ウォーター

第三百八十九部

 
「どうしたの?」
「教えて・・・・もらえる?」
「もちろん、いいよ」
「・・・・・ごめんなさい・・・・」
結衣はそう言うと小さな問題集を開いた。
「数学なんだけど・・・・これが分からなくて・・・・・・」
そう言うと結衣は数学の問題を一つ指さした。
「えっと、1枚百グラムのコインが10枚ずつ入った袋が十袋あって、一つの袋だけは1枚90gのコインが入っています、一回だけ重さを量ってどの袋に九十グラムのコインが入っているかを見つけなさい、だね?」
「そう」
「中学の数学って、基本的に簡単なものが多いから、レベルの高い問題って図形の場合が多いよね?」
「図形は得意だから・・・・・・・」
「そうなんだ。だから結衣ちゃんは図形以外の問題の勉強をしてるのか」
結衣は問題を指さして聞いた。
「これ、わかる?」
「もちろん」
「教えて」
「良いけど・・・・・答を教えたんじゃ意味ないしなぁ」
「ちゃんと教えて」
「うん、分かった。ちょっと待ってね」
宏一は少し考え込んだ。正直、結衣と二人になってもこう言う展開になるだろうとは予想していたが、ちょっと残念なのは仕方が無い。しかし、これがたぶん結衣には癒やしになるのだろうと思って頭を切り替えた。
「結衣ちゃん、この問題のポイントはなあに?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「それを考えるのが一番大切だよ」
「・・・・一回だけ計る・・・・」
「そう。一回だけしか計れない。もし何回も計れるなら順番に計っていけば良いからね」
「そう」
「それじゃ、一回だけ計ってどの袋なのかが分かるためには、どうすれば良いか、だよね?」
「それは分かってる」
「そうだね。ごめん。それってどういう意味なんだろう?」
「意味?」
「そう、意味」
「わかんない。言ってることがわかんない」
結衣はかなり真剣に考えていた。宏一が感じたように、今はこうやって勉強を教えて貰うことが結衣にとって癒やしになっているのだ。結衣は何となく心が優しさに包まれていくような感覚を感じていた。
「ねぇ、十個の袋からコインを取り出さずに、どの袋か見つけることはできるの?」
「・・・・・・・・できない」
「そうだよね。やっぱり計らないと分からないよね?」
「でも、一枚ずつ取り出して計ったって・・・・・・・どれかなんて・・・・・」
宏一は敢えて何も言わなかった。結衣は宏一の顔を見たが宏一は何も言わない。結衣はどうして宏一が何も言わないのか不思議に思った。そして気が付いた。ここがポイントなのだと。
「え・・・・一枚ずつ取り出しても・・・・・・・・・わかんない」
「だから?どうする?」
「一枚じゃだめって事?でも、二枚ずつでも・・・・・三枚ずつでも・・・・同じじゃないの?」
「そうだね」
「それじゃどうすれば・・・・?????え?取り出さない?」
「・・・・・・・・」
「計らないと分からないって・・・・・・だから・・・・・」
「だから?」
結衣は真剣に考えた。そして、何となく自分の考えに引っかかった。
「だから一枚ずつでも二枚ずつでも取り出して・・・・・・・同じ枚数だけ取り出すと・・・・・・」
「ほう、同じ枚数だけ?」
「同じ枚数だけだと・・・・・・・どの袋かは分からない・・・・・・」
「だったら?」
「・・・・・・・・だから・・・・・・」
「だから?」
「枚数を変える・・・・????」
「枚数を変えると、どうなる?」
「それは・・・・・・最初の袋から一枚、2番目の袋から二枚、3番目の袋から三枚・・・・・にする・・・」
「すると?」
「・・・・・・・・・・」
「もし、30グラム足りなかったら、どの袋?」
「3番目の袋」
「どうして?」
「三枚入っているのは3番目の袋だから・・・・。そうか、袋から取る枚数を一枚ずつ変えれば良いんだ」
「よくできました」
「そう言うことなんだ。一回だけだから、何回も計る分を一回にまとめれば良いんだ」
「よくできたね」
「ずっと考えても分からなかったのに。解けた・・・・」
