ウォーター

第二百十一部

 

「うん、どっちかって言えば好きな方かな?香緒里ちゃんは好き?」
宏一の息が再び香緒里の項にかかる。
「私は・・・・好き・・・・・」
「それじゃ、クレームの件はいったん置いといて、どうして接客業が好きなの?クレーム以外にも大変なことも多いのに」
「それは・・・知らない人でもいろんな事を教えてくれるから・・・・三谷さんだって・・・・。それに、やっぱり喜んでもらえると嬉しいから・・・・。うちみたいな小さな旅館で、設備だって料理だって頑張ってるけど、やっぱり大したことないし。こんな素敵な部屋なんて絶対無理。でも、それでも喜んでくれるお客さんはいるの。それってやっぱりうれしいから」
「この軽井沢で働いてても喜んでくれる人はいる?」
「それはもちろん。小さなお土産でも凄く喜んで『ありがとう』って言ってくれる人は多いし、やっと欲しいものが見つかったって言う人もいるし・・・・」
「それって、誰がやってもそうだと思う?」
「え?どういうこと?」
「香緒里ちゃん以外の人があのお店で働いててもお客さんはみんな同じ様に喜ぶと思う?」
「それは・・・・わかんない・・・・・・。でも、私が探してあげたり、教えてあげたから喜んでくれたお客さんだっているから・・・・・。でも、他の人だともっとお客さんが喜ぶかも知れないし・・・・」
香緒里は宏一の質問に答えていて、何となく今まで悩んでいた自分は何なんだろうと言う気がしてきた。上手く言えないが、結局、一言で言えば、ここでの仕事に悩むのは当たり前だし、その分喜んでもらえたような気もする。
そう思った途端、香緒里は頭を切り換えた。『もうアルバイトのことを考えるのはいいや』と思ったのだ。それよりも、今は宏一とこうして一緒に居ることの方を考えたい。
「ねえ、三谷さん、聞いても良いですか?」
「どうしたの?改まって」
「三谷さん、出会いってありますか?」
「こうして香緒里ちゃんと出会ったこと?」
「それもそうだけど、他の人とも・・・・」
「そんなには無いかな?いろんな人と一緒に忙しく仕事をしてるから、毎日いろんな人と話すけど、数は多くても初めての人と話すのはそんなに多くないかも知れない。でも、普通の会社員の人よりは多いんじゃ無いかな。仕事の幅は広いから。香緒里ちゃんは?」
「私はお客さんと話すのは少しだけ・・・・・。家の仕事だと料理を出す時が一番話すけど、あんまり話してると他のお客さんに出すのが遅れるから。ここだと話す人って言えば店長と倉庫の人と・・・掃除のおばさんと・・・・・。アルバイトが終わって家に帰れば家族と学校の友達・・・先生・・・・」
香緒里はわざと彼氏とは言わなかった。実際、それほど頻繁に会っているわけではない。
「アルバイトと学校や家族、人数で言うと、どっちが多いの?」
「同じくらいかな・・・・・・。アルバイトの方が少し多いかも知れないけど・・・・。でも、やっぱりアルバイトの方が新しい人と話すのが多いかな・・・。人も入れ替わるし・・・・」
そう答えて、香緒里は初めてアルバイトで話す人が入れ替わることを肯定的に考えることができた。やはり、こうして宏一と話していると新しい発見が次々にある。すると、こうして宏一と二人でいることも受け入れられる気がしてきた。そして、だんだんベッドに入るとかもどうでも良いような気がしてきた。そんなことをここで悩んでも仕方が無いのと思ったのだ。気が付くと項に掛かっている宏一の息も甘い感覚を生み出している。
「三谷さん、ジャグジーに入っても良いですか?」
突然、香緒里はそう言った。こうしているととても安心するし、心の中を見られてもいいと思えるくらい安心できる。しかし、このままだと宏一の腕の中で寝てしまいそうな気がしたのだ。それほどこうしているのが心地よかった。そして、このまま寝てしまうのは今の香緒里にとって時間を無駄に過ごしてしまうことだから、お風呂に入って眠気を飛ばしたいと思った。もう、さっきほどジャグジーに興味は持っていなかった。宏一とこうしている時間の方に興味があった。
宏一にとっては香緒里が腕の中から逃げていくのは残念なことだったが、香緒里がそう言うのなら仕方が無い。帰ると言われるよりはよっぽど良い。
「うん、もうお湯は入ってるはずだし、使い方は分かってる?」
「使い方?」
香緒里は宏一の腕の中から起き上がった。
「うん、それじゃ、スイッチを入れてくるね。バスローブはお風呂の方にあるはずだよね」
「はい・・・、それはさっき見たから」
「タオルやなんかも全部持って行かないと」
「はい」
「灯りは点いてたかな?支度してくるよ。香緒里ちゃんが入れるように」
「はい、それじゃ、私も準備して・・・・」
「直ぐに入れるからね」
