうとするんだから。恵美さん、きついなぁ」

「ごめんなさい。今日は少し攻撃的なのかも。そんなつもりはないんだけど、どうしても宏一さんを見てると突っ込みたくなるって言うか、ほんとに悪気はないんですよ?」

「え?恵美さん、関西の人なの?」

「高校までは神戸だったんです。親の仕事の関係で今はこっちですけど」

「そうか、それで会話が弾むんだね」

「そんなこと、無いと思うけどなぁ。どっちかって言うと三谷さんの方が会話が上手いかも?」

そんなことを話していると二品目のスープが出てきた。

「うわぁ、綺麗に細工してある。冬瓜?でしたっけ?とぉーっても素敵な香り」

「あは、聞けた聞けた」

「え?」

「恵美さんの口癖。『とぉーっても』っていうの」

「そうかな?あんまり気が付かなかったけど」

「ううん、恵美さんの魅力の一つだからそのままが良いな」

「でも、とぉっても美味しいですよ。三谷さんも見てないで食べないと」

「あ、名字で呼んだ」

「良いでしょ?こんなときは」

宏一がスープを口にしてから、

「あ、美味しい。金華ハムの味だね。で、こんな時って?」

「美味しいものが直ぐ目の前にある時」

「それもそうだね。まず食べようか」

宏一はそう言うとスープに手を付けた。

「美味しい」

「美味しいね。さすが有名な店だけあるね。化学調味料の味もしないし」

「香りが複雑でいろんな香りがするの」

恵美も楽しそうだ。恵美は宏一が用意した食事を心から楽しんでいる自分に少し驚いていた。自分の性格からすると、身近にいない人と食事に出ても余り楽しめないのが普通で、だからこそフェリーの中で気に入ったのに今まで食事のチャンスを作らなかったのだ。

 

 

 

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