ウォーター

第二百十部

 

「香緒里ちゃんの家がやってる旅館て、ジャグジーとかないの?」
「そんなのありませんよ。とってもお金がかかるみたいですよ。前に水道工事屋さんが言ってました」
「そうなんだ」
「電気代が凄いんだって。エアコンより電気を使うって言ってたから」
「そうなんだ。それじゃ、楽しみにしないといけないね・・・・」
「三谷さん、そんなこと言って。なんか、あんまり楽しみじゃないみたい」
「だって・・・・・」
宏一はこの状況でジャグジーが楽しみと言うと香緒里に勘繰られると思ったのだが、香緒里は気にしていないらしい。
「それなら私が代わりにちゃんと見てあげますから」
と言うと、さっさとホテルに向かって歩いていく。
宏一はチェックインの時、香緒里を連れている関係で宿泊者を一応2名にしてもらった。ナイトウェアなどは既に部屋に二人分あるので問題ないと言う。予約してあった部屋はホテル棟とは離れた別のコテージで、外に出て部屋まで歩いていくことになった。静かではあるが、夜に行くと暗いところを歩いていくのでちょっと寂しい感じだ。しかし、森の中にポツンとあるコテージは実際に入ると、中は白を基調にした明るい部屋だった。
「うわぁ、こんなに素敵な部屋なんだ。すっごくひろーい」
香緒里は宏一と二人で部屋をあちこち回りながらキョロキョロして喜んでいる。部屋の外のデッキには確かにジャグジーがあった。
「うわぁ、これがジャグジーなんだ。大っきい」
香緒里は初めて見たジャグジーを興味津々と言った感じで見ていた。宏一はお湯を入れながら、
「気に入ったのなら泊まって行ってもいいよ」
と冗談めかして言うと、さすがに香緒里はちょっと緊張したようだった。
「だって・・・でも・・・・・・・・」
宏一はダメ元で言ったのだが、香緒里は結構真面目に悩んでいる。
「明日は何時から?」
「12時からなんです。それから8時まで・・・・・」
「無理は言わないけど、良かったらジャグジーに入ってゆっくりして、それから泊まって行って。ベッドは広いから」
宏一がさらに押すと香緒里は少し黙っていたが、やがてゆっくり言った。
「いいんですか?」
誘った宏一も意外だったが、香緒里が良いと言うのなら文句のある筈がない。無理だとは思ったが夜に期待してしまう。
「もちろん。それじゃ、ジャグジーとか、入ってきたら?」
「はい、でも今は・・・・・もう少ししてから・・・・・、本当に良いんですか?」
「もちろん。それじゃジャグジーは後でね。まだそんなに遅い時間じゃないしね。ゆっくりしていけばいいさ」
「三谷さん、聞いてもいいですか?こんな風に良く女の子に声をかけるんですか?」
香緒里は真剣な顔で言った。
「まさか、いつも仕事で忙しいから、久しぶりに気分転換でふらっと出てきただけだよ。これでもいつもは結構忙しいんだよ。女の子に声をかけてる暇なんてないよ。今日は久しぶりに出てきたからかな?こんな風に声をかけたのなんてほとんどないよ。今までゼロとは言わないけど」
「そうですよね。三谷さんて、とっても真面目な感じだもの」
「感じ、じゃなくて真面目なの。今日は本当に特別なんだよ。いつも出かけてるんならこんな高い部屋になんか泊まれないよ」
宏一が笑うと、香緒里もつられて笑った。宏一は冷蔵庫を見つけると中を覗いてみた。一応一通りは入っている。
「香緒里ちゃん、何か飲む?」
宏一が聞くと、香緒里は思い切ってと言う感じで言った。
「あの・・・・ちょっとだけお酒を飲んでもいいですか?」
宏一はそれを聞いてちょっとがっかりした。飲みなれないお酒を飲めば、きっとすぐに酔って寝てしまうだろう。どうやら香緒里をベッドに誘うのは無理そうだと心の中で諦めた。と言っても部屋のベッドはキングサイズなので一応同じベッドに入ることにはなりそうだが。もちろん、そんなことを考えているとはおくびにも出さない。
「うん、いいよ。酔っちゃったらそのまま寝ればいいから」
「はい・・・ごめんなさい・・・」
どうやら、香緒里も同じことを考えているらしい。面倒なことになる前に酔った振りをして寝る作戦のようだ。宏一は自分に地ビール、香緒里にカクテルを出すと二人でソファに座って飲み始めた。
「この部屋、テレビが無いんだね。珍しいね」
「そう・・・・リゾートだから・・・・かな?」
「リゾートかぁ、そう言えばそんな紹介記事、読んだことがあるよ。時計も無いって」
「そう、確かに時計も無いわ」
「ま、スマホがあるから問題ないけどね」
「三谷さんは腕時計もしてる」
「そうだね、やっぱりあると便利だから。香緒里ちゃんはしてないの?」
