ウォーター

第四十四部

 


「エーと、まず、高千穂峡から」

史恵がバサバサとガイドブックを広げる。

「高千穂峡には行ったことがないんで、詳しくは分からないんで

すけど、宏一さん、温泉の方がいいですか?」

「あればその方がいいけど、温泉でないとダメ、とは言わないよ。

せっかくの高千穂峡だもの」

「どうも、温泉地じゃないみたい。でも、露天風呂があるところ

もあるみたい」

「史恵ちゃんはどうなの?」

「私も、あればその方がいいって言うとこかな」

 「ねぇ、そもそもどうして高千穂峡がいいの?」

「渓谷の中をボートに乗っていくのが素敵なんです。友達には何

度も行ってる人がいるし。それに、とっても良心的な宿が多いか

ら一度泊まるとまた来たくなるって」

「そうか、それじゃあ、自然の景色を楽しんで宿の人が親切なら

言うこと無いね。今時は親切にサービスしてくれる宿って少ない

から」

「それに、宿で出てくる料理が素敵だったって。決して高いもの

じゃないけど、丁寧に料理してあって、田舎料理の良さが味わえ

るって。それと、竹の筒に入っているお酒も美味しいって」

史恵はかなり熱っぽく宏一に説明を続けた。よほど良いところら

しい。

「そうか、それで続きは?」

「だから、温泉にこだわらないなら、宿の雰囲気で選ぼうかなと

思って」

「それだけ知ってるなら、もう宿も決まってるようなものだね」

「でも、その宿の名前は忘れちゃって・・・。見ているうちに思

い出すといいんだけど」

 「一つだけ希望を出していい?」

「もちろん」

「史恵ちゃんとゆっくり過ごせる部屋がいいな。他のお客さんの

声がうるさいのはちょっと・・・ごめん」

「私だってそう。だから、小さすぎる民宿はパスかな。あと、小

さいペンションも」

宏一は史恵が同意してくれて安心した。せっかく史恵と二人で夜

を過ごしているときに余計な音で邪魔されたくない。

 「それと、予算はどれくらいにします?」

「史恵ちゃん、それはあんまり気にしなくていいよ。いっぱい持っ

てきたから。史恵ちゃんの財布には負担かけたくないんだ」

「宏一さん、私だってちゃんとお給料もらってるんだから。全部

は無理だけど、私の分くらいなら出せるし。それに貯金だって卸

してきたし」

「うーん、それじゃ、こうしよう。宿は俺が持つから、史恵ちゃ

んはそれ以外のお昼とかガソリンとか、途中でお茶するのとか、

そっちを頼むよ」

「いいの?だいぶ違うみたいだけど」

 「たぶん、俺と史恵ちゃんの給料の違いから言ってそんなもん

だよ。お昼やお茶だって気軽にお金使うと、回数が多いから結構

な額になるもんだよ」

「じゃあそうします。でも、そうか。そんなに違うんだ」

史恵はちょっと傷ついたようだ。あれだけ苦労してもそんな程度

なのかな、とぽつりという。

「ごめん、嫌な気にさせちゃったね。本当にごめん。そのかわり

史恵ちゃんを大切にするからね」

 洋恵は、はっと何かに気が付いたように宏一を見ると、

「私、宏一さんの思っているような昔の私じゃないんです。あの

頃はアニメとかが好きで良くテープとか聞いてたでしょ?」

「うん、そうだったね」

「今はロックとかなんですよ」

「そうか・・・」

宏一も元気をなくしてしまった。どうやら、だいぶ史恵の趣味も

変わってしまったらしい。

「宏一さん、がっかりするかも知れない」

「そんなこと無いよ。史恵ちゃんは変わったって史恵ちゃんだか

ら。きっと目の前にいるこの史恵ちゃんだって大好きになると思

うよ」

「そうかしら?・・・でも、嬉しいな。やっぱり」

ちょっとだけ元気が出てきた。

 「さあ、先にやることやっちゃおう」

「宏一さん、一つだけ。私のこと、嫌いになったらそう言って下

さいね。すぐに帰りますから」

「そんなこと無いよ。大丈夫だよ」

「いや、絶対約束して。そうでなきゃ今このまま帰る」

史恵は真剣だった。言い出したら聞かないのは昔のままだ。

「宏一さん、たぶん、私がこんな事言うのって、宏一さんに嫌わ

れたくないからそう言ってるんだと思うでしょ?でも私、人に我

慢されるのが嫌なだけなんです」

「分かったよ。約束する」

「よかった」

史恵はほっとしたように微笑んだ。

