ウォーター

第二百八部

 

宏一が目を覚ましたのは10時近くになってからだった。チェックアウトして取り敢えず山手線に乗ったが、部屋に戻ってもすることが無い。それでも一応部屋に戻ってシャワーと着替えだけは済ませた。しかし、部屋にくすぶっているのも辛いので、、久しぶりに東京駅か上野のあたりをぶらついてみようと思って、まずJRで東京駅に行ってみた。
久しぶりにゆっくりと見る東京駅の中はかなり混んでいた。休日だけに旅行者が多い。すると、親子連れが地図を囲んで通路の真ん中で座り込んでいた。広いとは言え通路の真ん中で座り込まれては迷惑だ。困ったものだと思ってよく見ると中国人らしい。
「??是中国人??有没????」(中国人ですか?問題でも?)
と聞くと、地図を差し出しながら、凄い勢いで話し始めた。宏一は普通語しかできないし、上海などの方言も苦手だ。
「??慢慢」(ゆっくり話して下さい)
と言うと、通じたらしく今度はゆっくりと話してくれた。
「我?想去上野公園。那在?里?」(上野公園に行きたいんです。どこですか?)
上野公園なら山手線か京浜東北などいくつか方法があるが、言葉で説明するとなると初心者には面倒だ。上野駅への方法だけ伝えて後は向こうで聞け、と言うのが簡単だが、宏一も暇な身だ。
「我可以去那里一起」(一緒に行っても良いですよ)
と言うと少し驚いたようだったが、明らかにホッとしたようだった。宏一が一緒に移動しながら下手な中国語で聞くと、どうやら安徽省の田舎から出てきたらしい。家から上海まで一日掛けて移動して上海で泊まり、先程成田に着いたという。東京駅までは飛行機の中で一緒になった中国人にくっついてたどり着いたものの、その中国人は東京駅で日本人に会うとどこかに行ってしまったらしく、放り出された格好でどうして良いのか分からないと言う。
持っているスマホを見るとファーウェイの新型なのだが、中国語のサイトで移動案内を調べても、さすがに東京駅の中までは案内してくれないようだ。表示を見せて貰うと内容は間違ってはいないがかなり妖しげだし抜けも多い。本人たちはどうやら上野公園の動物園が良いという話をどこかのサイトで見たらしく、子供に見せたいのだという。動物園が上野公園のだいぶ奥にあるのだが、そんなことは全く知らないようだ。日本に着いて直ぐに荷物を抱えて動物園に行きたいというのも大変な話だが、確かに中国の動物園はどこでも千円以上の値段を取る割には広いだけで余り内容は良くないものが多いからなのだろう。600円で入れる動物園など中国には絶対に無いと力説していた。
結局、動物園のゲートまで案内することになり、コインロッカーで荷物を預ける手伝いをして動物園まで連れて行った。お礼にと持ってきていたリンゴを宏一に押し付けようとしたが、さすがに丁寧にお断りした。リンゴは安徽省辺りでは高級な果物だ。
思いも掛けずに久しぶりに中国語を使った会話の練習ができたし、時間も潰れた。近いからと思ってスカイツリーに行ってみたが、休日のスカイツリーは今でも大混雑だ。上がれないかも知れないとは思っていたが、案の定、予約が無ければ3時間待ちだ。結局、近くの店でお昼をのんびり食べただけだった。これは、休日の正しい過ごし方なのかも知れないが、何かが物足りない気がする。
これからどうしようかと考えていると、ふと、由美が軽井沢のお菓子屋のことを話していたのを思い出した。軽井沢なら楽しく時間を潰せるかも知れない。直ぐに知り合いが個人でやっている旅行代理店に電話をした。
「三谷さん、お久しぶり。今日はどうしたの?」
「うん、軽井沢に行こうと思うんだけど、宿を一泊取って貰おうと思ってさ」
「軽井沢ね。何人?」
「一人なんだ」
「軽井沢だとシングルって言うのはあんまり無いからツインかダブルだと思うけど、それでもい?」
