ウォーター

第三百八十七部

 
その日の夜、宏一が部屋に戻って来たときにちょうど舞から電話が来た。
『三谷さん、どうしても明日は戻れないの。来週には絶対戻るから待っていて』
いきなり舞は話し始めた。どうやら、かなり煮詰まっていてストレスが溜まっているらしい。
「舞さん、久しぶり。どうしてるのか心配してたんだよ。うん、分かった。来週だね。待ってるよ」
『うわ、安心したぁ。最近、ずっと帰れそうで帰れなくて、早く宏一さんに会いたいのに、ギリギリになると仕事ができてだめになって・・・。すっごくストレスになってたの。安心したわ』
「そんなに忙しいの?」
『そうなの。でもね、かなりあちこちに好評で、結構生産が忙しくなりそう。特に、お弁当とかにいろいろ使ってもらえそうで、いろんな依頼が来ているの。でもそれぞれ窓の中に入れて欲しいものが色々あって対応が大変。でも、これ、絶対に売れる。最初スーパーを回ってたときは、あんまり評判が良くなくて少し落ち込んでたけど、お弁当会社が見た目の綺麗さに注目してくれてね。それで、自治体のイベントの目玉にしたいって言う話まであって、次々に人に会うことになっちゃって』
舞の声は弾んでいた。疲れては居ても、仕事が順調に進むのは嬉しいようだ。
「地道に改良を繰り返したから、もう品質的には問題ないレベルまで来たんだね。凄いよ。アイデアをきちんと製品にまでつなげるんだから」
『ヒントをいっぱいもらったから。その分、私からもお礼しなくちゃって思ってるのよ』
「お礼なんて要らないよ。具体的には何もしてないんだから」
『ううん、個人的にお礼させて欲しいの。良いでしょ?』
「舞さんの個人的なお礼なら大歓迎だな」
『じゃ、決まりね』
「うん、楽しみにしてる」
そこまで話して舞はちょっと考え込んでから再び話し始めた。
『来週はお休みも取ったの。宏一さん、木曜日は休める?』
「うーん、さすがに休みはなぁ。出切るだけ時間は作るけど、休むのはちょっと無理だと思うんだ。舞さんは土日とかは?」
『土日はこっちでやることがあって・・・・・・。うん、分かった。でも、金曜日に戻るまで東京にいるから』
「うん」
『だから・・・・・・いっぱい・・・・甘えさせて?』
舞の声は小さくて可愛らしかった。年上とは思えない感じだが、その中にはやはり大人の雰囲気がある。
「もちろん。それじゃ・・・『あれ』を使っていっぱい、だね?」
『・・・・・・・・うん』
さすがに舞は恥ずかしそうに返事をした。
「それじゃ、来週の水曜日、夕食はこっちで手配しておこうか?」
『ううん、私にさせて。それくらい、私のお楽しみに取っておきたいの、いいでしょ?』
「もちろん。仕事のしすぎには注意してよ。やっと会えたのにぐったりしてて何も食べたくないなんて悲しすぎるから」
『絶対それはだいじょうぶ。宏一さんに会えれば何だって食べちゃうから』
「俺だって何でも食べるからね。楽しみにしてるよ。それと、金曜日の朝まで出切るだけ時間を作るからね?」
『うん、そう。楽しみにしてる。本当よ。宏一さんと一緒に過ごせるから頑張れるの。あ、車が来たみたい。それじゃ、またね』
舞の返事には心がこもっていた。
「うん、頑張ってよね。いっぱい話を聞かせてね。電話ありがとう。楽しみにしてる」
宏一はそう言って電話を切った。
そして水曜日、宏一が工事業者と打ち合わせをしていると、舞からまたSNSが入った。電話の内容の確認で、来週の水曜日は一緒に過ごすのを楽しみにしていると言う。宏一はもちろんOKした。
ただ、週の後半はいつもそうだが、宏一もあちこちの業者と配線工事の具合を見たり、問題を解決する方法を打ち合わせたりでかなり忙しい。それに、今は新人のさとみに説明して理解してもらう手間が増えているので仕事の進み方はどうしても遅くなる。さとみは頑張っているが、仕事が進まないのは自分でも理解していると見えて普段以上に頑張っている印象だ。ただ、本人が望まない限り定時で返さなくてはいけないので、友絵の時よりも進み方はかなり遅かった。
しかし、今週はいつもより更に仕事が溜まっていた。宏一は、これ以上さとみにさせると時間ばかり掛かるので自分でやることにした。
「水野さん、後はやっておくからね。お疲れ様。明日の朝にやったことを説明するから」
「でも・・・・・」