 史恵はまた宿の説明を始めた。どうやら、恋人同士の甘い旅行

という雰囲気ではなさそうだ。4年も付き合い無しで突然会った

のだから仕方がないのかも知れない。宏一もなるべく昔の影を追

わないように、今の史恵に集中することにした。

 「ここは料理が美味しそうだけど、何か古くて狭そうだし、こ

こは雰囲気はいいんだけど二人でゆっくりするって言うのとは違

うし・・・」

史恵は高千穂峡のホテルや旅館の名前を幾つか挙げていった。ど

れもピッタリとしたものはなかった。

「たぶん、ここの宿だと思うんだけど、いろり端で食事ができるっ

て書いてあるし」

 「分かった。じゃあ、決めちゃおうか。俺だったら、ここが第

一希望でこれが第二」

「私もそれに賛成」

「じゃあ、電話してみようか」

宏一は携帯を取り出すとスイッチを入れた。さすがに東京ほど電

波は強くない。それでも会話には支障が無く、運良く第一希望の

所にとることができた。いろり端で食事ができることも確認した。

 「次は別府」

史恵は再び説明を始める。

「たぶん、高千穂峡は海から遠いし、そんなご馳走は出ないと思

うんです。ご馳走を食べるんなら別府がいいかな、と思うんだけ

ど。シーダイナのコンドミニアムじゃレストランに行くしかない

し」

「そうか、そのあたりも任せるよ。希望を言えば、いつでも入れ

る家族風呂なんてのがあるといいけどな」

 「家族風呂?宏一さん、それでもいいけど、一人で入ってね」

「分かったよ。でも、やっぱり一緒じゃダメ?」

「もちろん」

「それと、美味しい食事、特に魚、もっと言えば刺身の美味しい

のを食べたいな」

「うーん、だったらこのあたりかな?家族風呂もあるし、料理も

美味しそう。この写真のが出てくるかどうか分からないけど」

「だったら、予約するときに聞いてみようか」

「そうね、前から頼んでおけばいいか」

 史恵はいくつも印を付けてあるホテルの中から一つを選び、

「今度は私がかける。宏一さん、それと、霧島の方をキャンセル

しますから教えて下さい」

と言って別府に予約の電話を入れた。いろいろ話を聞いていたが、

「宏一さん、美味しいお刺身や何かは特別料理なら大丈夫だそう

ですけど、部屋は高いのしか空いていないそうです。いいです

か?」

「いいよ。予約しちゃって」

別府で『値段が高い』と言うのはいくらくらいになるのだろうと

ちょっと思ったが、気にしないことにした。

 いろいろ話しながらの予約だったので、気が付くと40分近く経

ってしまった。喫茶店を出ると国道を南下する。いろいろな話を

したのでお互い気が楽になり、今までお互いが知らなかったここ

四年の過去を交互に話した。

話し易くはなったが、宏一は史恵が自分の知らない史恵に変わっ

てしまっているのかも知れないと思うと、少し寂しいような悲し

い思いになった。

 しかし、それは最初から分かっていたことで、二十歳前後の女

性が四年も経って何も変わらないことの方が不自然だ。分かって

はいても、宏一にとってはやはり可愛い史恵でいて欲しいという

思いを捨てきれなかった。

 史恵にしても、宏一の話す調子が微妙に変化しているのに気が

付いた。再会してすぐの時のように明るくあけすけに話すのでは

なく、どこか探るようなニュアンスを含んだ言葉が増えた。

『やっぱり可愛い女の子じゃないと宏一さんはいやなのかな・・

・』そんな風に思うと史恵も悲しくなる。

 それでも、強い日差しと南国ムード満点のフェニックスに道路

を彩られながら、宮崎の市街を避けるように海岸方向に進路を取

ると、遠くに高層ホテルが見えてきた。

「見えてきましたね。シーダイナには、近頃は韓国や中国からの

人ばかりが来るって友達が言ってましたよ。中の案内表示も韓国

語と中国語と英語があるって」

「へえ、そうなんだ。日本だけ景気が悪い訳じゃないだろうに。

韓国のお金持ちは凄いって聞いたことがあるけど。普通の人とは

まるで違う生活をしてるって」

「そうなのかな。韓国の人はパックツアーの人が多いって聞いた

けど」

話題が軽いものに変わったので、二人は再び軽快に話し始めた。

やがて広大な緑の中に点在するシーダイナの中心のホテル、オー

シャン50に到着する。