「アルバイトの時だけ。いつもはスマホだけで十分だもの」
二人はソファに隣り合って座り、小さなテーブルに飲み物を置いて話していた。ただ、だんだん話が盛り上がらなくなってくるのは、やはり二人とも部屋を意識しているからかも知れない。このままだと直ぐに帰ると言い出すかも知れないので、宏一は話題を変えた。
「ねぇ、香緒里ちゃんはどうして軽井沢でアルバイトしようと思ったの?」
「特に理由は無いんだけど、ここなら涼しいし、アルバイト用のアパートが付いてるし、それに・・・・」
「それに?」
「やっぱり軽井沢だから、何か良いことあるかなって思って・・・・・」
「あった?」
「全然無かった。単に部屋との往復だけで友達もできないし、だから辞めようかなって思ったの。でも、今日は違ったけど・・・・」
「アルバイトのお金で何か買うつもりなの?」
「ううん、貯金。大学生になったらきっとお金が掛かるから」
「偉いね。自分で貯めるなんてさ」
「だって、うちはお金持ちじゃ無いし、女の子はお金が掛かるから」
「そう言う自立心て言うか、自分のお金は自分で稼ぐって言うのはご両親が香緒里ちゃんにくれた最大のプレゼントかも知れないね。自立心はお金じゃ無いから減らないもの」
「そう・・・かな?今まで考えたことも無かったけど・・・・そう言えばそうかも知れない・・・」
「商業高校の生徒って、みんな香緒里ちゃんみたいに自立心が強いの?」
「そんなこと無い。いろいろ。家が商売をしててもお金持ちの子は貰うばっかりで働く必要なんて無いし、家が商売してる子ばっかりじゃないし」
「それじゃ、香緒里ちゃんは働くのが好きなんだね」
「うん、好き、たぶん。でも、辛いことが多いけど・・・・今日みたいに」
「でも、レジで文句を言うお客さんなんて少ないんだろ?初めてって言ってなかった?」
「あんな風に言われたのは初めてだけど、もっとねちねちって言うか、文句を言う人は結構いるの。あれが無いとか、品切れになってるとか、レジが遅いとか。それと、意外に多いのは親切だと思ってやったことが徒になるって言うか、他のお客さんから文句を言われること」
「え?親切だと思ってやったのに?」
「そう。例えば、子供が大きな箱のお菓子とかいくつか買ったときに、持ちやすいようにって思って袋を二つにしてあげたり、紙袋の手提げに入れて上げたりすると、他のお客さんからどうして私のは同じにしてくれないんだ、って。だって、その人は大人ですよ」
「そうか・・・・不公平だって思われたんだ」
「だって、子供には親切にしてあげたいじゃ無いですか。それなのに大人から言われるなんて・・・・」
香緒里はカクテルをちょびちょび舐めるように飲みながら、じっとグラスを眺めている。
「そうだね・・・」
「三谷さん、どうすれば良いと思います?」
「うーん、ちょっと待って、考えるから」
宏一は少し考えてから言った。
「正直に言うしか無いんじゃ無いかな?」
「正直に?」
「そう、さっきは小さな子供だったから、持ちやすいようにしてあげました。お客様もお子様と同じにして欲しいですかって?」
「ハハハ、それ最高!!。面白ーい!」
香緒里は大声でケタケタと笑った。それまでが静かな感じだったので宏一は意外だったが、香緒里はよほど面白いと思ったのか、ずっと笑っている。
「だってさ、香緒里ちゃんは子供に親切にしようと思ってやったんだろ?それを他の人が全員にそうするんだって勘違いした訳だから・・・????」
宏一は香緒里が何故そんなに笑うのか分からず、困ったように言い訳した。
「そんなにおかしかったかな?」
「ごめんなさい。可笑しくて笑ったんじゃありません。なんか、気持ちがすっきりして」
香緒里はそう言ったが、まだ笑っている。
「でも・・・・・・。だから、文句を言ったお客さんが考えたのは・・・・」
「ううん、もう良いの。違うの。そうじゃ無いの。ごめんなさい。でもあんまり可笑しくて」
「やっぱり可笑しいんだ」
「違うの。そうじゃ無いってば。ちょっと待って」
香緒里は笑いを堪えて一度深呼吸してから話した。
「私が笑ったのは三谷さんが言ったことが可笑しいと思ったんじゃ無いの。そうじゃ無くて、悩んでた私が馬鹿みたいだって思って、だから急に悩んでた自分が可笑しくなっちゃって・・・ごめんなさい」
「そうなの?」
「だって、正直に言えば良いってだけの話なのに、私ったら悩んじゃって、バカみたい」
「バカって事は無いよ。真剣に悩んでたんだろ?」
「そうなの。だからバカみたいなの。私って抱え込むタイプなのかなぁ?」
「そんな風にも見えないけどな」
