ウォーター

第二百四十部

 

「三谷さんはお詳しい・・・じゃなかった、よく知ってるんですね?」
まだ松野は営業口調が直らないようだが、宏一は一生懸命口調を直してくれている松野の心遣いが嬉しかったので何も言わなかった。
「バーテンの人たちはバーテン同士でネットワークも持っているし、紹介カードも持っているんですよ。そのカードを持って行けば紹介した側は貸しができるし、された側にも信用のおけるお客が増えるからメリットがあるでしょ?そうやって紹介してもらったのがこのお店なんですよ。私が詳しいわけじゃないんです。それに、そう言うほど詳しくないけど、ここには何度も来ているので、私がマティーニを頼むと、ちゃんとジンでドライに作ってくれますよ」
「ジンでドライって・・・」
「マティーニっていうカクテルは、ジンベースで作ったりウォッカベースで作ったりするんだ。たいていどっちにするか聞かれるんだけど、俺はすっきりした感じの強いジンベースで作ってもらうよ。ドライっていうのは、甘みのあるお酒をどれだけ入れるかってことで、俺は少なめが好きかな」
「知らなかったです。それであの、私に頼んでくれたテキーラ・・・・はあんまり飲んだことがないんですけど」
「凄く強いお酒だと思って心配してますか?」
「あの・・・・ちょっとだけ・・・・」
「正直だなぁ。大丈夫。オレンジジュースが主体のロングカクテルだから、そんなに強くないよ。酔わせてどうこうしようなんて思ってないから」
宏一がそう言って笑うと、松野もつられて笑った。
「そんなこと思ってませんよ。でも・・・・・」
松野はそう言うと思わせぶりに微笑んだ。やがてカクテルが来たので、二人で乾杯した。
「それじゃ、乾杯」
「何に?」
「松野さんのテキーラサンライズは日の出をモチーフにした女性向けカクテルだから、松野さんの新しい日の出、出発に」
「はい、そうですね、ありがとうございます。乾杯」
松野はにっこりと微笑んでカクテルを口にしたが、その笑顔はまだ硬い。
「素敵なこと言うんですね。もう、三谷さんになら、直ぐに落とされちゃいそうです」
松野はふとそんなことを言った。それを聞いた宏一は、きっと寂しいのだろうと思った。どうやら人恋しくなっているようだ。
「そうなんですか?それじゃ、松野さんは落として欲しいですか?」
宏一がおどけて言うと、
「それは・・・・・内緒です」
松野はそう言って、今度は本当ににっこり笑った。
「でも、松野さんは美人だから落とそうとアプローチしてくる人は多いでしょ?」
「そんなにいませんよ。取引先の人に言われたことはありますが、取引先だと仕事が絡むからちょっと・・・・・ね。他は無しです」
もちろん宏一は、女性が自分で『恋人はいない』とか『アプローチされたことはない』などというのをまともに信じるほど初心ではないが、そういう松野と松野の雰囲気がとても似合っていて心地よかった。
それから二人はお互いの経歴について軽く紹介し合った。特に宏一は女性で営業をやっている松野がどうして営業になったのかに興味を持った。
「女性だと大変でしょう?いろいろあって」
「はい、もともとは営業でいろんな人に会って話をまとめる仕事がしたくて営業を志望したんですが、この世界に女性は少ないですからね。正直に言うとしんどいことや辛いことも結構あって・・・・、女性と言うだけで落胆したり不機嫌になる人も居るんです。だからどうしようかと思ったりするときもあるんです。でも、会社も試験的に女性を営業に回してみようって思ったらしくて、見られていると思うと簡単にはギブアップできないと思うし」
「女性というだけで不機嫌になるっていうのは?」
「エースじゃなくて補助を回されたって思うらしいです」
「そんな・・・・、でも仕事ぶりがしっかりしてれば大丈夫ですよね?」
「そう言ってもらえると嬉しいんですが・・・・、なかなか現実はいろいろあって」
「そうですよね、仕事の相談とかはきちんとできるんですか?」
「それは問題ないですけど、接待がらみだとちょっと・・・・」
「でも、辛い時も女性だとなかなか相談できないだろうから・・・・・」
紘一がそういうと、松野は一息ついてから改めて話し始めた。
「もしかしたら、それがこうなった原因だったのかも・・・・・・、相談できる相手ができて嬉しかったから・・・・・・・馬鹿ですね。きっと、相談したいオーラをいっぱい出してたんでしょうね」
「そんなこと言うもんじゃないよ。少なくとも松野さんが馬鹿だなんて事は無いから。誰だって辛い時には相談したい人が欲しいんだから、もう自分を責めるのは止めたらどう?責めても何も良いことないよ?」