宏一がそう言って部屋を出て行くと、香緒里はタオルを取りにバスタブに行った。そしてタオルとバスローブやナイトウェアを持ってジャグジーに行こうとしてふと気が付いた。このままだとジャグジーのある外で服を脱ぐことになる。外で服を脱ぐくらいなら、ここで着替えていった方が良い。ただ、今気が付いたのだが、ここはベッドルームとバスとの間にドアが無いので、脱いでいる間に宏一が来たらどうしようと思った。
しかし、宏一は今部屋の外だし、今なら自分だけだ。そう思うと香緒里は急いで服を脱ぎ始めた。
しかし、香緒里が急いで服を脱いでいるとドアの開く音がして宏一が戻ってきた。『ヤバい!』とは思ったが、途中で止める訳にもいかない。どうしようと思って周りを見たがどうしようもない。ここにはドアもないし隠れる場所もない。そんなことをしている間に宏一が近づいてきた。
「香緒里ちゃん、スイッチは入れたけど、あそこには洗い場が無いから・・・・」
そう言って宏一がバスタブの方に来た途端、宏一の目の前には下着姿で慌ててしゃがみ込んだ香緒里の姿があった。
「わっ、ごめん!」
慌てて後ろに下がった宏一は、どうして良いか分からずに、
「ごめん、こんなだって知らなくて・・・。あの・・・俺、ホテルの方に行って、しばらく向こうにいるから。帰ってくるときに何か飲み物でも買ってくるね」
と行って部屋を出て行こうとすると、香緒里の声が呼び止めた。
「だめ、行かないで・・・・。一人にしないで・・。そこに居て」
そう言うと、少ししてガウン姿の香緒里が出てきた。
「三谷さん、ちゃんとそこに居てね」
と言うと、部屋を出てジャグジーの方に行った。
香緒里はジャグジーまで来ると、バスローブを着たまま下着を脱いだ。『なんだ。最初からこうすれば良かったんだ』と思った。
一応、周りを確認したが、外は森で真っ暗だし人の気配は全くない。当たり前と言えばそうなのだが、やはり女の子としては気になる。そして、そっとバスローブを脱いで急いでジャグジーに入った。
泡の中に身体を沈めてしまえば泡で何も見えない。濁り湯と一緒でもう安心だ。
ちょっとすると、部屋のドアが開く気配がした。香緒里がちょっと緊張して身体を深く沈めると宏一の声がした。
「香緒里ちゃん、大丈夫?何か問題ある?」
「大丈夫です」
香緒里の声は元気で溌剌としている。自分でも警戒心の無い声に驚いた。それなら、とさらに香緒里は言った。
「三谷さん、ほら、来てください。大丈夫だから」
「え?いいの?」
「はい、大丈夫ですよ」
香緒里がそう言うと、明らかに宏一は恐る恐ると言う感じでやってきた。
「ほら、こうやって入っていればもう見えないでしょ?」
香緒里がジャグジーから声をかけた。実際は香緒里は泡の横から見ているので、上から見下ろす感じの宏一とは見え方が違い、宏一からは香緒里の身体が少しだけ見えていた。ただ、ディテールが見えるほどではない。
「うん、どう?ジャグジーは」
「なんか不思議な感じ・・・・・。気持ち良いけど・・・・」
「それじゃ、ゆっくり入っておいで。身体の疲れが取れるまで入っていればいいよ」
「いいんですか?私、お風呂長いですよ」
「ハハハ、もちろんいいさ。滅多にない機会なんだから、いっぱい入っておいで。何かあったら声をかけてね。ドアは少しだけ開けてドアの近くに居るから」
「はい、ありがとうございます」
宏一の配慮に香緒里は安心した。さすがに身体を見られるわけにはいかないが、近くに居て欲しいのは事実なのだ。『こういうのをエスコートっていうのかな?女の子にとっては嬉しいな。三谷さん、大人だな。私もこんな彼が欲しいのにな・・・・』香緒里はそんなことを思いながらジャグジーの泡を楽しみながら真っ暗の外を見ていた。
宏一は部屋に戻ると、今のうちにシャワーを浴びてしまおうかと思った。しかし、それだと、もし香緒里が声をかけたらシャワーを浴びていてはわからないし、香緒里が不安になると思い香緒里が戻るまで我慢することにして、香緒里からは見えないようにそっと外でに出て一服する。
紫煙を吐きながら不思議なことが連続した今日を思い返していた。早朝は宏一の隣に全裸の友絵がいたのだ。今からはとてもそうは思えない。それに見知らぬ中国人とも話した。宏一の中国語は聞きにくいらしかったが、それでも一生懸命話してくれたし、リンゴもくれた。リンゴよりも気持ちがうれしかった。そしてスカイツリーで無駄な時間を過ごしてから軽井沢だ。いろんなことをした一日だった。
そんなことを考えながら煙草を2本ほどふかしていると、お湯の音がして香緒里が出る気配を感じたので部屋に戻った。