 宏一はいったんフロントエントランスに車を付け、荷物を降ろ

してから史恵に

「ここで待っててね。今、車を置いてくるから」

と駐車場に向かう。

「宏一さんは前と全然変わってないな。優しくて一生懸命で、私

のことを大切にしてくれて・・それなのに私って・・・」

史恵の心の中は複雑だったが、それでも宏一を心の中で求めてい

ることだけは確かだった。

 そんな複雑な気分も、南国の強い日差しと目を指すような緑、

そして潮風に気分が自然に少しだけ明るくなる。『だから南国は

好きなんだ』後から早足でやってくる宏一を見ながら心の中でつ

ぶやいてみる。フロントで受付を済ませてエレベーターに乗ると、

史恵がクスッと笑って、

「覚えてます?日光のホテルでのこと。夫婦みたいって言って宏

一さんに怒られたっけ」

「怒ってなかったよ。ただ注意しただけ、恥ずかしかったから」

「いいえ、怒りました。私、悲しかったもん」

「そんなに怒ってないよ。でも、ごめん」

「今、謝ったって仕方ないでしょ、四年も前なんだから」

史恵は怒っていると言うより、あきれている感じだ。

部屋に入ると史恵はまっすぐ窓に行き、カーテンを開いて外

を見る。窓の向こうには深い青色の海とまっすぐに広がる白い砂

浜、どこまでも続く日向灘の濃い緑が続いている。まるで空中か

ら眺めているようだ。

「わぁ、すごい!」

それだけを言うと史恵はじっと外を見ている。宏一は史恵が満足

したようなので安心した。荷物を置くと応接セットのイスに座り、

史恵をゆっくりと眺めた。

 史恵は何も言わずにじっと外を眺めている。こうして改めてみ

てみると、大人の女性としての魅力が十分に備わっていることが

良く分かる。

「宏一さん」

史恵は視線を外に置いたままそれだけをぽつりというと、遥か彼

方に思いをはせているようだ。

 宏一はゆっくりと窓の方に行くと、思い切ってそっと史恵を後

ろから手を回して抱きしめる。史恵はじっとしたままだ。耳元で、

「会いたかったよ」

それだけを言う。宏一の手が次第に上に上がっていき、胸のあた

りまでくると史恵は身体に回された宏一の手をそっと抱きしめた。

次第に史恵の息が荒くなってくる。思い切って両手に力を込める

と史恵の身体はビクッと震え、宏一の腕の中でくるっと回ると宏

一に抱きついて目をつぶる。

 二人は唇を重ねたまましばらく動かなかった。最初はそっと触

れ合うだけだった唇が次第に相手を求めてしっかりと重なり合う。

史恵は心の中の不安が次第に安心に変わっていくのを感じていた。

宏一にだったら何でもうち明けられる、そんな思いが自分の中で

広がり、宏一と一緒に過ごせることを喜んだ。

 宏一が史恵の身体をベッドの方向に引き寄せようとすると、

「ちょっと待って」

と史恵は言い、宏一の腕を抱いたまま再び窓の外の景色を眺める。

「もう少しこのままでいたいの、ちょっと待ってて」

史恵はそう言うとじっと外の景色を眺めている。『たぶん、他の

人のことを考えているんだな』それくらい宏一にも分かったが、

何も言わずにじっと史恵を後ろから抱いていた。

 史恵は、宏一が何も言わないでいてくれることが嬉しかった。

『だから、宏一さんと過ごすつもりになったんだ』自分でも分か

らなかった疑問が一つ解けた。ガラス一枚の向こうに広がる宮崎

の景色を宏一に抱きしめられながら見る複雑な思いも、今は宏一

の腕自体がこの部屋のガラスのように史恵を現実から一歩遠ざけ

ている。

 「ありがとう」

そう言うと、史恵は宏一に再び向き直ってキスをする。宏一は史

恵の身体をそっと抱き上げるとベッドに運んだ。そして、そのま

ま史恵を抱きしめて再びキスを始める。史恵は宏一の腕の中で宏

一を求める自分に気が付いていた。

 しかし、宏一はそれ以上のことをしようとはしなかった。もち

ろん、史恵が欲しかったが、なぜか、今は我慢していた方がいい

ような気がしていた。キスが終わっても優しく抱いたままでそれ

以上のことをしようとしない宏一に、史恵は宏一が疲れているの

だと思った。

 史恵はキスをしながら身体が重なったとき、宏一の身体が十分

その気になっていることに気が付いていた。

「宏一さん、私を抱きたい?いいのよ。私、シャワーを浴びてく

るから」