さとみは明らかに戸惑っていた。自分の仕事が遅いことは良く自覚しているらしく、いつもやり残しを宏一に任せて帰っていることに気後れしているのだ。
「どうしたの?」
「いえ、あの・・・・もう少し、やっても良いですか?」
宏一は正直に言うと少しがっかりした。さとみがやれば終わるのが遅くなるからだ。しかし、むげに断るのも可愛そうだ。
「だめですか・・・・」
「ううん、そんなことないよ。でも、残業できるの?女の子だから会社の後にいろんなやることがあるだろうに・・・・」
無理に年上じみた返事をする宏一の言葉に、さとみはそれが遠回しに断っているような気がしたらしい。
「そんなことは・・・・・・・・・このままじゃ、いつまで経っても仕事を覚えられないし・・・・やっぱりだめですか?」
宏一は心を決めた。
「うん、分かった。それじゃ2時間。それでいい?」
「はい、我が儘言ってごめんなさい」
「ううん、ぜんぜん」
そう言って二人は残業を始めた。
「斉藤さんて、凄く優秀な人だったんですね」
「そうか、水野さんは年下で離れてるからあんまり知らないんだ」
「部署も違ってたし、仕事でも会うことはなかったし、お昼も一緒じゃなかったから・・・・」
「そう言えばお昼か・・・・斉藤さんはいつも俺と一緒だった、って言うか、ここに居たからね。業者の人にお茶を出したりしてたから、他の女子社員みたいにお昼が休憩時間じゃなかったからね」
「そう・・・・・今度からこっちに居ます」
「ううん、無理にしなくたって良いよ。斉藤さんは工事業者の人のアイドルみたいな感じだったから、彼女の顔を見にお昼にこの部屋でご飯を食べる人とが結構居たんだ。短い昼休憩でリラックスしたいんだろうね。彼女だってそれが楽しかったみたいだし」
「まだ私には無理・・・・・見たいですね。業者の人もよそよそしいし」
「いきなりはね。一つずつだから。業者の人と仲良くなるにはコツみたいなものがあるみたいで、斉藤さんはあっという間に親しくなったけど」
「はい・・・・・」
さとみは遠い道のりに気が遠くなるような気がしたが、宏一と一緒に居られるのは嬉しかったので気合いを入れた。実際、宏一と二人だけの職場に来たことで、あちこちの女子グループから呼ばれて話を聞かれたりして、さとみ自体は優越感に浸ったことも多い。
結局、その日は気合いを入れて残業することになった。8時を回ったとき、宏一はさとみに聞いた。
「水野さん、まだ頑張れる?」
「はい、やります」
「それならお弁当を買ってきてくれる?」
「はい、分かりました」
「中味はお任せするから」
「はい、いくらくらいですか?」
「1人千円以内でお願い」
「はい」
さとみは宏一からお金を受け取ると、買い出しに出かけた。『これがあの『買い出し』なんだ、と思った。実は、友絵が夜遅くに買い出しに出かけたりするのは女子の間で伝説のようになっており、噂好きの女子の間では話題になっていたのだ。しかし、実際にそれを自分がすることになってみると、気が遠くなるような仕事量の前にげっそりしてしまった。結局、その日さとみが退社したのは9時半を回っていた。
宏一にとってはさとみがやる気を出してくれたのは嬉しいが、実際の仕事はペースが落ちる一方で、金曜日まで残業が続いた。仕事が順調なときは発注伝票と業者が置いていく日報を元に業者への支払伝票を作って、使った資材や消耗材と在庫を照らし合わせて補充分の発注伝票を作り、翌週の分を計画から割り出して仕分けしておくだけで済むが、トラブルが起こるとそれが全て2倍になるし、期日などが全部変わるのでいくらやっても終わらない気がする。さすがに金曜日はさとみを早く返したので宏一が部屋に戻ったのは夜中だった。疲れていたので部屋に戻る途中で牛丼を食べてビールとおつまみを買って部屋に戻り、汗を流してから部屋で一人飲みを始めたが、いくらもしないうちに寝落ちしてしまった。
そしていよいよ土曜日が来た。木曜日に母親からメッセージで午前十時前に東京駅の八重洲地上中央改札で待ち合わせるように指示が来ていたので宏一はほぼいつも通りの時間に起きると部屋を出た。そして時間より少し前に到着したが、既に結衣は来ていた。スラッとした美人系の制服の女の子が荷物を持ってるので直ぐに分かった。
「結衣ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