「任せるよ」
「希望はある?」
「一人でフラッと行くだけだから特には無いけど、強いて言えば落ち着いたところかな?あとは値段も込みでお任せ」
「食事は無しの方が良いの?」
「そうだね、よく知らないけど、夕食とかは街で食べようかな?その方が気が楽だから」
「朝食は付いてた方が良いよね?」
「そうだね」
「それじゃ、決まったら連絡するよ。新幹線は?」
「1時間ほどだろ?良いよ。自分でやるから」
「了解。まいどあり」
簡単に希望を伝えただけで直ぐに手配してくれるのは個人旅行代理店の強みだ。由美と志賀高原に行った時にも手配をして貰ったが、宏一の好みを知っているので手配に間違いが無い。だからいつも安心して手配をお願いしている。
宏一が上野駅に向かって移動していると、もう直ぐ上野駅に着くという地下鉄の中で手配完了のメールが来た。いつもと違って2通来ている。一つは普通の手配完了を通知するメールだった。ちょっと値段が高かったのが意外だったが、その分、満足度の高い部屋なのだろうと思った。もう一つのメールはその説明で、『混んでいたのでちょっとお高くなりました。しかし、直前予約だった分だけ安くなっているのでかなりお得になってます。何か問題があればお知らせ下さい』とあった。もちろん、気楽な一人旅の宏一に不満のあるはずが無い。
宏一は上野駅に着くと駅前のデパートで着替え一式と小さなバックパックを買い、コンパクトに纏めた。
そうこうしているうちに3時を回ってしまった。新幹線を見ると3時半過ぎの列車になりそうだ。直ぐにネットで予約した。一瞬だけグリーンにしようかとも思ったが、時間も短いのでA席なら問題ないと思い 3人掛けの窓側を予約した。3人掛けの窓側のA席なら隣のB席が埋まるのは最後の最後だ。幸い、座席配置表で確認すると隣のB席は埋まっていなかった。
上野から軽井沢までは1時間ちょっとだ。見慣れた車窓の景色を眺めながらビールを飲んでいると、あっという間に着いてしまった。
特に予定は無いが、取り敢えず一応の目的らしい由美の言っていたケーキ屋を探してみることにする。スマホで調べてみると、どうやら駅の裏側にある大きなショッピングモールの中にあることが分かった。しかし、大きなショッピングモールなので探すのは大変だ。それでも、ホテルに入ってしまえば再び出かけるのは面倒になるので宏一はこのままのんびりと歩き回って探してみることにした。
このモールは軽井沢にあるだけあって全体の配置が公園のようにゆったりとしており、中を歩いているだけで気分転換には最高だ。ただ広いだけあって目的の店を探し出すのに少し苦労したが、チョコレート系の店は2軒しかなく、どちらも有名な海外ブランドの店だったので、一回りし終わるころには目的の店を見つけることができた。
ただ、チョコレートケーキと言っても色々な種類があり、どれを買えばいいのか迷ってしまう。由美にラインで聞いてみようかとも思ったが、それをすると由美がまた気を遣うし、サプライズにならないのでカフェコーナーで実際に食べてみてだいたいの予想はつけた。
ただ、今買ってしまうと持って歩くのが面倒だし、ホテルの部屋に冷蔵庫があるかどうかも知らないので、明日帰る時に買うことにした。
そこまでやってしまうと後はやることが無い。のんびり歩いてホテルにでも向かおうかと思って歩きかけた時、ふとケーキではなく由美に小さなマスコットでも買っていこうと思い立った。そこでもう一度歩き回ると、中くらいの店の中にありそうなのを見つけた。
宏一は店の中に入り、ゆっくりと吟味しながらお土産やらマスコットやら順に時間をかけてみていく。いつもはめったに目を留めることのないものだけに、改めてじっくり見るといろいろなものがあって迷ってしまった。中には大きなぬいぐるみまである。宏一は更に見て回った後、携帯やカバンに付けるのにちょうどよいくらいの小さなものを選び出した。レジは意外に混んでいるらしく列ができている。
