いくつか駅を過ぎて回りがだいぶ入れ替わった頃、友絵は小さな声で、
「お腹、空いたの」
と言って宏一の腕に手を回してきた。
「友絵さん、お昼はあんまり食べなかったみたいだね」
「だって・・・・・、これから宏一さんとの食事だから・・・」
と少し甘えた様子で宏一に囁いた。
「それじゃ、今日はたくさん食べてね。楽しみにしてたんだから」
「もちろん、それだけが楽しみで頑張ったんだから」
「それと、食事の後はどうする？泊まっていけるの？」
宏一は一番気になっていることを聞いた。しかし、友絵は残念そうな顔だ。
「ごめんなさい。明日の朝、一番で家に戻らないといけないの。８時半までに帰らないといけないから・・・・・・。家の手伝いで・・・・」
「そうなんだ・・・・・・残念だよ・・・・」
「私も・・・・・・」
友絵の話では、実家の工務店に土日の仕事が入ってきて、全員でやらないと間に合わなくなったらしい。もともと東北での仕事が多くて近隣の業界全体の人が少なくなっていてあちこち人手不足になっているところに、更に追加での仕事が入ってきたので他の工務店から人を借りてやることになったらしい。だからいつもは家で事務をやっている母親が現場での調整に出る必要が出たため、友絵と令子が家で連絡をする必要があるとのことだ。
「令子ちゃんだけじゃダメなの？」
「お金が絡むからさすが学生には・・・・・」
と友絵も寂しそうだ。
「何時くらいまで大丈夫？」
宏一は心配になって聞いた。
「今夜中に帰れば良いから。明日の朝早く、出れば間に合うから・・・」
友絵は済まなそうに答えた。しかし、友絵が悪い訳では無いので仕方が無い。
「それじゃ、今日は思いっきり楽しもうね」
宏一がにっこりを笑って言うと、友絵もにっこり微笑んで答えた。
「はい」
「でも、友絵さんにしては和食なんて珍しいね」
宏一が友絵の指定したレストランのことを話題にした。
「なかなかきちんとした和食って、外で食べることが無いから。それに、居酒屋と違って和食なら回りは静かだし・・・・・。宏一さんとゆっくりと過ごせるかなって思って」
「そうだね。友絵さんの部屋とかに行くことになってると、どうしてもそっちに意識が行っちゃって、直ぐに出たくなるからね」
宏一はそう言ってちょっとだけウィンクした。
「私だって・・・・」
どうやら友絵も同じ事を考えたらしい。
そして二人は新橋でゆりかもめに乗り換え、お台場に向かった。そして二人が着いたレストランは、ホテルの中にある和食の店だった。しかし、二人の席は店内では無く、バルコニーに作られた席だ。
「ねぇ、ここって、この前まで航空会社のホテルだったところだよね。今はアメリカ系のホテルになってるけど。ここを選んだのは景色が良いから？」
宏一が興味津々で聞いた。確かに、レインボーブリッジが目の前に大きく見える席だ。
「そう、バルコニーなら宏一さんはタバコを吸えるし、景色が綺麗だと思って。でも、バルコニーの外が遊歩道になってるなんて知らなかった。結構人が歩いてて・・・」
確かにバルコニーを仕切られた席の外側は遊歩道になっており、それなりの人が歩いている。カップルも多い。友絵としては、自分たちと景色の間にその他大勢が入るのはがっかりなのだろう。
「まぁ、これだけ景色が良くて、バルコニー席はゆったりしてるしね。これ以上の贅沢は言わないことだよ」
「まぁ、そうよね。あんまり贅沢言ってても楽しめないし」
友絵はそう言うと二人の時間を楽しむことにした。食事そのものは品のある料理で、丁寧に作り上げた作品という感じが伝わってくる、日本食の良さを感じられる料理が多かった。一つずつの量が少ないのも二人で取り分けながらいろいろなものを楽しめるのが嬉しかった。季節の煮物は野菜の味が生きていたし、刺身は言うに及ばず、焼き魚もとても美味しかった。皿に小さな七輪で焼く牛肉は脂がのっていれば良いというようなものでは無く、吟味したＡ３やＡ４ランクのものを使っているそうだ。
肉のランクを聞いて満足そうな宏一に友絵は不思議そうに聞いてきた。
「お肉ってＡ５が良いんじゃ無いの？」
「もともとＡとか５とかが何を示すか知っててＡ５が良いって言うならともかく、Ａ５以外は肉じゃ無いなんて言ってる人にはこの肉の良さは分からないよね」
「これ、とっても美味しいの。それは思う。Ａ５じゃないのに・・・・」
「Ａは牛の何パーセントが食べられる肉になるか、つまり可食部の割合が高いことを示していて、次の４とか５とかは脂肪の割合を表してるんだ。だからＡ５って言えば可食部ががたくさん付いてて脂肪が多いって事だよ」
