ウォーター

第二百二十五部

 

さて、と思ってスマホを見ると、驚いたことに2時間ほど前から不在着信が溜まっていた。電話番号を見ても記憶が無い。セールスにしては少し悪質だと思いながら着信記録を消していると、再び同じ番号から電話がかかってきた。これ以上続けられては困るので仕方なく出ることにする。
「もしもし?」
「あ、もしもし、三谷さんの携帯でしょうか?」
若い女性の声が聞こえたが、それはとても丁寧な話し方で、セールスコールのような紋切り調の声ではなかった。しかし、名前を知っていると言うのは何か嫌な気がする。
「はい・・・・三谷です」
宏一は恐る恐ると言う感じで答えた。
「あぁ、良かった。申し訳ありません。営業一課の松野と申します。お休みのところ申し訳ありません」
「営業の方?どうしましたか?」
「お休みのところ申し訳ありません。今、少しお時間、よろしいでしょうか?」
「はい、トラブルですか?」
「はい、実は今、私は尾道におりますが、ネットワークに問題が起きているようで、お休みとは存じますがご連絡させていただきました。大変申し訳ございません」
松野はとても丁寧な言い方で無礼を詫びると、問題解決を依頼してきた。それなら宏一の領域だ。放っておくわけにはいかない。
「はい、良いですよ。ただ、私も今は出先なのでどこまでお役に立てるか分かりませんが・・・・・」
「はい、とりあえず聞いていただけますか?」
「はい、どうぞ」
宏一はモールの端にある木陰のベンチに座ると、荷物の中からいつも持ち歩いている小型のノートPCを取り出して会社に繋ぎ始めた。時間に関係なく呼び出しを受けるのはネットワーク管理者の義務みたいなものだ。
「それではご説明させていただきます」
「あ、松野さん、その前にちょっとだけ」
「はい、なんでしょうか?」
「ID全桁とパスワードの下4桁を教えてください。これは本人確認です」
「はい、わかりました」
スラスラとIDとPWを言うところを見ると本人のようで、宏一の持っている本人確認用のソフトもパスした。
「今持っている機器は何ですか?」
「これは・・B5サイズの・・」
「あ、分かりました。それで結構です。お話しください」
「はい、実は明日の10時から取引先と会議があり、その資料を取り出そうとしているのですが、どうしてもエラーになってしまって取り出せません。アクセスしようとすると、かなり長い時間探していると言うか、速度が遅いと言うか、そんな感じです」
「ネットワークドライブですか?クラウドですか?」
「ネットワークドライブです」
「そうでしょうね、クラウドなら認証でエラーになっても、通信速度自体は変わらないから・・・・・」
「それで、今日中に取り出して入力して、明日の朝には先方に送って印刷してもらう必要がありますので、ご迷惑とは思いましたが他に頼る当てもなくて・・・・・」
「良いですよ。これは私の仕事ですから」
「あの、それで、どうすればいいでしょうか?」
「それではいくつか質問させてください」
宏一はタブレットを見ながら話し始めた。
「はい、どうぞ」
「松野さんは、この表示を見ると社員の方で、最近二課から転属になっていますが、その通りですか?」
「はい、そんなことまでわかるんですか?その通りです。この案件を持って一課に移りました」
「この案件を持って・・・か。転属と同時にですか?」
案件を持って移動したと言う事は、関連するファイルも一緒に移動したと言う事だ。
「はい、その通りです。案件が移動したので私も移ったんです。」
話を聞くと、松野の担当している新規の練り物案件が、開発が進んでいく過程でスーパー向けの加工用惣菜材料から個人客向けの末端商品へと性格が変わってきたため、先月末に卸し担当の二課から個人商店やデパートでの個人客向けのリテール部門を担当する一課の開発グループに転属になったのだと言う。その際にはこの案件の全てを持って移動したらしい。
「移動になったのは松野さんの他には誰かいますか?」
「いいえ、私だけです」
「それでは、上司は変わったんですね?」
「はい、そうです。林さんから村上さんになりました」
「これを見ると、予算も一緒に動いているみたいですね」
「はい、その通りです。このプロジェクト自体が移ったので。ただ見直しで予算額の上限が増えていますが・・・・」
「そうか・・・・・」