「うん、もちろんそうなんだけど、何か、今は我慢した方がいい

ような気がする。どうしてか分からないけど」

宏一の腕の中でささやく史恵の髪を優しく撫でながら宏一は言っ

た。

「でも、とっても史恵ちゃんが欲しいんだよ」

「嬉しい、そう言ってくれて。だったら夜まで待って。それまで

に心をちゃんと切り替えておくから」

その言葉で、史恵がまだ宏一以外の何かを考えていることを知っ

た。

 「少し、休んでいい?」

「いいよ」

「じゃあ、服がしわになるから脱いでおく」

そう言うと、史恵はベッドから起き上がり、クローゼットの前で

ワンピースを脱いだ。宏一は、史恵の邪魔をしないように窓際の

応接セットに移る。いきなり史恵の下着姿を見せられて、宏一は

驚きながらも身体の血が沸き立ってくるのを押さえるのに苦労し

た。

 史恵はそのままベッドに入ると、

「宏一さん、良かったらこっちに来て」

と声をかけた。

「いいの?」

「もちろん」

宏一は、それでも史恵に嫌われることをおそれて史恵のすぐ近く

のベッドの横に座り込み、ベッドの上で腕を組んで史恵をのぞき

込む。

「来たよ。これでいいかな?」

と聞き返す。

「ちゃんとこっちに来て」

史恵はそう言うと、自分の左側を宏一のために開ける。宏一が

ベッドの横に来ると、

「上着だけは脱いで」

と言った。

 宏一がベッドの中に入ると史恵は身体を寄せてきて、優しくキ

スをしてくれた。宏一は我慢できなくなってきた。キスをしてか

ら首筋、そして胸の方に唇を移していく。

「宏一さん、やっぱり抱きたいの?」

「だって、これで我慢しろって言うのは無理だよ」

「宏一さん、さっき夜まで待つって約束した」

「だって」

「このままこうしていて、お願い」

宏一はあきれてしまった。この自分勝手さと優しさが同居してい

る性格は昔と全然変わっていない。

 宏一が諦めて史恵を優しく抱いてやると、安心したように宏一

の腕枕で史恵は目をつぶる。『宏一さん、ありがとう。やっぱり

宏一さんだ』史恵は心の中でそうつぶやくと朝から緊張のし通し

だった身体に休息を与えた。

 宏一はしばらくあきれながらも少し怒っていた。自分の腕の中

に昔、心の底から愛して今でもたぶん好きな女性がいるのに全く

手を出すことができない。目をつぶっているときの史恵ははつら

つとした感じではなく、どこか甘えんぼの幼い感じがする。結局、

最初に史恵を抱きしめたときに、我慢などせずに正直に抱きたい

と言えばたぶん史恵は許してくれたはずで、それをしなかったの

は自分の責任なんだと無理に自分を納得させ、しばらく目をつぶ

ることにした。

 史恵が目を覚ましたとき、宏一は窓際で本を読んでいた。

「宏一さん、どれくらい経ちました?」

「ウーン、一時間くらいかな」

「良かった。まだ間に合う」

「何のこと?」

「スカイドームでショーがあるって聞いたの」

「それよりも、こっちにおいでよ。夕日が綺麗だよ」

「ほんと?」

史恵はベッドをするっと抜け出すと下着のまま宏一の所にやって

きた。

「きれい・・・」

太陽は見えないが、雲の夕日が史恵の肌に当たってオレンジ色に

変える。ちょうど太陽が沈むころだった。

 宏一は、史恵にキスをした。史恵はイヤではなかったが、せっ

かくいい気分で夕日を見ていた後だったので、それを宏一に邪魔

されたような気がした。『男の人ってどうしてどこでもキスした

がるんだろう?』そんな事をチラッと思ったが、すぐに気分を変

えて宏一のキスに応えた。

 「宏一さん、そろそろ出かけませんか?」

「夕食?」

「それもそうなんだけど、せっかくシーダイナに来たのならスカ

イドームで遊んでショウを見ないと」

「そうなの?」

「こっちでは有名なの。ショウの見物とプールで波乗りするのが

目的でみんな来るんだから」

「知らなかった」

「東京もんには分かりませんよ」

「なんだい、その東京もんって」

「いいでしょ。さ、早く行きましょう」

「ああ、いいけど」

「けど?」

「スカイドームって人工プールだろ。水着持ってないから、まず

買わなくちゃ」

「仕方ないわね。あーあ、こんな所で買ったらいくらかかるか分

からないけど」

 二人は部屋を出ると、地下の売店街に行き、それぞれ気に入っ