「脂ののった肉が美味しいって言うのは分かるけど、可食部の割合って・・・・」
「そうさ、食べる人から見れば牛に筋肉がたくさん付いていてもいなくても変わらないよね。だから本当は肉の割合が少ないＢランクでも美味しい肉はあるのかも知れない。でも、一般的に言ってＡランクの方が軟らかい肉が多いみたいだよ。でも、脂ばっかり乗っていれば良いってものじゃ無いよね？脂の味もいいけど肉の味だって大切だもの。特に最近は脂の味だけじゃ無くて赤身の肉の味にも注目するようになってきてるからね。俺は個人的には脂が少し少ないＡ４くらいが一番美味しい肉が多いと思うんだ」
「そうなの・・・・知らなかった。私、Ａ５なら何でも良いのかと思ってた」
「Ａ５ってメニューに書けばお金を取れるからね。逆に言うと、Ａ４て書いてそれなりの値段を付けるには勇気が要るだろ？それをやってるって事は、肉の味に自信があるって事だよ」
「ふうん、そう言うことなのね。でも、このお肉、確かに赤身が多いけど噛み締めるととっても良い味がするの。飲み込みたくないって思っちゃう」
「そうだね。本当に美味しいね」
「それじゃ、もう一つ教えてもらえます？」
「なんだい？」
「熟成肉って、なあに？」
「あぁ、最近はブームだよね」
「肉を熟成するってどういうこと？」
「もともとは、アメリカでやっている問屋から仕入れた肉を自分の店できちんと温度と湿度を管理した場所で置いておくと美味しい肉になるってことが、やっと日本に入ってきてブームになったんだ」
「やっと？」
「そう、アメリカでは２５年以上前から一流の店ではやってるからね。お店から肉を預かって熟成だけをする商売もあるんだよ」
「それが日本で今、ブームなの？」
「そう。だけど、日本だって今まで肉を熟成していなかったか、って言えばそうじゃないんだ」
「そうなの？だって・・・・」
「日本では枝肉って言って、問屋さんが牛を解体した半身の状態で熟成させてから肉屋さんやレストランに出荷していたからみんな知らないだけなんだよ。日本だって、ちゃんと肉の熟成文化は前からあるんだ」
「そうなんだ。それで、味は？」
「熟成させると、まず肉が柔らかくなるよ。適度な歯ごたえはあるけど柔らかいのが特徴かな？味としては脂の味が抑えられて赤身肉の味がじわっと出てくる感じ、かな？」
「凄く美味しいの？」
「微妙においしい、ってところだね。実際、熟成の短い肉の方がダイレクトな食感で肉を食べてるって感じがして美味しいって人も多いよ。年寄りとかは熟成肉の方が良いだろうけどね」
「そうなんだ。私、熟成肉なら何でもいいのかと思ってた」
「何でもパーフェクトなものなんてないさ」
「それはそうよね。日本にも熟成肉があったなんてちょっとびっくり。今度お昼の教えてあげようっと。それで、宏一さん、魚の味はどう？」
「焼き魚が美味しいね。東京の方では新鮮な魚は刺身にして、刺身にできない鮮度が落ちた魚を焼き魚にすることが多いだろ？確かにそれはそうかも知れないけど、ノドグロって魚、知ってる？」
「あ、聞いたことある」
「あれは日本海側でたくさん取れるんだけど、実は焼き魚にすると一番美味しいから、産地では余り刺身は食べないんだよ。それに、キロ当たりの単価で一番高いのは一人前の焼き魚にするとちょうど良いサイズの２５センチくらいのもので、それより大きい魚は刺身にする方が良いんだけど、重さ当たりで見ると逆に安くなるんだ。東京ではそれを仕入れてきて高いお金を取るんだよ。ノドグロの塩焼きは本当に美味しいよ。特に新鮮なものはね。でも、ノドグロの刺身は値段ほど美味しくは無いよ」
「今日のお魚は？」
「今日のはどれも美味しかったね。銀ダラなんて最高だったよ。漬け具合が絶妙でさ」
「良かった。宏一さんに喜んでもらえて。・・・・・でも、もしかして宏一さん、ここに来たこと、あるの？」
「ごめん・・・・前に取引先と来たことがあるんだ」
「なあんだ。ちょっとがっかり」
「でも、テラス席は初めてで、とっても気に入ったよ。タバコが吸えるのもそうだけど、景色が良くて最高だね。風も気持ち良いし。友絵さんと一緒だと尚のこと」
「まっ、そう言うところで点数を稼ぐつもりなんだ」
友絵はニヤッと笑った。
「そんなことないよ。友絵さんと一緒だと本当に楽しいんだから。それとも、知ったかぶりの話で気分が悪くなったの？」
「まさか、そんなことないわ。でも、あれだけ苦労してやっと作った時間なのに、ちょっと時間がもったいないかな？なんて」