だんだん様子が分かってきた。宏一の設計した営業システムでは受発注管理のほか、予算管理や納品管理などの経費も管理している。今回のように仕事と担当者が丸ごと課を跨いで移動する場合、当然予算や経費も移動することになるのでシステム上の管理を変更しなければならない。
これはアクティブディレクトリと言う管理方法で一元的に管理できるのだが、そのアクセス権管理自体は秘匿性の問題もあってシステム担当の宏一ではなく、各課の管理担当者が専用のソフトで行うことになっている。宏一はその整合性を毎回チェックしているのだが、中身まではチェックしないのだ。つまり、宏一はシステムとしての完全性を確認しているだけで、アクセス権が適切かどうかは分からない。どうやら、その案件の移動に伴う管理作業で権限を二課に変更する段階で問題が起きたらしい。
「その目的のファイルに最後にアクセスしたのはいつですか?」
「昨日の午後です。3時ごろ」
「どこに居ましたか?」
「自宅に居ました」
「自宅からアクセスしたんですね?」
「はい・・・いえ、あの・・・・・」
「なんですか?」
「本当は、金曜日に会社で資料をまとめた時に開いていて、ファイルを開いたまま自宅に帰って、それから再度開いて・・・・申し訳ありません」
移動中にファイルを開いておくのは禁止されている。紛失した際に読まれてしまう危険があるからだ。
「そんなことはいいですよ。必要ならやるしかないんだから。会社で開いたまま移動して自宅で更新上書きしたんですね?」
「はい、そうです」
「それではちょっと時間をください。数分ですが、どうしますか?いったん切りますか?このまま待ちますか?」
「このまま待ちます。良いですか?」
「良いですよ。それじゃ、都合が悪くなったら予告無しにいつでも切ってください」
「はい、ありがとうございます」
宏一はタブレットに管理者権限を入れてネットワークに入ると、松野のファイルを探してみた。一課で一番新しいプロジェクトのフォルダーを見てみると、それらしいものが見つかった。
「松野さん?」
「はい」
「この『提案形状リストと中味候補』と言うやつですか?これが昨日の夕方に更新されてますが?」
「はい、そうです。それを開きたいんです」
「はい、わかりました。ちょっと待ってて下さい・・・。あれ?これは・・・・・」
宏一はこのファイルとフォルダーの属性に違和感を覚えた。
「松野さん、このファイルにアクセルできるのはどんな人ですか?」
「それは・・・一課の人ならだれでも・・・・それに、二課の人だって・・・」
「普通のデータファイルですよね?それとも特別な権限が必要ですか?」
「そんなことはありません。私は管理職でもないし、ただの下っ端ですから」
「そうですか・・・・・」
「あの・・・何かシステムに問題があるんですか?」
「システムに問題と言うよりは・・・・・・・。ええと、どうしようかな。今日は予算関係のファイルにもアクセスしますか?」
「今日は必要ありませんが、明日、会議の後で見積もりをアップデートしますし、販売計画の修正と経費入力もありますけど・・・・・」
「そうか・・・・」
少し考え込んでいた宏一は、思い切って提案した。
「それでは、20分ほど時間をいただけませんか?」
「はい、わかりました」
「ちょうどお昼だから昼食でも食べていただいて、その間に直しておきますよ」
「あの・・・・他のファイルにもアクセスできないものがあるみたいなんですが・・・・」
「そうでしょうね。分かっています。大丈夫。一時的な変更になりますが、直しますよ」
「データが壊れたとかなくなったとか、そんなことですか?」
「違います。設定の問題です。詳しくは明日以降、私のところに来ていただいて確認してもらう必要がありますが、今はとりあえず自由にアクセスできるようにしておきますから」
「はい、ありがとうございます。帰社するのは水曜日の午後になりますが、そちらに伺うのはその後でもよろしいですか?」
「もちろんいいですよ。それでは、全部の機器のスイッチを切ってしばらく待っていてください。私から電話します。この番号で良いですよね?」
「はい、待っています」
宏一は電話を切ると、修正に取り掛かった。会社の大画面のパソコンならすぐにできるのだが、表示領域の狭いノートPCだとかなり手間がかかる。宏一のPCは作業自体は会社と同じようにできるが、広い表示領域が必要なのはいくつもの権限を一元的に管理するアクティブディレクトリの欠点だった。