香似「はガウン姿で戻ってくると、直ぐにバスルームに入った。さっきは少しパニクっていたのでとにかくガウンに着替えてジャグジーに向かうことしか考えていなかったが、下着を着ないでガウンを着たので、今は全裸の上にガウンを着ているだけだ。さすがに脱いだ下着をそのまま着るのは嫌だったので、どうしようかと考え込んでしまった。幸いにもナイトウェアがあるのでそれを着ていればしばらくは大丈夫だ。そこで香似「は下着類を洗面台で手洗いしてからタオルで包んで海苔巻きのように丸くまとめ、シェルフに仕舞っておくことにした。これならタオルが短時間で水分をしっかりと抜いてくれるから、少ししてからシェルフの中に干しておくだけで直ぐに乾かすことができる。これも実家の旅館に泊まっていたお客さんに教えてもらったことだった。
「香似「ちゃん、それじゃ、俺もちょっとジャグジーに入ってくるね」
香似「が洗濯を始めると宏一の声がして、宏一がジャグジーに向かうのが分かった。香似「はほっとして洗濯を始めたが、考えてみればあこがれのホテルで下着を洗濯している自分がおかしくなってきた。ほんの数時間前まではこのホテルに入ることすら無いだろうと思っていたのに、今はこうして寝る準備をしている。もちろん彼と来ていればもっと別の感情もあったと思うが、だからと言ってこうしているのを残念がるほど我が儘では無かった。
きちんと下着を洗濯してからタオルに包んでシェルフの中に仕舞い込み、外から見えなくしておくと、香似「は改めて簡単にシャワーを浴びることにした。ここまで来たら、しっかりとシャワーを浴びて髪も綺麗にしておきたい。香似「はガウンを脱ぐと大きなバスを使ってシャワーを浴び始めた。
やがて香似「がシャワーを終わってナイトウェアになってから髪を整えてリビングに戻ってくると、既に宏一は戻っていた。宏一はガウン姿になっている。
「香似「ちゃん、さっぱりした?」
「はい、結局シャワーも浴びちゃった」
香似「はそう言ってぺろっと舌を出すと、
「三谷さん、冷たいもの、飲みますか?」
と言って冷蔵庫を開けた。そして『なんか、こんなことしてると新婚さんみたい』と思った。
「あ、ごめん。冷たいものを買ってこようと思ったんだけど、香似「ちゃんをジャグジーにおいたまま部屋を出るのが心配で、結局行かなかったんだ。ごめん」
「ううん、居てくれて良かったです。私もちょっと気になってたから」
「そうなんだ。何か買ってこようか?飲みたいもの、ある?」
「ううん、ここにあるだけで十分。あ、高いかな?」
「良いよ、それくらい。気にしないで」
「はい、それじゃ、遠慮無く出しちゃいますね」
香似「はそう言うと、自分にはノンアルコールカクテルを出し、宏一には缶のビールを出した。
「三谷さん、こんな高校生の女の子をエスコートして、つまらなくないですか?」
「どうして?高校生だろうとなんだろうと、旅で出会ったんだ。大切にしたいし、その方が楽しいよ」
「本当に大人っていうか、紳士なんですね」
二人は自然にソファに隣同士に座り、飲み物を片手に話し始めた。
「なんか、こうしてるのがとっても不思議」
「俺も。まさか、こんな可愛い子が部屋に来るなんて」
「部屋に誘っておいてそんなこと言うんですか?まるで私が・・・」
「ごめん、ごめん、そんなつもりじゃないんだ」
「これでも、普段の私よりずっと無理してるんだから」
「ごめんなさい。来てくれて嬉しいんだ。気を悪くしたなら謝るよ」
「良いです。悪意が無いのは分かってますから。これでも人を見る目だけはあるんです」
「良かったぁ。人を見る目があるのは家の商売柄なのかな?」
「それももちろんあるけど・・・、私だって・・・・」
「そうか、そうだよね。人を見る目って、しっかりとトレーニングしないと養えないものね」
「きちんとフォローしてくれるんですね。やっぱり大人の人は良いな。がんばった甲斐があったな」
香似「はそう言うとにっこり笑った。
「香似「ちゃんはアルバイトで軽井沢には何日くらい居るの?」
「元々は夏休みの4週間の約束なんだけど、あと十日くらいかな?」
「休みの日には家に帰るんだよね?」
「そう、・・・・だけど、だんだん休みが不規則って言うか、休みになっても家に帰れるほどじゃなくなってきて・・・・。だから休みの日はあんまりやること無くて・・」
「そうなんだ。やっぱり大変なんだね」
「でも、泊まるところまであるアルバイトって少ないから・・・・。日給は安くてもこの方がお金が貯まるし」
「偉いよね。ちゃんと計画的に考えてるんだもの」
「そんなに計画的ってほどじゃ無くて、もしかしたら良いことあるかも?って感じも多くて」
「良いことあった?」
「もちろん、三谷さんに知り合えたのが一番」
宏一は香似「との距離を少し詰めようと、缶ビールをテーブルに置くふりをして少し身体を近づけた。しかし、香似「はてきめんに近づいた分だけ距離を置いた。もちろん、二人とも知らん顔をしている。

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