ウォーター

第百七十五部

 


東京駅は思ったより混んでいた。二人は人で溢れるコンコースをずっとくっついて通り抜け、地下鉄に乗り込んでもずっと軽く抱き合ったままだった。

「宏一さん、少し恥ずかしい。そんなに混んでないのに」

「いや?」

「ううん、嬉しいの。でも、身体が反応しちゃいます・・・」

「もうすぐだからね」

「はい」

由美はそう言うと宏一に身体を密着させてきた。宏一と別れるまであと30分ほどしかない。由美は身体の奥にまだ熾火のように残っている小さな疼きを感じながら、落ち着いて宏一を送り出せそうな気がしていた。やはり身体が満足していると心の落ち着きが全然違う。少し無理して宏一と出かけて良かったと思った。

その頃、宏一の住む部屋の近くのコンビニに一人の少女がいた。そして宏一が通るのをずっと待っていた。ただ、宏一を見かけても声を掛けるかどうか迷っており、そのまま通り過ぎるのを見るだけになるかも知れないと思っていた。第一、何と声を掛けて良いか分からないのだ。少女はもう少し待ってみようと思っていた。どうせ何の連絡もしていないのだから、いつ宏一がここを通るか分からない。もし今、既に宏一が部屋にいるのなら、明日までここを通らないことだってあり得るのだと分かっていた。

渋谷まで来ると宏一は由美と別れる時が来た。だが、先に言い出したのは由美の方だった。

「宏一さん、それじゃ、私ちょっと買い物によってから帰ります」

「うん、由美ちゃん、ありがとう」

そう言うと宏一は由美のほっぺたに軽くキスをした。それはとても自然なものだったので由美はもう一度安心できた。だが、由美は宏一が歩き去っていくのを見送っていると、やはり心が乱れてくるのを感じないわけにはいかなかった。宏一が見えなくなってからゆっくりと歩き出すと、『部屋に行ったら、いっちゃんはやっぱり怒るかな?』と思い始めた。

それからしばらくして、一枝が宏一の部屋に入り、落ち着かなく部屋の中でうろうろしていた。どうも居心地が悪い。ワンルームでベッドと机しかない部屋なので漫画を見て過ごすわけにも行かず、机の隅にノートパソコンが置いてはあるものの、とてもネットどころではなかった。

