ウォーター

第百五十部

 


 宏一はガウン姿のままで窓から夜景を眺めていた。恵美と華やかな夜景のイメージが重なり、宏一の心の中に恵美の笑顔と身体、透き通った声が染み込んでいく。

恵美が出てくると、宏一はフロントに電話を掛けてタクシーを聞いたが、いつも玄関で待っていると言う。

「宏一さん、今日はありがとう。おかげで元気になれたと思うの」

「こちらこそありがとう。また必ずだよ」

「はい」

そのまま宏一はキスしながら抱きしめようとしたが、

「キスだけ」

と言って恵美はわざと身体を離したまま宏一の手を抑えながらキスに応じてきた。宏一も仕方なく軽く肩を抱くだけにする。

「タクシー代、ある?」

「大丈夫。それくらい持ってるから。素敵な夜をありがとう。さようなら、また会いましょう」

恵美は宏一にそう言うと帰って行った。

 

恵美を送り出すと宏一はシャワーを軽く浴びた。ほんの今までの恵美の感触が手の中に残っている。宏一は本気で恵美に夢中になるかも知れないと思った。恵美の知性、物腰、受け答え、全てが宏一の好みだった。宏一自身、今夜、ここまで進めるとは思ってもいなかったが、こうなってしまったからには受け入れる以外にはない。宏一はベッドに入ると恵美の感触を思い出しながら目を閉じた。宏一の頭の中では恵美の声がまだ木霊のように響いていた。

 

朝になり、宏一が目を覚ますと時計を見た。時刻は既に7時半を回っている。慌てて起き上がるともう一回シャワーを浴びた。今日は由美との一泊デートの日なのだ。予定が一週間早まったのでまだ何も準備ができていない。宏一は慌てて身支度を調えるとホテルをチェックアウトし、自宅に戻りながら知り合いの旅行代理店に電話を掛けた。ここは宏一がよく使う個人でやっている代理店で、由美との京都旅行もアレンジしてくれた所だ。付き合いが長いので、細々と言わなくても直ぐに宏一の好みにアレンジしてくれる。

「三谷さんじゃないの?どうしたの?こんなに朝早くから」

「うん、ちょっとまたお願いしたくて」

「良いよ。任せておいて」

「急で悪いんだけど、今日、一泊で良い所に止まれないかな?」

「今日?確かに急だね。どんな所が良いの?」

「二人でゆっくりできる、素敵な雰囲気のホテルが良いな」

「値段は?」

「お任せ」

「場所は?」

「明日はお昼までに戻ってこなくちゃいけないから、どっちかって言うと近くだね」

「旅館じゃなくてベッドが良いんだね?」

「そう、ツインでもダブルでも、広くて素敵な所なら」

「広くて素敵なホテルだね。分かった。新幹線とかレンタカーは?」

「場所が決まったら考えるよ」

「三十分頂戴。まず部屋を押さえるから」

「わかった。ありがとう」

「どういたしまして」

宏一は私鉄を乗り継いで自宅へと向かいながら返事を待った。すると、自宅に着く直前になって返事があった。

「三谷さん、軽井沢で良い?」

「いいよ」

「良い部屋がちょうど空いてたよ。リニューアルして出来上がったばっかりの所」

「さすがだね」

「ちょっと高めだけど、その分部屋が良いから」

「良いよ。信用してるから」

「チェックインは4時にしてあるから、変更があれば直接伝えて」

「了解」

「それと、食事が2回付いているけど、アップグレードしておいたからね」

「ありがとう。助かるよ」

「新幹線とレンタカーだけど、どうする?」

「そうだな・・・・・・・・ちょっと待って」

宏一は軽井沢の地理を思い出した。

「今日は天気が良いだろ?長野から志賀高原を通っていきたいな」

「分かった。新幹線で長野駅迄行ってレンタカーだね。東京の出発は何時?」

「十時。車は明日の十一時に軽井沢で返すから」

「良い車を抑えておくよ」

「頼むよ」

「三谷さんのカードで払っておくね」

「うん、分かった」

「毎度あり」

宏一は部屋に入ると手早く一泊の支度をし、もう一度軽くシャワーを浴びて服を着替えると東京駅に向かった。部屋を出た時間は9時近くで、東京駅までギリギリだった。途中で手配を頼んだホテルと新幹線とレンタカーの予約番号と詳細がメールで送られてきた。

 

由美は東京駅の八重洲北口の改札で宏一を待っていた。今回は待ち合わせ時間よりも二十分も早く着いてしまった。すると十分前に宏一から電話が来た。

「由美ちゃん?」

「はい、宏一さん」

「今、どこ?」

「八重洲の北口の改札の前にいます」

「それじゃ、悪いけど入場券を買って改札を入って、長野新幹線乗り場に来て貰える?中で待ち合わせよう。北口に一番近い新幹線改札だよ」

「はい、分かりました」

由美はそう言うと言われた通りに移動した。駅の中はとてもうるさいので携帯は握りしめたままだ。しっかりと握りしめて宏一からの連絡を絶対に逃さないつもりなのだ。新幹線改札に到着すると、キョロキョロと辺りを見回す。少し見ていると、再び電話がかかってきた。

