ウォーター

第百五十一部

 


宏一は由美が喜ぶ顔を眺めながら、これからできるだけたくさん由美の笑顔を見たいと思っていた。由美が喜ぶような景色を眺め、由美が喜ぶ食事を楽しみ、由美が満足するセックスをしたかった。明日の午後には東京に戻らなくてはいけないのだから時間は限られている。

「綺麗な所だね。ここを過ぎたら山を下るから、この先は高原の景色じゃないよ。今の内に楽しんでおいてね」

「そうなんだ・・・・。こんなところに泊まれたら素敵なのに・・・・・」

由美はポツリとつぶやいた。

「ねぇ、宏一さん」

「なあに?」

「長野でも車でこんな素敵な所に行きますか?」

「どうだろうねぇ???由美ちゃんはこう言う所が良いの?」

「あこがれてるんです。高原の景色に。行ったことがないから。広い草原と眩しい日差し、そして吹いていく風、なんて・・・・」

「学校の合宿とかで行かなかったの?」

「中学校の時に丹沢には行ったけど、あれは高原じゃないし・・・」

「そうか。それじゃ、お楽しみだね」

「高原て、白樺とかがいっぱいあるし、葉っぱがとっても綺麗で素敵」

そんなことを話している内に列車は軽井沢を過ぎ、浅間山の麓を一気に駆け下りていった。そこから長野まではほんの三十分ほどだ。

新幹線が長野に着くと、二人は東口から出てレンタカーショップに向かった。宏一に旅行代理店から届いたメールにはちゃんと場所の案内も詳しく出ている。駅の直ぐ近くなのでGPSを使う暇もなかった。

「由美ちゃん、ちょっと待っててね。車を借りてくるから」

宏一はそう言って由美を店の外で待たせ、手続きをした。手続きと言っても宏一は会員になっているので運転免許証のコピーを取って貰った以外、後は予約内容の確認と返却する場所の確認くらいで、ほんの数分で終わった。

「お客様はラッキーですね。今朝返ってきたばかりの車なんです。整備が終わってコンピューターに入力した途端に予約されちゃいました。この車は普段はこの店にいないものですから」

若い女性の店員はニッコリと笑ってそう言った。

「そうなんですか」

「特にフェアレディは数が少ないもので」

「ラッキーだったな」

宏一はそう言ったが、宏一自身、今知ったばかりなので内心はかなり驚いていた。学生時代はかなり運転したのでスポーツカーといえども不安はなかったが、いきなりなのでかなり精神的には来ている。

「それではただいま、お車を前に回しますのであちらでお連れ様とお待ち下さい」

店員はそう言うと、インターホンで出庫の指示をした。

「由美ちゃん、お待たせ」

「はい、終わったんですか?」

「待ちくたびれた?」

「全然。ここはいろんな車があって凄いですね」

「そりゃまぁ、レンタカーショップだから・・・・・」

そう言っている内に低く太い排気音と共にオレンジ色のフェアレディが目の前に出てきた。

「ええっ?この車で行くんですか?」

由美は目を丸くしている。

「そうだよ。もう借りちゃったからね。さぁ、荷物を積んで出かけようか」

宏一はそう言うと、車を運転してきた整備士に、

「トランクを開けていただけますか?」

と言った。二人が荷物を積むと、整備士が説明をしてくれた。

「それではご説明させていただきます。まず、とてもパワーのある車なので、とにかくゆっくりと走らせて下さい。ゆっくりと走っているつもりでもスピードはかなり出てますから。常にスピードメーターに注意していて下さい。気を抜くとあっという間にスピード違反になりますから。カーブでは限界が高いですが、絶対に無理はしないで下さい。カーナビをご希望でしたが、ここに標準で付いてます。それと・・・・・・」

整備士が余り心配するので、宏一自身も不安になったくらいだが、実際に走らせてみるととても素直な車で、大きさも殆ど感じなかった。

「なんか、凄い車ですねぇ・・・・・」

確かに安定感と言い、エンジン音や排気音と言い、控えめと言えどもしっかりとスポーツカーを主張している。

「そうだね」

「それに、また宏一さんと離ればなれだし・・・・」

確かにこの車はセンターコンソールでドライバーとパッセンジャーをはっきりと区切っており、新幹線以上に二人の距離は離れているので由美が宏一に寄りかかるわけにはいかない。

「ごめんね。急な予約でゆっくりと考えていられなかったよ」

「宏一さんが悪いんじゃありません。大丈夫。嬉しいですよ。こんな素敵な車に乗れて」

由美はそう言うと、

「これ、なんなんでしょう?」

とパカパカとあちこちを開け始めた。

「由美ちゃん、もう少ししたらコンビニに止まるから、ちょっとだけお腹に入れるものを買ってきてくれない?全部由美ちゃんに任せるから。実は、お昼を食べる時間があんまり無いんだ。今お昼になったけど、まだ1時間以上かかるから、それまでの繋ぎだよ」