宏一はあちこちのフォルダーの権限を確認しながら修正していく。本当は中のファイルのシステム上のアクセス先を考慮しながら権限を設定しなくてはいけないのだが、さすがにそれはここでは無理なので、臨時に松野にシステム上管理職の権限を与えて自由にアクセスできる幅を広げておき、さらにディレクトリの設定を修正していく。もちろん、本来の管理職がアクセスする領域には保護をかけておいた。
すると松野からまた電話がかかってきた。
「はい松野さん、どうしましたか?」
「あの、ほかに修正したファイルと、これからアクセスするファイルもお知らせしておいた方が良いかと思って・・・・・ご迷惑でしょうか?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。助かります。教えてください」
「はい、それではファイル名は・・・・」
松野はいくつかファイル名を伝え、宏一はそれを書き留めておいた。
「松野さん、余計な話だと思いますが、このプロジェクトって結構インパクトありそうですね?」
「はい?そんなことわかるんですか?」
「はい、かなりヒットしそうな予感が・・・・、いえ、勝手に想像しているだけで、私はファイル名を見ているだけですが。プレゼン用のファイル名は結構親切に書いてあるから、ある程度どんなことをしているのかがわかるもので・・・ごめんなさい」
「あぁ、そうなんです。いろいろな方に見てもらう必要があるし、渡すファイルもありますから。このプロジェクトは開発が進んできた段階で家庭の食卓に新しい提案ができるものになりそうなので二課からこちらに移ってきたんです。今まで練り物っておでんとかに限られてましたから」
「そうでしょうね。練り物を一つの媒体にして、いろんなものを入れられるって言うのは無かったですからね」
「わかっていただけて嬉しいです」
松野の声が一気に明るくなった。その声はどうやらかなり若い女性のようだ。宏一は電話で話しながらもディレクトリの設定をどんどん直していく。
「この『窓』っていうのは、練り物に窓を付けるんですか?」
「はい、はんぺんやさつま揚げにポケットを作って透明な窓を付けるんですよ」
「中味が見えるように?そんなことできるんですか?」
「それができるんです。ポケットの形や窓に結構苦労しましたけど」
「凄いですね。透明な窓なのに食べられるんだ」
「そうなんです。秘密ですけど、こんにゃくを使ってるんです」
「そうか、透明なこんにゃくゼリーとかありますものね」
「わかっていただけて嬉しいです」
宏一はそんな話をしながらも、設定をあちこち直していった。
「それじゃ、はい、これでだいたい直ったはずです。一度電源を切ってから再度接続してみてください。まず必要なファイル全てを開いて、スペースをどこかに入れて上書き保存してください。問題なくできるかどうかの確認をお願いします」
「ありがとうございました。戻ったら改めてお礼に伺います」
「お礼はいいですけど、帰社したら一度おいでください。ちょっと説明しておくべきだと思いますから。ちょっと相談もありますし」
「はい、わかりました。今は第三応接にいらっしゃるんですよね?」
「そうです。いろんな工事業者の方が出入りしているので慌ただしいですが、お待ちしております」
「ありがとうございました。それでは失礼いたします」
宏一はそれを聞いてタブレットの電源を落とし、一息ついた。このトラブルには気になることがあるが、それは会社で考えることにして残り少ない日曜日を楽しむことにする。
すると、数分してから松野から電話があり、必要なすべてのファイルにアクセスと保存ができたことと礼を伝えられた。
安心した宏一は改めて一息入れて周りを見渡した。木陰とは言え、外にずっといたのでだいぶ暑くなって来た。どこか冷房の効いたところに入って身体を冷やしたい。そこで宏一は駅まで来ると、近くで昼食を食べる事にした。そこでまず、由美にお土産としてチョコケーキを買おうと思ったが、直前に買わないと保冷剤が切れてしまうと思い、後にして昨夜からの疲れもあるので駅の反対側の昔から栄えているエリアの老舗の蕎麦屋に行く事にする。

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