それでも落ち着かないまま二十分も待っていただろうか、突然ドアが開いて宏一が入ってきた。

「あ、一枝ちゃん、もう来てたんだね。待たせちゃった?」

「い、いえ、それほどでも・・・・・」

「今、飲み物出すからね。何が良いんだっけ?」

「オレンジジュースかスポーツドリンク・・・・・」

「うん、あるよ。缶のままで良い?」

「はい」

宏一は一枝にオレンジジュースを渡し、自分はペプシを飲み始めた。

「お腹、空いてる?」

「いえ、ぜんぜん・・・・・」

「そうだよね。さっきお昼を過ぎたばっかりだもんね」

「はい・・・・」

「どうしたの?元気がないね」

「そう言うわけでは・・・・・・」

「緊張してる?」

「・・・・・・・うん・・・・・」

「自分が緊張してるのが分かるんなら問題ないね」

「・・・何の問題?」

「ううん、緊張しすぎてると何が起こったか覚えてなかったりするからさ」

「ゆんはそうだったの?」

「由美ちゃん?ううん、覚えてなかったのは俺だよ。前にした会社面接でね」

「宏一さんでも緊張するんだ」

「もちろん。俺なんて緊張しすぎて困るくらいだよ」

「へぇ、そうなんだ」

「そうさ。俺は緊張なんてしないって思ってたの?」

「うん。宏一さんはいつも余裕十分だから」

「そうかなぁ。今だって結構緊張してるんだよ」

「嘘。私は緊張してるけど」

「俺だってしてるよ」

一枝は宏一とそんな他愛もない話をしながら、少しずつ緊張が解れてくるのを感じていた。

「ねぇ、それじゃ、側に行っても良い?」

そう言うと宏一は一枝の隣に密着して座った。途端に一枝は固くなり、ジュースを持った手が止まってしまう。

「ちょっとだけ手を回すね。一枝ちゃんを感じていたいから」

「・・・・・・・・・・・」

一枝は宏一が直ぐに手を回してきたことで、宏一が急いでいると思った。

「どうしたの?何にも話さなくなっちゃったね」

「宏一さん、さっさと終わらせたいと思ってる・・・・」

「え?そんなこと無いよ」

「嘘、そうに決まってる。いつもゆっくりお話ししてからなのに今日は直ぐだなんて変だもの」

「一枝ちゃん、前にも言ったでしょ。この部屋の中では一枝ちゃんを本気で好きになるよって。それは今日も一緒だよ」

「だって・・・・・」

一枝は少し不満そうに下を向いた。

「こうした方が早く一枝ちゃんとの間の緊張した雰囲気が柔らかくなるかなって思っただけ。嫌なら離れるよ」

そう言うと宏一は一枝から一旦離れた。

「いや、このままいて・・・」

「いいの?」

一枝はコックリと頷いた。一枝はどうしたら良いのか分からないのだ。

「それじゃ、こうしてあげる」

宏一はそう言うと、一枝の横から少し身体を後ろにずらし、一枝を斜め後ろから抱きしめるような体勢を取った。そっと両手を一枝の前に回して胸の膨らみが少しだけ宏一の手に当たるくらいの抱きしめ方だ。

「一枝ちゃん、どう?これで良い?」

「うん・・・・・・・」

「このまま少しお話ししようか」

「何の話?」

「何が良いかな?」

「宏一さん、ゆんのこと、好き?」

いきなり一枝が聞いてきたので宏一は驚いた。しかし、一枝にしてみれば心の整理をしておきたかった。

「うん、好きだよ」

「それで私とこんなことして、良いの?」

「え?でも、由美ちゃんは・・・・」

「ゆんの事じゃなくて、宏一さんは良いの?」

「由美ちゃんからのお願いだし、それに、一枝ちゃんは可愛いからね。男だったら誰だって一枝ちゃんとこんなことしてみたいと思うよ」

「本当?」

「うん、一枝ちゃん、男の子に人気があるだろう?」

「全然、全くそんなの無いわ」

「ふうん、一枝ちゃんの周りの男子は好みが変わってるのかな?」

「違うの。私に魅力がないのよ」

「そんなことないよ」

「ううん、そうなの。だって、宏一さんは普段私がどんな風に学校で勉強したり話したりしてるか知らないでしょ?」

「そりゃそうだけど」

「きっと、私のそこんところが女の子らしくないのよ」

「そうかな?」

「そうなの。ゆんは学校ではどっちかって言うと大人しいからあんまり目立たないけど、あのルックスでしょ?結構目を付けてる男子は多いんだから」

幸一は学校での由美について初めて一枝から聞かされ、もっと由美のことを聞きたかったが、今腕の中にいるのは一枝だ。

「一枝ちゃんは学校で告られたこと、無いの?」

「無いわ。一度も」

「それじゃ、一枝ちゃんから告るの?」

「そう、私の場合、全部それ。一度で良いからラブレターとか貰ってみたいわ」

「出す方なの?」

「私が?まさか。せいぜい誘い出すメールが良いとこね」

「そうなんだ。結構苦労してるんだね」

「そうよ。分かってくれる?」

「うん、分かるよ。俺も学生の時はそうだったから」

「宏一さんもなの?信じられない」

「俺は高校の時、全然女子に人気がなかったから、一枝ちゃんの言ってること、凄く良く分かるよ」

「へぇ、こんなに素敵なのに」

「高校の時はこうじゃなかったんだろうね。俺自身は良く分からないけど」

「私も宏一さんの歳くらいになればそうなれる?」

「たぶんね。後は努力次第だと思うよ」

「どんなことしたの?」

「大学の時から幹事みたいなのは良くやるようにしたし・・・・」

「幹事って?」

「世話役だね。飲み会のメンバーを集めたりお金の計算したり、旅行の予約したり・・・・」

「そうか、私もそうすれば素敵になれる?」

「うん、たぶんね。みんな、自分の役に立ってくれる人は好きなものだよ」

「そうか。分かった。私、そう言うこと、嫌いじゃないから」

「きっと人気者になれるよ。それと、付き合う友達が増えたら人前で絶対悪口を言っちゃダメだよ。絶対に伝わるから」

「うん、わかった」

一枝は宏一の暖かさを背中で感じながら、だんだん自分の中で緊張が解れてくるのが分かった。何となく、今日、このまま幸一に抱かれるのもその為の一歩だという気がしてくる。一枝は宏一の両手を更に抱き込んで、もっと宏一の手が乳房に触れるようにした。それは明らかに宏一に対する一枝のサインだった。

「一枝ちゃん、そんなふうに一生懸命な一枝ちゃん、好きだよ」

「私のこと、好きになってくれる?」

「うん」

「この部屋だけ?」

「ううん、たぶん、この部屋を出ても・・・・だと思う」

「ゆんに悪くない?」

「気持ちだけはどうにもできないよ。本当に一枝ちゃんのこと、とっても可愛いって思ってるから。信じてくれる?」

「うん、信じる」

「良かった。嬉しいよ」

そう言うと宏一はそっと一枝の首筋に口づけした。

 

 

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