「優しいんですね。・・・・・・でも、はい、そうします」
「松野さんは責任感が強いから、どうしても自分を責めちゃうみたいだけど、それは悪い癖ですよ」
「そうですね・・・・・。確かにそれが原因なんだから・・・・・」
松野がそう言ったので、また自分を責めていると思った宏一は、慌てて話題を変えた。
「あの、プライベートなんだから、名前で呼んでくれませんか?」
「あ、良いですよ。三谷さんの名前は何ですか?」
「宏一って言います。松野さんは?名前で呼ばれるほど親しくないから嫌かな?」
「いいえ、もう十分です。舞って言います」
「ほう、しゃれているようで古風なようで、素敵な名前ですね」
「はい、私も気に入っているんです。宏一さんは自分の名前、好きですか?」
「あんまり気にしたことがないけど、バランスの良い名前だとは思ってるかな」
「確かに、名字とのバランスが良いですね」
「それじゃ、名前で呼んでも良いですか?」
「はい、宏一さん、良いですよ。お願いします」
舞はそう言うとにっこりと笑った。元が端正な和風美人なので心から笑った時の笑顔は本当にすばらしい。美しいの一言だった。
それから二人は名前の話や旅行先の話で盛り上がった。その間に宏一と松野はカクテルを3杯ずつ飲んだ。
ふと気が付くと零時近くなっていた。しかし、松野はまだ話に夢中になっている。宏一は電車が無くなるのが分かってはいたが、さすがに今日のこの状況では話を切り上げるわけにはいかなかった。やっと舞に笑顔が戻って着始めたのだ。もちろん、ここで帰っても舞は何も言わないだろうが、もう少し話を聞いてあげたかったし、聞きたいとも思った。
そしてしばらくしてから舞がぽつりと言った。
「宏一さん、良いんですか?こんな時間になったけど・・・」
「良いですよ。今日は舞さんに完全におつきあいしますから」
「そんなこと言われると・・・・そんなに優しくされたら・・・・本当に私・・・・・」
舞はちょっと困ったように言うと、少し顔を背けた。
「?どうしましたか?」
「いえ、ちょっと目に・・・・・なんでもありません」
「それなら良いですけど・・・・」
宏一が軽く流すと、舞は静かに言った。
「宏一さん、あの・・・お願いが・・・・・」
「はい、何でしょうか?聞かせて下さい」
「それはここではちょっと・・・・・・・あの・・・・」
「それなら場所を変えますか?良いですよ」
「あの・・・・・変なこと言うようですけど、呆れたりしないで下さい・・・・」
「呆れる?どうして?」
「いえ、これ以上はちょっと・・・・・とにかく出ましょう」
そう言うと舞は会計に立った。宏一も席を立ち、店の外で舞を待つ。さすがにこの時間になると、街道沿いとはいえ人通りは少なかった。舞は店から出てくるとタクシーを拾い、宏一と乗り込んだ。
「あの・・・とにかく今は何も言わないで下さい」
と小さな声でささやくと、運転手に行き先を告げた。それは会社からはそれほど遠くない駅の名前だった。
「舞さんは結構良い場所に住んでいるんですね」
宏一はそう言ったが、舞は何も言わない。宏一は急に舞が黙った理由が分からなかったが、とにかくそれほど遠くはないので着くまで黙っていることにした。
やがてタクシーが駅について二人が降りると、舞は宏一の前に立った。
「あの・・・・・良いですか?」
「え?良いって・・・・」
「・・・・・・・あの・・・・・」
舞は黙っていたが、直ぐに思い切ったように言った。
「あの、朝まで一緒に居てくれますか?」
宏一はさすがにびっくりした。酔っているとはいえ、舞はまだしっかりしているから帰れないとは思えない。と言うことは、宏一を誘っているとしか思えない。しかし、ここで黙り込めば舞に恥をかかせてしまう。しかし、この時間からというのは、明らかに無理があると思った。しかし、誘った女性に恥をかかせるわけにはいかない。こうなったら行くところまで行くしかない。
「はい、良いですよ」
その言葉を聞いた途端、舞は宏一も見ずに歩き出した。慌てて宏一が追いかける。舞はそのまま駅から近いビジネスホテルの前まで来て中に入り、宏一に待っているように合図するとフロントでウォークインで部屋があるかどうか聞いた。幸い空いていたようだ。舞はキーを受け取ると、宏一と一緒にエレベーターに乗った。
部屋に入ると舞はバッグを置き、宏一に言った。
「怒ってませんか?」
それは明らかにびくびくしている感じで、舞がこんな事に慣れていないのは明らかだった。
「怒る?どうして?」
宏一がそう言うと舞は安心したようだ。ただ、まだ緊張しているのは明らかだ。
