ウォーター

第四百七十三部

 
玄関で出迎えた仲居から結衣親子も先ほど到着していると聞いて離れに向かうと、結衣が玄関に飛び出してきた。
「先生、来てくれてありがとう」
普段は喜怒哀楽を余り表情に出さない結衣だが、さすがに旅行中だからか嬉しそうだ。結衣に荷物を渡して中に入ると、まだ記憶に鮮明に残っているリビングに母親が待っていた。
「三谷さん、よくお越し下さいました。お疲れになったでしょう。もうすぐ夕食なのでお着替えになって下さい。結衣、お手伝いしなさい」
母親も何となく旅行で華やかな雰囲気で、笑顔で宏一を迎えた。
「宏一さん、こっち」
結衣に言われてベッドルームに行くと、宏一の分の浴衣が置いてあり、結衣に手伝って貰って着替えた。もちろんベッドは前回と同じくキングサイズが二つしか無い。宏一は、どちらに寝ることになるだろうと思いながら着替えを済ませリビングに戻った。
「三谷さん、改めてご挨拶させていただきます。結衣の母の奈緒子と申します。よろしくお願い致します」
奈緒子は初めて名乗り、丁寧に頭を下げた。
「三谷宏一です。こちらこそよろしくお願い致します」
「結衣の話だと、三谷さんはいろんな事をよくご存じだとか。結衣を教えていただいて不満はありませんか?」
「いえ、結衣ちゃんは勉強も一通り理解しているので、勉強を教えていても楽ですよ」
「そうですか。ご存じとは思いますが、私は結衣の本当の母親ではありません。結衣は小さいときに母親と死別したのでわがままに育てられて、世間知らずでご迷惑をおかけしていると思います」
「いえいえ、そんなことはぜんぜん無いですよ」
簡単に型どおりの挨拶を済ませた二人は、奈緒子の入れるお茶を飲みながら談笑を始めた。すると、隣の部屋では夕食の準備が始まったようだ。本館から料理を運んで並べる音がリビングにも聞こえてきた。
「あら、夕食の支度が始まったみたいですね。三谷さん、食事の前にお風呂に入ってらっしゃいますか?後でも良いですが・・・。私と結衣はもう済ませましたから」
「いえ、失礼かも知れませんが後にさせて下さい」
「そうですか。ぜんぜん構いませんよ」
ここで宏一は、思い切って聞いてみることにした。
「ところで、お母さん、いえ、奈緒子さんとお呼びしても良いですか?」
「はい、もちろんです。奈緒子と呼んで下さい」
「それでは奈緒子さん、お聞きしたい事があるのですが、良いでしょうか?」
「はい、奈緒子で結構ですよ。なんでしょう?」
「今日、呼んでいただいたのは、どうしてですか?」
宏一がズバリと聞くと、奈緒子はニッコリ笑って答えた。
「それは結衣が望んだからですわ。それも強く。ねぇ、結衣ちゃん?」
結衣はコックリと頷いた。余りにも簡単に返事されてしまったので、宏一は却って拍子抜けした。なにか、深刻な話でもあるかと心配していたからだ。
「結衣ちゃんからも、改めてきちんとお願いなさい。わざわざここまで一人で来て下さったんだから」
奈緒子の言葉に結衣はコクンと頷いた。
「宏一さん、ありがとう。一緒に居たかったから・・お願いします」
こう言われては承諾するしか無い。宏一は親子の中に混じる気まずさを感じながらもきちんと返事をした。
「ううん、お母さん、じゃなかった奈緒子さんに言われてちょっとびっくりしただけなんだ。だって、親子の旅行に混じるなんて、なんか邪魔するみたいで」
「あら三谷さん、今日は今まで親子でいっぱい楽しんできましたから。ねぇ、結衣?親子二人はもう十分よね」
「そう、いっぱい回ったからちょっと疲れた・・・・」
「ねぇ結衣ちゃん、どこに行ってきたの?」