すると、少し甲高い声が聞こえてきた。どうやら店員とトラブルらしい。宏一が先ほど見ていたぬいぐるみを持った女性が店員に詰め寄っていた。
『だから、ここが痛んでるんだから安くしなさいって言ってるの』『ほかのより傷んでるんだから当たり前でしょ』『早くしなさいよ。みんな待ってるじゃないの』矢継ぎ早にまくしたてる女性に対し、店員は学生のアルバイトらしく、どうして良いのか分からずに戸惑っている。『あんたじゃどうにもならないわ。店長を呼びなさいよ、早く』そんなことを言って店員をせかせている。『おかしいな?さっき見た時はそんな傷んだぬいぐるみなんてなかったのに・・・・・』宏一は不思議に思った。しかし、確かに女性の持っているぬいぐるみは耳が少し取れかけている。『新しいものと交換しますから・・・』店員が小さな声で言ったが、『私はこれが欲しいのよ。早く値引くか店長を呼びなさいよ。いつまで待たせるのよ。みんな待ってるじゃないの』女性は容赦なく攻め立てている。
店員は若い女の子だったが、半分泣きそうになっている。これでは埒が明かない。店員には勝手に値段を変える権利などないし、バーコードを通してしまえばその値段で売るしか方法はない。そんなことは分かり切っている。しかし、列に並んでいる人は誰も助けようとしなかった。
これだと待っていても時間がかかるだけなのでほかの店に行こうかとも思ったが、また探すのも大変だ。そこで宏一は助け舟を出すことにした。
「失礼します。この商品に問題がありましたか?」
「だれよ、あんた」
「店舗用の監視カメラの販売員です。弊社の商品を置いてある店を順に回っております」
宏一は知らん顔をして嘘をついた。
「あんたは関係ないでしょ。ここが痛んでるのよ。だから値引きなさいって言ってるだけよ」
「あそこにこのお店の監視カメラがありますので、その映像を確認すれば、偶然お客様がこの商品を手にしたときに傷んでいたと言うのを証明できると思いますよ」
宏一が監視カメラの話をした途端、女性の様子が変わった。
「何よ、そんな面倒なことできるわけないでしょ」
「でも、そうしないとこのお店の落ち度は証明できないと思いますが?皆様もお待ちですし」
宏一がそう言うと、女性は周りの人の視線が冷たいことにやっと気が付いた。このままだとどんどん自分が不利になると思ったらしい。
「いいわよ。こんなの買わないから。まったく、何よ・・・・」
そう言うと女性はそそくさと店を出ていった。店員はだれが見てもわかるくらいホッとして胸を撫で下ろしていた。
宏一は列の最後に並び、自分の順番が来た時にお金を払うと、店員は、
「本当にありがとうございました」
と深々と頭を下げた。
「いいんだよ。他の店を探して買うのに時間がかかるから、ああ言っただけさ」
「ありがとうございました。助かりました」
店員は再び頭を下げた。そんなに感謝されるほどではないと思った宏一は、店を出た。まだホテルに入るには少し早そうだ。どうせならここで食事をしていってもいいと思った宏一は、レストランを順に回りながら、どこにしようか見て回る。ホテルで食べても良いのだが、それだとせっかく軽井沢まで来た雰囲気を楽しめないと思ったのだ。
しばらく歩き回り、そろそろ店を決めようと思っていた時、偶然にもさっきの店員とばったり会った。向こうも宏一を覚えていたらしい。
「あ、先ほどはありがとうございました」
更に店員は深々と頭を下げた。
「ううん、もういいって。そんなに何度も」
「本当に助かったんです。あんなこと言われたの、初めてだったからびっくりして。それに怖かったし」
「お店は?終わりですか?」
「はい、今日は6時までだから」
