ウォーター

第百四十三部

 


しかし、恵美は冬瓜のスープを飲みながら自分が思った以上にリラックスして食事を楽しんでいることに驚いていた。宏一はどう見ても普通の人で、恵美の好みから言えば少しずれているのだが、何故か近くにいて欲しくなる。恵美から見て宏一はそんな相手だった。これからどうなっていくのかは分からなかったが、宏一は恵美を上手にリードしてくれそうだし、お互いの生活エリアが離れているので、もし、会いたくなければそのままにしておくだけで消滅するだろう。恵美の場合、例え付き合っている人でもべったりというのは好きではない。適度な距離が欲しいのだ。そう言う意味で宏一は楽な相手と言えた。

ただ、恵美は宏一には何か自分を引きつける特別なものを感じているような気がした。それが何かは分からないが、何故か宏一と会った瞬間に安心したし、こうやって会っているとこのままこうしていたいと思ってしまう。それは警戒心を解くのに時間のかかる恵美自身にも不思議な感覚だった。

それからさらに食事が進み、北京ダックが出てくる頃になると恵美はすっかり宏一にうち解けていた。

「宏一さん、なんか言ってくれないんですか?」

「え?なにを?」

「北京ダックについて、何か教えて下さい。宏一さんて物知りだから・・・」

「そう言われると、何て言って良いか分からないけどなぁ・・・」

「ここの北京ダックってどうしてこんなに美味しいの?」

「それはね、とっても基本に忠実に作っているからだと思うよ」

「基本て?」

「ちゃんとした処理をしてから丁寧に水飴を塗って風を通しながら干しているから焼いた時に皮から油が抜けてサクサクになるんだ。だから、結構時間がかかっていると思うよ。この香りも、たぶん国産のアヒルじゃないんだろうね。手抜きの北京ダックだと単にアヒルを焼いて、皮だけ削ぎ落として出すけど、ちゃんと皮の部分だけが出てきたろう?焼く前に皮と身の間に空気を入れて身から剥がして・・・・・・」

恵美は宏一の説明も聞いていたが、それよりも宏一の声や仕草にのめり込んでいた。話す時の速度、調子、声の質がとても心地良い。それに食事のセッティングなど、限られた時間の中で最大限の努力をしてくれたことが伺える。それを全然アピールしない所が返って心に染み込んだ。

ただ、どうやら女性との縁はかなりありそうな雰囲気なので、余り真剣になると痛い目に遭いそうな気がする。だから、どの辺りまで近づけばいいのか迷ってしまうのだった。

「・・・・っていうことなんだ」

「そうなんだ。やっぱり宏一さんは物知りなのね」

「そう言われると・・・・、褒めて貰ったって思えばいいのかな?」

「もちろん」

「良かった。恵美さんみたいな頭のいい人に『物知り』って言われると、褒められてる気がしないんだ。俺は有名大学を出てるわけじゃないし」

「あら、私だってそうよ」

「だって恵美さんは薬剤師の免許持ってるし・・・・」

「それを言うならお医者さんだって看護婦さんだって、タクシーの運転手さんだって、みんな免許を持ってるのに」

「そうなんだけど・・・・・、特に免許なんて持ってないからコンプレックスなんだと思うよ」

「ふぅん、そうなんだ。それじゃ、今度は宏一さんのことを聞かせて。前にも少し聞いたけど、今度はちゃんと。良いでしょ?」

恵美は自分でもどうしてこんなに今日は良くしゃべるのか不思議だった。いつもの恵美ならデートに出ると、かなり大人しくなるのが普通で、相手の話題に合わせるばかりなのだが、今日は自分から話題を振っている。食事の中でうきうきしている自分が新鮮だった。

「・・・・と言う訳。それじゃ、今度は恵美さんが話して」

「え?私?」

「そうだよ。恵美さんの仕事のこととか話してよ」

「あんまり話すこと無いし・・・・・、それに、フェリーで話した通りだもの」

「そんなこと言わなくたって・・・・。それじゃ、恵美さんの休みの日は何してるの?」

「休みの日?最近はお友達と買い物に出たり、家で本を読んだり音楽を聴いたり・・・、話すようなことは何もないもの。宏一さんみたいに上手に話せないし・・・」

「そうか、困ったなぁ」

「困ってるのは私の方なのに。宏一さんが困らなくたって」

と恵美はケタケタと笑った。

食事はいよいよ最後のデザートへと進んでいく。普通の杏仁豆腐だったが、とても上品にできているもので、店の品格が分かるものだった。

「ところで、恵美さんは今日は何時くらいまで付き合って貰えるの?」

「う〜ん、特に決めてないけど」

「それじゃ、電車があるウチは大丈夫かな?」

「いいわよ。とっても楽しくて、もっとお話ししていたい感じ」

「嬉しいこと言ってくれるなぁ」

「宏一さんは今日は横浜にお泊まりするんですか?」

「うん、そうだね。そうしようかな、って思ってるけど」

「そう」

突然恵美が宏一に『泊まるのか』と聞いたのでとっさに答えてしまったが、もちろん宏一にはそんな予定は全くなかった。しかし、そう言うと言うことは恵美は部屋に誘われても言い、と言うサインかも知れない。宏一はそう思うと、慌てて頭の中で情報を探した。『そうだ。以前に泊まったホテルの電話番号が携帯に入っているはずだ』そう思い出した時、

「ちょっと失礼しますね」

と恵美は席を中座した。実はその時の恵美は単に宏一が横浜でゆっくり過ごしたいと思っているらしいので単に泊まるのか、と聞いただけで他意はなかった。それよりも宏一にどんどん引き込まれていく自分を少しだけリセットしたくて席を立ったのだった。