「あーあ、辞めなくて良かった。辞めなかったから三谷さんにも会えたんだし」
そう言うと香緒里は宏一に背中から寄りかかってきた。
「本当言うと、結構真剣に悩んでたりして」
「やっぱり・・・・」
「接客マニュアルって言うのがあるんです。、レジの。でもね、それにはマニュアルに書いてあること以上は絶対にしちゃいけないって書いてあるの。それは最初に店長に必ず全員が言われることなの」
香緒里は宏一を背中に感じながら、部屋の反対側を見て静かに話していた。
「確かに、マニュアル通りにやってると問題は起きないけど、それじゃ私がやってるって感じが無くて・・・・」
「それはそうだよね。機械がやってるのと同じだもの」
「そうでしょ?機械にはできない心遣いって言うか、それができるから人がやってる意味があると思うのに・・・、でも、マニュアル通りにやらないで対応を変えると問題が起きるから・・・・」
「そうか、香緒里ちゃんはそれを悩んでたんだ」
「ねえ、三谷さんて、本当は何の仕事をしてるの?」
「言ったとおり、コンピューターシステムを会社に入れる仕事だよ」
「それってクレームってあるの?」
「もちろん。クレームの嵐だよ。設計したシステムを設置する仕事をして貰ってる業者が一番多いけど、仕事をしている発注元の会社だって、部品の会社だって、設計の会社だって、それぞれいろんな理由でクレームがあるよ」
「そうなんだ。理系の仕事でもクレームってあるんだ」
「それはそうさ。ある意味、人と話をして仕事をしている以上、クレームは仕方ないと思うんだ。だって、クレームって理解に食い違いが起こったときにできるものだろう?それって、人がそれぞれ違う以上、避けられないと思うんだよ」
「そうか!そうよね。確かに。そうなんだ・・・・・」
香緒里は背中をもぞもぞ動かすと、ソファを横にずって宏一に背中から寄りかかってきた。宏一は思いきって香緒里の後ろに手を回し、軽く後ろからそっと抱きしめる形に持って行った。当然、香緒里の身体はきゅっと硬く緊張した。
香緒里は嫌がりはしなかったが、自分から近づいた割りには明らかに防御の体勢に入っている。それでも香緒里自身は宏一に後ろから抱かれるのが嫌では無かった。もちろん、このまま抱かれる気になっているかと言えば、香緒里の様子からそうでは無いのは明らかだった。
「クレームがあるってそう言うことなんだ・・・・」
香緒里が小さな声でそう言うと、宏一は、
「もちろん、後々まで仕事に影響が残るようなクレームは考えるべきだと思うけど、ある程度のクレームには慣れないとね」
その宏一の声は香緒里の耳元から聞こえたので、香緒里の項と耳には宏一の息がかかった。
香緒里の身体にぞくぞくっとくすぐったい感覚が走り抜ける。香緒里はちょっとびっくりして身体を硬くしたままじっとしていた。
香緒里はそこで初めて自分の状況を理解した。もともと家が接客業なので他人と話をすることには慣れており、今まで宏一には少し甘えるような感じで気楽に接していたので、宏一に寄りかかったのも甘えたかったからだった。しかし、このままこの部屋に泊まると言うことなら、ベッドで宏一に抱かれてしまうことも考えなくてはいけない。しかし、まだそこまでの決心は付いていなかった。ただ、そんなことを考えている自分を意識し始めた。
『どうしよう?』それだけが頭の中で渦巻いた。もちろん、このまま帰ることだってできるのは分かっていた。さすがにこの時間、歩いて帰るのが無理なくらいわかっていたが、財布に余りお金は入っていないが、タクシー代くらいは持っている。
しかし、このまま帰るのも躊躇われた。こんなに楽しい時間は久しぶりだった。せっかくこうやって宏一と知り合えたのだ。憧れていた出会いがあったのだ。もう少しこうしていたい。
『これって、私がずっと待ってたことじゃないの?このまま帰ったらまた明日からいつもの日が続くだけじゃ無いの?次なんてないんだから』香緒里がずっと望んでいた出会いとはこう言うものかも知れないと思った。『でも、このまま三谷さんとベッドに入る勇気、ある?』そう問いかけると素直にイエスとは言えないのも事実なのだ。香緒里にはいろいろ問題はあるが一応彼氏がいた。一応と言うしかないのが問題の一つだが、その彼のことはやはり気になる。だから香緒里はとにかくこの状況を何とかしようと思った。
「三谷さん・・・・」
「なんだい?」
「あの・・・・・三谷さんは接客業って好きですか?」
香緒里は『私、何言ってんだろう?』と思った。明らかに質問が唐突だ。

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