「俺は教えてないよ」
「不思議・・・・・どうして解けたんだろう?」
結衣は本当に解けたことが不思議なようで、嬉しそうに笑顔を見せた。宏一は、その笑顔はとても素敵だと思った。
「それじゃ、これも教えて?」
そう言うと結衣は宏一の方に少し近寄って次の問題を指さした。
「どれ?」
「これ・・・・・これも・・・・わからなくて・・・・」
結衣はそう言って一つの問題を指さした。実はは今度の問題は昨日考えていたら解けたのだが、わざと分からないと言って宏一に教えて貰うことにした。なんとなく、宏一と静かに会話していたかったのだ。横に来た結衣の胸元からは少しだけ可愛らしい三角の乳房が見える。
「黒と白のタイルを黒、白、白の順番で4つ並べたら次の行に移って続きを並べていくんだね。そしてn行まで並べたときにいくつの黒いタイルが必要かを数式で表せ、か・・・・。これは難しかったの?」
そのまま二人は1時間ほど勉強を続けた。その間、結衣は心がだんだん温かくなるような感じに包まれてきた。そして『このまま宏一さんが抱きしめてきたら、どうしよう?』と思ったりした。しかし、前日までの母親とのシミュレーションで、勉強をしている間は宏一が結衣の身体に手を出そうとしないことは分かっていたので、ここは結衣から行動を起こすしかない。だから自分から何かをしなければ、と思うのだが実際にはなかなかできるものではない。宏一は優しくしてくれることが分かっていても、辛い記憶がどうしても邪魔をするのだ。それでも結衣は少しずつ宏一に心を開けるようになっていった。
「それじゃ、少し休憩しようか?疲れただろう?」
宏一の言葉に、結衣は立ち上がって冷蔵庫から飲み物を取り出した。
「宏一さんはウーロン茶?それともオレンジジュース?」
「オレンジジュースが良いな」
宏一がそう言うと、結衣はウーロン茶とオレンジジュースを取り出すとコップに入れて持ってきた。
「ありがと」
二人はそのまま喉を潤す。
「オレンジジュースが好きなの?」
「うん、好きだよ」
「子供みたい」
そう言った途端、結衣は後悔した。別に馬鹿にしたわけではないのだ。しかし宏一は気にしていないらしく直ぐに返事をした。
「うん、そうだね。でもね、オレンジジュースってどの外国に行ってもたいてい通じるし、味も馴染んでるから外国に行ったときに改めて好きになったんだ」
「どんな国に行ったの?」
「えっとね、最初はヨーロッパ。イギリス、フランス、ドイツ。オレンジジュースって英語だけど、どこの国でも通じたよ。ただ、日本みたいに冷たくないけどね。冷蔵庫に入ってても冷蔵庫の電気が入ってないとか、そんな事が多いから・・・」
結衣は宏一の話を聞きながら、そっと背中から宏一に寄りかかっていった。
「結衣ちゃん、疲れた?」
その言葉は今まで以上に優しく結衣の心に響いた。結衣はその言葉の意味が分かっていた。小さく無言で頷く。何も言わなかったが、実はとてもドキドキしていた。しかし、そのごドキドキは全然嫌ではなかった。
「それじゃ・・・・こっちにおいで」
そう言うと宏一は優しく結衣を後ろから抱きしめると、ゆっくりと結衣を膝の上に横にした。結衣はぱっちりと目を開けたまま宏一を見つめている。宏一はその結衣の髪をそっと撫でながら話し始めた。
「最初にイギリスに行ったときはね、今より英語が話せなかったから買い物をするだけでも大変だったんだ。でも、イギリスの人は素朴な感じで優しい人が多いから、それほど苦労しなかったよ。B&Bって知ってる?」
「知らない」
「Bed & Breakfast、つまりベッドと朝食だけって言う宿が多くて民宿も多いんだ。ホテルより安いしね。どこの駅にもインフォメーションセンターがあって、そこに行くと当日の宿を予約できるんだ・・・・・」
宏一はそう言いながら結衣の髪を優しく撫でたり、そっと耳の周りを愛撫したりしながら話を続けた。結衣は宏一の優しさが心に染み渡っていく感じがして、うっとりと話を聞いていた。