「私、それくらい我慢できますよ」

「ううん、俺だって少しくらい何か欲しいから、パンやおにぎりなんかが少しあると嬉しいな」

「分かりました。何か買ってきます」

宏一が車をコンビニに止めると、由美はさっと降りてあっという間に返ってきた。

「それにしても早かったね」

「宏一さん、なんか面白そうなのがあったから買って来ちゃいました」

そう言って由美が見せたのはお焼きだった。

「そうか、由美ちゃんはお焼きは初めてなんだね」

「何だ、宏一さんは知ってたんだ」

「そりゃそうだよ。有名だからね」

「私、コンビニって日本中で同じものを売ってるんだと思ってました」

「そんなことはないよ。名物だって売るし、観光客の多い所にあるコンビニだったらお土産だって売ってるよ」

「そうなんだ・・・・。それと、この車、カッコいいですね。オレンジで目立つし」

「そう?ちょっと観光で回るには座席が低いかなって思ってたんだ」

宏一はそう言うと車を上信越道に入れて北上を始めた。

「あれ?北の方に行くんですか?えーと、長野の北って新潟県でしたよね?」

「そうだよ。でも、高速道路はほんの少しだけ。直ぐに降りちゃうからね」

「なあんだ。つまんない。うわぁ、凄いスピード」

「座席が低いからスピード感があるよね」

「スピード感が感じられるように低くしてあるんですか?」

「違うよ。空気抵抗を少なくするためさ」

「そうなんだ」

二人の車は信州中野インターで降りると、畑の中を通り抜けていった。

「さっき気が付いたんですけど、ほんとに長野ってリンゴの木が多いんですね。もう実が付いてました」

とか、

「栗の木がありますよ」

とか、宏一が驚くほど植物のことを知っていた。そして車は湯田中を通ってから山道をぐいぐい登り始めた。由美は窓の外の景色に釘付けになっている。

そしていよいよ車が志賀高原への登り道に入ると、車は本来の機能を発揮し始めた。十分に安全の余裕を取った上でコーナリングを楽しみ始める。かなり急な上り坂をものともせずに圧倒的な安定性で次々とコーナーをクリアし始めると、由美は大喜びだった。

「ひゃぁーっ、ジェットコースターみたい」

「身体が横に押し付けられるぅッ」

「目が回っちゃうぅ」

と細かいカーブが連続する区間やループになっている区間で大喜びだった。

「宏一さん、志賀高原て聞いたことはあるんですけど、初めてですよ。東京にいると、こんな景色を見る事なんて絶対にないですよね。こんな景色を見てると、さっきまで東京にいたなんて信じられない」

「由美ちゃんはこっちの方に来るのは初めてなんだよね」

「はい、そうです」

「志賀高原は長野市のほぼ東にあるんだ」

「はい」

「そこから今度は南下していくからね」

「長野市の東に来て、そこから南に行く?」

「そう、今日の目的地は分かったかな?」

「えーとえーと・・・・・ちょっと考えさせて下さい」

「分かったよ。後でまた聞くからね。それはそうと、だいぶ高い所に来ただろう?」

「うわぁ本当だ。遠くまでよく見える」

「もうすぐ志賀高原に着くから、ちょっと志賀高原を車の中からだけど案内するね」

「はい。お願いします」

宏一は蓮池の分岐を左に曲がると、車を奥志賀方面へと進めた。しばらくトンネルが続いたが、宏一が車を止めたのは高天が原マンモススキー場の隣だった。久しぶりに車を降りた由美は、

「うわぁ、涼しいッ」

と声を上げた。標高が高いので夏でも本当に涼しい。ここの気温は夏でも二十度少々しかない。由美は周り中にある高山植物などを見ながら、

「素敵な所!」

と大喜びだった。

「由美ちゃん、ここは標高が高いから景色がとっても綺麗だろ?」

「はい、どれくらいあるんですか?標高」

「二千メートルくらいかな」

「凄い、こんなに広いのにそんなに高いなんて」

「そうだね。日本でも2千メートル級の高原て言うと数は少ないんだよ」

「宏一さん、あそこ、何か大きな木がありますね」

「ちょっと車で近くに行ってみようか?」

「はい」

宏一が車を近くに止めると、由美は不思議そうに木を眺め始めた。

「何か、おとぎの国かこびとの国に来たみたい。凄く木が大きい・・・・」

由美が見ている辺りはどうやらスキー場のようだが、普通のスキー場と違って斜面には大きなブナの木が数多く点在しており、木と木の距離が離れているので、その間をゆっくりと縫って滑ってくるようになっている。

「タンネの森って言うんだよ。ここのスキー場は大きなブナの木をそのまま残してあって、その間をゆっくりと滑って楽しむ所なんだ。なだらかだけど広いからボーダーにも人気があるんだ」

「私、スキーもボードもできません・・・・・」

「そうか、冬になったら一緒に来られると良いね」

「宏一さんはどっちもできるんですか?」

「学生時代にだいぶやったからね」

「私に教えて欲しいな・・・・・・」

由美はそう言って全く雪のないスキー場を眺めていた。由美の目には宏一と一緒に滑っている姿が映っているかのようだった。由美はここの景色が気に入ったようだ。

 

 

 

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