店員は宏一に安心したのか、そんなことを簡単に話してくれた。
「これから帰るんですか?お疲れさまでした」
「帰るって言っても寮みたいなところだから。このすぐ近くなんです」
「軽井沢でお仕事ですか。いいなぁ」
「お仕事なんて、私、学生ですよ。高校生です」
「え?アルバイト?」
「はい、週末にはここでアルバイトしてます」
「そうなんだ。高校生なんだ。大学生かと思った」
そのまま二人はしばらく立ち話をした。宏一にしてみれば時間が潰れるのでありがたかったが、高校生の店員にとっては久しぶりの会話だと言う。
「そうなの。いつもは忙しいんだ」
「忙しいもそうだけど、友達もいないし、いつも話すのは報告と打ち合わせのために店長さんくらいだから・・・・・」
「品物を出したりする人とは話さないの?」
「話すけど、向こうもアルバイトでいつも違う人だから、友達になることなんてないし・・・・。だから、もうここは辞めようかなって思ってます」
「そうなんだ・・・・。ねぇ、今日はもう仕事終わりでしょ?もう少し話したいけど、立ち話ってのも何だし、良かったら食事に付き合ってもらえませんか?俺も一人だから相手がいると嬉しいんだけど・・・・・。もちろん迷惑でなければ・・・・・だけど・・・・・」
宏一は思い切って誘ってみた。どうせダメ元だと思ったのだ。すると驚いたことに、
「良いですよ。学生だからあんまり遅くなれないけど、それでよければ」
と言ってOKしてくれた。
「それなら、どうしますか?このまま出かけてもいいし、部屋に荷物とか置いてきたければ、後で待ち合わせて出かけるし」
「はい、それなら一度部屋に行ってきていいですか?」
「もちろん。あ、三谷宏一と言います」
「水谷香緒里です」
「何時が良いですか?」
「えっと、45分くらいかな?」
「それなら余裕を見て7時にここで。それでいい?」
「はい、わかりました」
そう言うと香緒里は小走りに寮の方向に戻っていった。宏一は思いがけず食事に連れができたことを喜んだ。しっかりした感じの子だからガードは固いかもしれないが、それならそれで構わない。食事を楽しめればそれでいいのだ。
宏一はアウトレットモールを再度ゆっくりと散歩したり、夕食の場所を探したりして時間をつぶした。目的があるので時間はあっという間につぶれてしまう。それに、香緒里は予定の時間よりも少し早く表れた。さっきはジーンズにTシャツだったが、今は肩が大きく開いた服にミニスカート言った女の子らしい格好になっている。香緒里は168センチくらいでショートカットの髪の似合う女の子で、細身と言うよりはバランスの取れた体形をしていた。
「早かったね」
「はい、急いできたから」
そう言って香緒里は笑った。笑うとえくぼが可愛らしい。
「どこか、行ってみたいところはある?」
「それは・・・・・・」
香緒里はちょっと戸惑ったようだ。
「あ、それと、香緒里ちゃんて呼んでいいですか?」
「はい、三谷さん」
「それじゃ、改めて。香緒里ちゃん、行きたいところがあったら教えてください」
「えっとー、それなら・・行きたいエリアがあるんですけどいいですか?・・・」
「いいよ。もちろん。どうやって行くのか教えてもらえれば」
「はい、駅からバスがあると思うし、歩いても行けるかもしれない・・・・」
「わかった。それじゃ、そこに行こうか。食事もできる?」
「たぶん、有名なエリアだから・・・・」
「そう、それじゃ、どこからバスに乗るのかな?」
「たぶん、すぐそこに乗り場があって、そこからバスがあると思うんですけど・・・」
香緒里はそう言って駅の南口を指さした。しかし、二人でそこに行ってみると、すでに最後のバスは出てしまっていた。

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