「それで、ロンドンの街はあちこちに小さな旅行予約センターがあって、そこで特急の予約とかできるんだよ。それでパリ行きの特急のチケットを買ってね・・・・・」
「会話は難しかった?」
「ううん、全然。だって、日付とか時間とか行き先とか、単語さえ話せば理解してもらえるし、紙に書いてくれたりするし。ロンドンは国際都市だから英語が話せない人にみんななれてるんだ。だから英語を話せなくても不自由はないよ。片言の英語でも理解してくれるから」
「そうなんだ・・・」
結衣は目をつぶって宏一がロンドンの街を歩いている様子を想像した。もちろん結衣はロンドンの街の実際の様子など知らないが、想像の中の宏一が歩いている街はテレビに出てくるような歴史のある石畳の街だった。
「うん、道に迷えば行きたい場所の単語だけ知ってればたいてい行けるしね。ロンドンの街で、航空券を持ってるシンガポール航空の支店に行きたくて、警察官に『リージェンシーストリートのシンガポール航空に行きたい』って言ったら、問い合わせてくれて変な顔をするんだ。それで『無いの?』って聞いたら、それからもだいぶ無線で話をしてて、最後に『それはリージェンシーストリートじゃなくて、リージェントストリートだよ』って言って道を教えてくれたしね」
「・・・・・・・」
「それで、警察官を信用できる街って良いなぁって思った。日本も信用できるけど、実際には警察官を信用できる国って意外に少ないんだ」
「そう・・・・」
結衣は髪を撫でられながら、時折宏一の指が軽く触れてくる項にくすぐったいような甘い感覚が生まれてきたことに気が付いた。そして『あ、私、あの時と同じ、感じてるんだ』と思った。宏一とベッドで過ごしたときと同じ感覚だったからだ。
「それから、どうしたの?」
「ん?ロンドンで?・・えっとね、それから、ピカデリーサーカスに行ってね・・、少し時間を潰してから駅に行ったよ」
「サーカスを見たの?」
「ううん、ピカデリーサーカスって言うのは場所の名前。ほら、映画とかで交差点で信号機なが無い代わりに車がぐるぐる回ってるのを見たことない?あれのことだよ。車がぐるぐる回るからサーキットって言ったり、昔はサーカスって言ったらしいんだ」
「そう・・・」
結衣は宏一の話を聞きながら『このままで良いのかな?』と思った。このままでも宏一は何もしてこないのは分かっているが、だから、このままでは先に進めないと思った。もちろん結衣だって宏一とここに泊まる意味はよく分かっていたし、母親にも『優しくして貰いなさい』と言われていた。だからこそ、最初ここに着いた時に母親に言われたように先ずお風呂に入った。それに、もし宏一が自分を優しく抱きたいと思っているのなら、もう他にチャンスはない。ちょっとだけ、こんな自分で宏一に申し訳ないという気持ちもあった。そう、後は自分で決めるだけなのだ。
「パリ行きの列車は夜行だったから夕食を食べてから駅に行く予定でね・・・・・・」
宏一が膝の上の結衣を優しく抱いて髪を撫でていると、結衣がぱっちりと目を開いて宏一を見つめた。そして両手を宏一の首へと伸ばしてきた。
「ん?どうしたの?」
宏一がそう言うのと同時に結衣は軽く上体を起こし、宏一を引き寄せた。すると、宏一は何も言わずに優しくキスをしてくれた。結衣はしばらく宏一を引き寄せたまま離そうとしなかった。やっと心のつかえが下りたような気がして、安心した。キスをして安心するというのも不思議な話だが、結衣は間違いなく安心していた。宏一の舌が結衣の小さな舌を追いかけると、最初結衣の下は引っ込んだり逃げたりしていたが、やがてねっとりと絡み合い始めた。結衣は宏一の舌を奥深くまで誘い込んでからたっぷりと絡めて甘え始めた。二人のキスはかなり長く続いた。
「結衣ちゃん?」
やがてキスを終えた宏一が結衣を見下ろすと、結衣の顔は少し赤みを帯びて少しだけ息が弾んでいた。
「だいじょうぶ?」
宏一が聞くと、結衣は宏一の手を取って胸の小さな膨らみの上へと導いた。そしてもう一度キスをねだった。

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