「ごめんなさい・・・・シャワーを浴びてきます。話は後で・・・・」
そう言うとさっさと部屋に備え付けの浴衣を持ってバスルームに行ってしまった。
宏一はどうしたものか少しぽかんとしていたが、部屋に灰皿があるのを見つけるとたばこに火を付けた。しかし、考えてみると自分はまだ舞の前では一本も吸っていないし、舞は吸わない。それなのに喫煙ルームを取ってくれたと言うことは、舞は宏一の胸ポケットにたばこが入っているのを見つけて気を遣ってくれたと言うことだ。さすが営業と言えばそうだが、宏一はさりげなく隅々まで気を遣ってくれる舞に感心した。
舞は十分ほどで出てくると、宏一が代わりに入り、軽く汗を流した。部屋は薄暗くなっており、舞はベッドに入っていた。
「宏一さん、こっちに来て」
舞はそう言うと隣に宏一を誘った。ただ、何というか雰囲気が宏一の想像していたものではなく、どことなく淡々としている。明らかにこれから起こることは分かっているのだが、どうもそんな雰囲気ではない。
宏一がベッドで隣に入ると、舞は静かに身体を寄せてきた。
「宏一さん、良いですか?」
しかし、甘えるという雰囲気ではなく、まるで仕事をお願いしているような感じだ。宏一は静かに舞を抱き寄せると、髪を優しく撫でながら聞いた。
「舞さん、お願いってこれ・・・・?」
「確かめて欲しいの・・・・・・・・」
「確かめる?」
「そう・・・・私・・・・・感じないみたい・・・・・」
「え?・・・・・そう?・・・・・・」
「お願い、確かめてみて・・・・・・。今日のことは絶対誰にも言わない。だからお願い・・・・・」
そう言われても、宏一にも気持ちというものがある。
「感じないって言っても・・・・・いつから?最初からじゃないでしょ?」
「それは今聞かないで欲しいの・・・・・・。言わないとダメ?」
「ううん、言いたくないなら良いけど・・・・・。でも、一つだけ聞かせて欲しいな」
「なに?」
「俺のこと、好き?」
「もちろん、だからお願いしたの。急にこんなこと言っておいて勝手だと思うけど、私が今お願いできるのは三谷さんだけだから・・・」
「うん、分かった。でも、嫌だったらちゃんと言ってね」
宏一はそう言うと舞を抱き寄せると、舞は静かに身体を密着させてきた。宏一は『細い』と思った。由美も細いが、舞は由美よりも身長があるのに身体はもっと細い。それに、どうやら胸は由美と同じか、更にもう少し小さいようだ。
「でも、やっぱり恥ずかしい・・・・・」
舞は小さな声でささやいた。宏一は優しく髪を撫でたり耳元からうなじを指先で愛撫しながら話し始めた。
「そうだよね、初対面じゃないけど、まだまだお互いを理解し合ってないから。でも、相談してくれて嬉しいよ。ありがとう」
そう言うと宏一は軽くキスをした。舞はそっとキスを受けながら、突然宏一に抱かれる気持ちになった自分を不思議だと思っていた。もちろん、舞だって食事をするまではそんな気持ちは微塵もなかったし、だからこそ何の支度もしていなかった。しかし、何となくだが今しか無いと思ったのだ。このチャンスを逃せば、またいつもの日に戻ってしまう。
「ねぇ、舞さんは明日の朝、どうするの?最初に聞いておきたいんだけど?」
「私は明日は普通にここから出勤するだけ。会社に着替えが置いてあるから」
「そうなんだ。凄いね」
「営業をしていると、突然出張になったりするから一通りの用意はしてあるの」
宏一は愛撫を舞の肩や背中にも広げながら聞いた。
「ここに来ようと思ったのはいつ?」
「さっき。食事の最後に」
「でも、勇気がいったでしょ?」
「もちろん。緊張で声が上擦ってたでしょ?こんなこと、したことないのよ」
「俺だってこんなの初めてだよ」
「ふふっ、お互い始めてって事ね」
舞は少し笑ったが、なんか無理に笑ったという感じで不自然な感じだ。
「そうだね。俺の方が年下だよね?良いの?」
「年下って言っても・・・・・・・。良いの、そう言うことは。気にしないの」
「まだ緊張してる?」
宏一は素直に疑問に思っていることを聞いた。
「もちろん、ガチガチ」
「それじゃ、キスしようか」
宏一はそう言うと、今度はゆっくりと時間をかけてキスをした。宏一が舌を入れていくと、舞はゆっくりとそれを受け止め、少しずつ舌を絡めてきた。少しずつお互いの緊張がほぐれていくのが分かる。しかし、やはりまだ心を開ききっていないのは感じられた。夢中になっているという雰囲気ではないのだ。

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