「由美ちゃん?」

「はい、今、どこですか?」

「もう着いたよ」

「え?どこ?」

「ここ」

その声が携帯と同時に後ろから聞こえてきたので由美が振り返ると、宏一が笑顔で立っていた。

「宏一さん」

「お待たせ。少し待たせてごめんね」

「ううん、私が勝手に早く来ただけだから」

「じゃ、行こうか?」

「はい」

「これが切符。あんまり時間、無いんだ」

宏一は由美に切符を渡すと、自分の分を持って直ぐに改札を通った。

「宏一さん、遠くに行くんですか?」

「まぁ、少しはね」

「遠くでなくても良かったのに。宏一さんと一緒なら」

「ごめんね。由美ちゃんの笑顔が見たかったから、綺麗な景色を見に行くことにしたんだ。今日は天気が良いよ」

「どこに行くんですか?」

「知りたい?」

「あ・・・・・、やっぱり、いいです」

由美は以前に宏一と京都と北海道に旅行に行った時も行き先を聞かなかったことを思い出した。只、あの時は最初に京都に行きたい、と自分から言ったので、だいたい予想は付いていたが。只、北海道に連れて行かれるとは夢にも思わず、それがとても楽しい想い出になっている。

「それじゃ、お楽しみだね・・・・・って言うけど、その切符にしっかりと書いてあるけどね」

「長野?ですか?」

「そうだよ」

二人はホームに上がると、ちょうど列車が回送で入線してくる所で、直ぐに指定されたグリーン車に座った。

実は宏一は、東京駅について直ぐ、改札の中にある緑の窓口のグリーン券売機に自分のカードを差し込み、業者が予約してくれた番号を入れて二人分の長野までの切符を取り出した。だから宏一も切符を受け取るまで発車時間も列車名も、座席も知らなかったのだ。

「宏一さん、長野新幹線て、初めてなんです」

「そう、良かったね。綺麗な景色が見られると良いね」

「はい」

「でも、ホテルでの時間もたっぷり取ってあるからね」

「はい」

由美はニッコリと微笑んだ。実は、由美としては宏一と二人でお台場かディズニーで遊んでからホテルには入れればいいな、と思っていた。時間としてはちょうどそんなもんだと思っていたのだ。今回は元々一泊だし、昨日になって決まったので遠出することはないと思っていたのだ。もちろん、由美だって旅行は大好きだが、今回はそれよりも宏一と一緒にいることが目的だった。だから、宏一と一緒ならどこでも良いと本気で思っていた。極端に言えば、いつもの部屋でも良かったのだ。誰にも邪魔されず、宏一と二人だけの時間が過ごせれば場所など関係なかった。

しかし、宏一には由美のそんな考えが分かるはずもない。限られた時間の中でどれだけ由美が喜んでくれるか、それを考えた。

「宏一さん、こんなおっきい座席、初めてです」

「グリーンだからね」

「とっても気持ち良いんですけど・・・」

「どうしたの?」

「宏一さんと席が離れてるから・・・・」

由美は座席が広くてゆったりとしている事よりも、宏一に寄り添っていたかった。だから、グリーンの席と席との間のコンソールが邪魔で仕方なかった。普通席なら跳ね上げてしまえるが、グリーン席は各座席が独立しており、由美はいくら身体を傾けても宏一に寄り添うことができなかった。

「まぁ、長野までだから直ぐだよ」

「どれくらい?」

「一時間半くらいかな?」

「むぅ・・・・・長い・・・・」

「ごめんね」

「ううん、宏一さんが私のことを考えて用意してくれたから、嬉しい」

「ありがと」

「でも、ちょっと寂しい」

「分かったよ。次は車だから一緒にいられるよ」

「え?車に乗るんですか?それってレンタカー?」

「あ、言っちゃいけなかったかな?」

「そうか、でも、良いです。わざと内緒じゃなくても」

由美はそう言って笑った。列車は大宮を過ぎると速度を上げ、景色も郊外の風景に変わってくる。由美は初めての景色に興味を持ったようで、ずっと外を眺めていた。以前に京都に行った時とは全然車窓が違う。宏一は少し疲れが出たようで、目を閉じている間に少し寝てしまったようだった。しばらくして、

「わぁっ、素敵な所」

由美のその声で目を覚ましたのは軽井沢だった。高崎を過ぎると山沿いから碓氷峠を連続した長いトンネルで一気に駆け上がるので、慣れない由美にとっては突然高原に来たみたいだった。

 

 

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