結衣は返事をしたが、緊張からか表情が固い。
「どうしたの?体調が悪いの?」
「いいえ・・・・」
「それなら良いけど・・・・・・だいじょうぶ?」
「はい・・・」
相変わらず口数が少ない。結衣は直ぐに財布から切符を取り出して宏一に渡した。
「これです。行きましょう」
「うん、わかった」
チケットを見ると踊り子号のチケットだ。
「伊豆に行くんだ。グリーン席だね」
「はい・・・・伊豆になりました」
「結衣ちゃんが選んだの?」
「いえ・・・母と二人で・・・・・」
「ありがとう。伊豆なんて久しぶりだよ」
「行きましょう」
そう言うと結衣は改札へと入って行った。宏一は結衣の様子を見ながら『お母さんは結衣ちゃんが俺と過ごしたいって言ってるって言ってたけど、どちらかと言うとお母さんの指示だったのかも知れないな』と思った。どうも結衣が喜んでいる雰囲気ではなかったからだ。ただ、間に入った人が言うのと実際が違っていると言うのはよくあることで、それは仕事だって同じだ。宏一は気にしないことにした。
東京駅十時発の踊り子号は定時に出発した。グリーンは混んでいるほどではなかったが、それでもそこそこ席が埋まっている。列車の時間がちょうど良いからだろう。
「結衣ちゃん、今日は二人で旅行だね」
「はい」
結衣はもともと言葉が少ないので、会話が弾まないのが欠点だ。
「これからの日程を教えてくれる?」
「日程・・・・・伊豆に行きます」
「どこで降りるの?」
「伊豆高原」
「それから?」
「タクシーに乗ります」
「どこまで行くの?」
「それは・・・・・・」
結衣は荷物からノートを取り出した。
「旅館に行きます」
「どんなところ?」
「どんな・・・・・・・和風の・・・・旅館です」
とにかく会話が弾まない。宏一は、結衣は本当は行きたくないのでは無いかと思ったくらいだった。
「あんまりいろいろ聞かない方が良い?」
「そんなことは・・・・・・・」
結衣自身も宏一と楽しく会話ができないことを気に掛けていた。しかし、もともとそんなことはしたことがないのだから仕方が無い。なんと言っても今日、これからのことを考えれば心臓が喉から飛び出すくらいに緊張しているのだ。男性と二人で旅行などしたことはないどころか、結衣は今まで家族でも殆ど旅行に出たことはないのだ。唯一、今まで経験したプライベートな旅行と言えば車で出かけたくらいで、それは単に自分は乗っていれば良いだけだったからだ。
しかし、今回、初めて母に心から打ち明けて相談したところ、花親は真摯に結衣の話を聞いてくれた。それは結衣にとって初めての心を開いた会話であり、母親の心配する気持ちが心に沁みた。そして母親が強く宏一と旅行に行くことを勧めてきた。結衣自身は半信半疑だったが、母を信じたから来たのだ。どちらかと言うと宏一を信じたというわけではない。正直、結衣はまだ宏一を信用しきっていなかった。バージンを卒業させてくれた時には緊張していて正直、いろんな事がありすぎて宏一のことまで考える余裕がなかったからだ。もちろん、バージンを卒業したこと自体は後悔していないが、その後が悲惨すぎた。少し思い出すだけでも背筋が寒くなって気持ち悪くなるくらいだ。
結衣がなんと言って良いのか分からずに黙っていると、宏一が一言言った。
「お母さんから聞いてるよ。とにかく、結衣ちゃんが元気になれるようにしようね。無理に元気にならなくて良いから。気が進まなければ、ずっと一人で至って構わないよ。迷惑にならないようにする」
「・・・・・迷惑なんて・・・・・こっちがお願いしたのに・・・・・」
「ううん、それはそれ。結衣ちゃんの気持ちだって、傷ついたんだから直ぐに元気になるなんて無理だよ。身体の傷だって治るのに時間が掛かるのと同じで、心の傷だって時間が掛かるんだから。それに・・・・・・身体の傷だってまだ治ってないかも知れないし・・・・」
宏一の言葉に結衣は答えなかったが、心の中で『身体の傷は治ったみたいなの・・・・』と思った。でも、宏一の気遣いは嬉しかったし、安心した。そして、ロストしたときの宏一に抱かれていた甘い時間を思い出した。ただ、やはりまだ乱暴に何度も挿入された記憶が蘇ってきた。
結局、伊豆高原で降りるまで二人の会話は全然弾まなかった。

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