しかし、宏一は素早く携帯で以前に泊まったホテルに連絡を入れ、ツインを捜してもらった。ただ、さすが週末で殆どの部屋は埋まっており、スィートなら空いているという。さすがに宏一も迷ってしまった。恵美と一夜を過ごせるなら十万を超える部屋でも惜しくはないが、恵美が興味を示さなければ結局一人で過ごすことになり、豪華な部屋に一人きりでは寂しいことこの上ない。携帯でネットを使って旅行サイトの宿泊プランを捜せばもっと安いホテルや部屋が見るかるだろうが、恵美が中座している間にそれは時間的に無理だ。ただ、迷っていても仕方がない。宏一は思いきって予約してみることにした。偶にはピエロになる覚悟も必要なのだ。宏一は予約を伝えると、予約番号を受け取った。

電話を切って間もなく、

「ごめんなさい」

と恵美が戻ってきた。もしかしたら電話していたのを見られたかも知れなかった。その時になって宏一は気が付いた。恵美のバッグのサイズから見て、化粧品などしか入らないはずだ。そうなると、着替えなどは持っていないだろうから部屋に誘っても来ない可能性が高い。宏一は一気にがっかりしてしまった。まぁ、一人で高級スィートに泊まるのも想い出にはなる。

それから二人はとりとめもない話を続けた。その様子からは殆ど初対面とは思えない、まるで恋人同士のような雰囲気が漂っていた。そこで宏一は用意していたバーに誘えるかどうか聞いてみることにした。ただ、ここに行ったら少しの時間で出ないと宏一の予約したホテルに誘うには時間が足りなくなる。

「ねぇ、恵美さん、これからどこに行こうか?雰囲気の良いカクテルバーとか行ってみる?」

「そうねぇ、あんまりお酒は飲めないけど、それで良ければ」

「それとも、どこか行きたい所、ある?」

「ううん、ちょっとどうしようか迷ったの。宏一さんのお薦めのバーに行きましょ」

「分かった。ごめん、ちょっと待っててね」

そう言って宏一は席を立つと、用事を済ませて精算を終えた。

「お待ちどう様」

そう言って宏一は席に戻ると恵美を連れて店を出た。

「え?宏一さん、お勘定は?」

「終わったよ」

「え?あ、さっきの・・・いくらでした?」

「内緒」

「そんな、私だって・・・・」

「ごめんね。こんな時じゃないとお金を使うチャンスがないから。ね、今日は奢らせて」

「ありがとうございます。ごちそうさまでした」

恵美は宏一が見栄を張っているのかと思ったが、様子からするとそんな感じでもない。ごく自然なのだ。そこで、取り敢えず奢って貰うことにした。宏一なら奢って貰ってもそれを話に持ち出すような人ではないと思ったからだ。

二人は山下公園の方に一度出ると、通りでタクシーを拾って桜木町の方に向かった。タクシーの中で恵美は、もう一度、

「ありがとうございます。美味しい食事を奢って貰って」

と丁寧に頭を下げた。

「ううん、こんなに楽しい食事になるとは予想してなくて、嬉しい誤算だったんだ。恵美さんが喜んでくれるなら安いもんだよ」

「それじゃ、どういう食事になると思ってたの?」

「何て言うか、もっと普通な・・・・」

「普通って言うと?」

「それは・・・・・良く分かんないけど、たぶん、恵美さんが想像していたような・・・・」

宏一は苦肉の策でそう言ったが、

「そうかぁ、実は私ももっと淡々としたものになるのかなって思ってたの」

と恵美も白状した。

タクシーが着くと、恵美は宏一が用意したバーの雰囲気に酔いしれることになった。

「うわぁ、素敵なお店」

そこには瀟洒な煉瓦風の土台を持つ白い小さなバーがライトアップされていた。そして中に入るとほんの十人少々しか入れない小さな店だがオーク材のカウンターや二人用の小さなテーブルなど、オーナーの趣味の良さが感じられる洒落たバーが二人を迎え入れた。

「素敵なお店ですね」

恵美はそう言ってオーナーに挨拶すると、オーナーもニッコリと微笑んだ。宏一も挨拶して行きつけの店からの紹介であることを告げると、既に連絡が入っていたとのことだった。

「どうぞ、お好きな席に。まだごらんの通り空席がいっぱいありますから」

そうオーナーに言われて恵美が選んだのはオーク材の一枚板のカウンター席ではなく、二人用の小さなテーブル席だった。宏一は席に着きながら、恵美が宏一との時間を楽しむことに決めたことを知って嬉しくなった。もし恵美が単にこの店を楽しむつもりならオーナーと話のできるカウンター席を取っただろうからだ。

「恵美さん、どうする?ノンアルコールのカクテルを作ってもらう?それとも弱いロングショットのカクテルが良い?」

「ロングショットって?」

元々はお酒を楽しむよりも飲み物の組み合わせを楽しむために作られたカクテルで、お酒が弱いから量が少し多めで、だから長いグラスとかに入れるからそう呼ばれてるカクテルの種類だよ。お酒の強いのはショートグラスって言うね」

「どうしてお酒が必ず入るのかしら」

「お酒はいろんなものを溶かし込むからだよ。その辺りは恵美さんの方が専門だろ?」

「あ、そうか。それじゃぁ・・・ロングショットで」

「フルーティなのとすっきりしたのとどっちが良い?」

「フルーティなの」

「マスター、それじゃ、フルーティな奴で余りお酒の強くないのを作って下さい。私にはマンハッタンをシェイクで作っていただけますか?」

そう言ってカクテルを注文すると、二人の会話は更にうち解けたものになった。

 

 

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