「ごめんね。上手に話ができなくて」
「ううん、そんなことない。楽しいのは楽しいのよ。ちょっとわがまま言ってみたくなっただけなの。甘えたくなったみたい・・・・」
「それじゃ、どうすればいい？教えて」
「そうね・・・・・ちょっと歩きましょうか」
デザートを食べ終わった二人は外に出てみた。遊歩道をゆっくりと歩いていくと結構カップルが歩いている、と言うか、はっきり言えば、グループを抜けばカップルか女性同士かの二つに一つしかない。
「カップルばっかりだね」
「そうね・・・・でも、落ち着かない。ちょっと静かなところに行きましょう」
「どうしたの？」
「女の人がそれぞれチラッと見るの。・・・・・なんか、お互いにそれぞれをチェックしてるみたいで視線が・・・・・だから・・・」
「ふうん、そうなんだ。気が付かないけど」
「男の人にはわからないと思う」
「わかった。それじゃ、こっちだね」
そう言うと宏一は海沿いの遊歩道を離れてフジテレビの反対側へと歩いていった。等身大ガンダムが左に見えるところで右に曲がれば船の科学館方向だが、更にまっすぐ進んでいくと一気に人通りが少なくなる。海沿いの遊歩道から離れるし、その先には何もないからだ。
「確か、こっちには少しだけベンチがあったはず・・・・・・あ、あれだ」
宏一は少し離れているところのベンチを見つけると友絵を誘った。
「ここで良かったの？海は見えないけど？」
「うん、海沿いはカップルばっかりで落ち着かないから」
友絵はそう言って宏一の隣にぴったりとくっついて座った。宏一が友絵の肩の後ろに手を回しても嫌がらない。二人のいる場所は一応オープンの場所だから近くを歩けば二人は見えるが、もともと人通りが余り無いので他人の視線は気にならない。友絵は落ち着いて座れるところを見つけて安心したのか、ポツポツ話し始めた。
「最近、家の仕事が忙しくてよく呼び出されるの。家の仕事でアルバイトだけど、引っ越しも近いから費用も稼がないといけないし」
「たいへんだね・・・・・」
宏一はふと、自分が引っ越し費用を援助すれば友絵と一緒に過ごす時間が取れるかも知れないと思ったが、それは友絵も望んでいないことに気が付いた。友絵は自分で自分の生活に区切りを付けたいのだ。友絵はそんな宏一に気付かずに話を続けている。
「仕事も忙しいから平日は帰ってもあんまりゆっくりできないし・・・・だから今日はとっても楽しみにしていたの。でも・・・・・ごめんなさい。本当は部屋に来てもらっても良かったのに・・・」
「やっぱり、行っちゃダメ？」
「明日の朝、早いの。５時半には出なくちゃいけなくて・・・・。７時までには着いていたいから・・・・。泊まってもらったら早起きしたくなくなるから」
「そう言われると俺も自信ないなぁ・・・・」
「そう、私だって絶対にもっと甘えたくなるから・・・・」
そう言って友絵は宏一の肩に頭を載せたが、少しじっとしていたかと思うと突然起き上がった。
「あ、三谷さん」
と言った。突然起き上がったことにも驚いたが、『宏一さん』ではなく『三谷さん』と言ったことに宏一が驚いた。
「どうしたの？」
「ごめんなさい。今回の変更、エンブレスエンジに連絡しましたか？」
「あっ、忘れてた」
「やっぱり・・・・・・・。分かりました。月曜日に連絡しておきます。変更図と部品のリストだけ送ればいいですよね？」
「うん、基本設計は変わってないからね」
「はい、わかりました」
「でも友絵さん、、こんな時に急に仕事のことなんて・・・・」
「ごめんなさい。宏一さんの肩に頭を載せて安心したのに、こんなに安心した気持ちになっていいの？って思っちゃって・・・、ちょっと余計なこと考えちゃった」
「まぁ、友絵さんに仕事の管理を任せてるんだから仕方ないけど、ここでそれを言われると・・・・。でも、ありがとう」
「ごめんなさい」
「それじゃ、目をつぶって」
「え？・・あ、はい」
そう言うと友絵は目をつぶり、宏一は友絵に優しくキスをした。友絵は一瞬回りを気にしたが、人気が無いのが分かったのか静かに受け入れた。そして最初、静かにじっとしていたが、やがてそっと友絵から舌を小さく絡めてきた。宏一は周りの気配から近くに誰もいないのを確認して、さらに大胆に舌を差し込んでいく。
「んんんん・・・・・・・んんっ・・・・」
友絵は少し驚いたようだったが、すぐにねっとりと舌を絡め返してきた。そしてそのまましばらくキスに夢中になった。
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