た水着とバスタオル、それに持ち歩くのに便利なビニールのショ

ルダーバッグを買った。史恵が財布から札を二枚取り出して払っ

ているのを見て、宏一は少し申し訳なく思った。

 スカイドームに入ったところで着替えた二人は最初にショーを

見ることにした。しかし、残念なことに既にかなりの人が来てお

り、かなり後ろの方からしか見ることはできなかった。しかし、

内容はそこそこで、いかにも宮崎に来たという雰囲気を楽しむこ

とができる。ショーの音楽を聴いていると、宏一も史恵も自然に

心が軽くなって思いっきり遊びたい雰囲気になってきた。

 30分ほど聞いていたが、史恵がスッと宏一の横に来ると、

「宏一さん、せっかく着替えたんだし、少し泳がない?」

と言い出した。宏一は少し驚いた。水着姿を宏一に見せただけで

も以前の史恵には考えられないことだったが、プールで歓声を上

げて遊ぶ姿は宏一の想像を超えていた。

 高校時代の史恵は、胸が小さいこととお尻が大きいことを気に

していて、服装にまで気を使っていた。宏一にはどうしてそんな

に気にするのか分からなかったが、本人はかなりコンプレックス

を持っていた。だから、今の史恵の提案は宏一の知っていた史恵

のものではなかった。

 「いいよ。行こう」

宏一は史恵の肩を軽く押してプールに向かった。史恵は先頭を切っ

て各国の言葉で書いてある案内板を見ながら進んでいった。今、

史恵は上にTシャツを来ているので良く分からないが、それでも

『綺麗になったな』と思ってしまう。

 「あいたっ。いたたッ」

波打ち際に行こうとして人工の浜を歩き始めた途端、史恵は声を

上げた。浜の石がごつごつしており、裸足で歩くには少し痛い。

「あーん、サンダルも買ってくれば良かったぁ」

史恵が宏一に向かって声を上げる。

 今から買いに行くのもばからしいので史恵はおそるおそると言っ

た感じで波打ち際を目指す。宏一はさほど痛さを感じなかったの

でさっさと史恵の横を追い越して波打ち際の近くに宏一の来てい

たTシャツやバスタオルを敷いて史恵を待った。

「あーいたかった。宏一さん、平気なの?」

「うん、そんなに痛くなかった。ここからならもう、そんなに痛

い思いをしなくても中に入れるよ」

「こんな思いするんなら来るんじゃなかった」

「よく言うよ。みんなはこれを目的に来るって言ったくせに」

「前言撤回」

「もう遅いよ」

 「それじゃあ、入りましょうか」

史恵はそのままプールに向かう。宏一はTシャツを脱ぎ捨てると

すぐに後を追った。

「あれ?史恵ちゃん、Tシャツは?」

「このままですよ。海じゃないからTシャツも痛まないし」

「そうか。そう言うことか」

宏一も史恵と一緒に波打ち際まで来た。二人ともそのまま入って

いく。宏一の視線を感じて

「宏一さん、これは脱ぎませんからね」

と宣言する。宏一にもやっと史恵がここを気に入ってる理由が分

かってきた。

「それでここが良いんだ」

「そう、夜なら日焼けもしないし、上がってから身体がベトベト

することもないでしょ」

 「なるほど、それじゃ、今はこれ以上見られないけど、後で部

屋に帰ってからベッドの中でじっくりと見せてもらうことにする

か」

と宏一が史恵に挑戦するように言うと、

「残念でした。電気を消すから見られません。それに、ベッドの

中では水着じゃありませんからね」

史恵は軽く笑って言い返す。宏一は言い返されて言葉を無くした。

「えーと、それじゃあ、朝になれば・・・」

「私の方が先に起きるの知ってるでしょ」

「うーんと、それじゃ、えーと・・」

「3,2,1,アウト。宏一さんの負け、きゃはっ」

史恵は楽しそうに笑うと身体を水の上に浮かべた。

 水が体に気持ち良かった。あまり泳げない史恵は身体を浮かべ

て楽しむ程度だが、今日は特に楽しかった。こんなに気持ち良く

笑ったのはどれだけぶりだろう?体が本当に軽くなってしまうよ

うな軽快な気持ちだった。宏一と夜を過ごすことになんの抵抗も

なくなっている自分に気が付き、安心して宏一との再会を楽しん

でいることが嬉しくなった。


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