「えっと、最初に城ヶ崎海岸で吊り橋を見て、それからテディベアミュージアムに行って、それからぐらんぱる公園でお昼を食べて、そこで遊んでからオルゴール館」
「凄いね。それじゃ、きっと朝早く家を出てきたんだね」
「7時半」
「凄い気合いだね。それに、オルゴール館とは趣味が良いね。二人で決めたの?」
「三谷さん、二人で決めたと言えばそうですが、ほとんど結衣が決めたようなものです。私はくっついていくだけで」
「そんなこと無い。ママだってテディベア見たいって言った」
「それはそうだけど・・・・・結衣が」
「まぁまぁ、本当に仲が良いんですね。親子でもこんなに仲の良い親子って珍しいと思うけどなぁ。要するに結衣ちゃんのプランを奈緒子さんが気に入ったって事でしょ?」
宏一は、この前のことがあるので仲直りするための旅かと思っていたが、どうやらあんな事があっても二人の仲はもともと崩れていないらしい。
「あら、褒めてもらっで嬉しいです。これだけ結衣と仲良くなれたのも三谷さんのおかげです。あんな事があるまで、お互いに遠慮し合うって言うか、警戒心が解けていなかったんです。今度のことでそれがよく分かりました。こちらからも改めてお礼を申しあげます。今日はそのお礼も込めて、と言うことで」
「いやいや、こんなところまで来て、お礼なんて止めましょうよ」
「そうでしたね。失礼しました」
「奈緒子さん、私だってせっかく名前で呼んでるんですから・・・・・奈緒子さんももう少し砕けて貰わないと。その言い方」
「そうでした。はい、そうします。はい、三谷さん、ごめんなさい」
どうやら奈緒子も他人行儀な口調を改めることにしたらしい。
「良かった。こっちも、奈緒子さんなんて呼んでドキドキしてるんですからね」
「あら嬉しい。名前で呼んで貰えるなんてなかなか無いことだから、こっちだってドキドキですわ。あ、結衣、ごめんなさい。そんな目で睨まないの。三谷さんを取ったりしませんからね」
そう言われて奈緒子を睨んでいた結衣はぷいと横を向いてしまった。しかし、そんなことくらいで奈緒子は心配したりはしない。
「それじゃ三谷さん、そろそろ食事の支度ができたみたいですから、部屋を移りましょう」
そう言うと奈緒子は食事の部屋に結衣と宏一を促した。
もちろん高級宿なので料理は素晴らしい目を引くものがずらっとテーブルを埋め尽くしている。旬の刺身などは当たり前で、どれも工夫を凝らした素晴らしい料理だ。
「結衣から聞いた情報によると、三谷さんは日本酒も召し上がるとか。それで取り敢えず簡単に用意させていただきました。よろしければ私もお相伴させていただきますが、よろしいですか?」
立て板に水のように奈緒子が言ったが、宏一は再度注意した。
「奈緒子さん」
「あ、またやっちゃった。ごめんなさい。私も一緒に飲んで良いかしら?」
「そうそう。一緒に飲みましょう」
もちろん、用意された日本酒は『簡単に用意した』どころではない素晴らしい香りをうっすらと放っている。
「結衣、ごめんなさいね。結衣はまだ子供だからお酒はダメよね」
奈緒子の挑戦的な言葉にも結衣は素直に反応する。
「お酒なんて飲まなくなって良いから。はいはい、どうぞ二人でお好きに」
そう言うと結衣は宏一の隣に静かにぴったりと寄り添った。
「おやおや、そうですか。そう言うことですか。でも、お酒は大人同士の楽しみよね?三谷さん?」
宏一は一瞬、返答に迷ったが、ここは奈緒子の言葉に乗って親睦を深めておくべきだと思った。
「そうですね、奈緒子さん、美味しそうな香りのお酒ですね。楽しみです」
「あーあ、こんな事ならママなんて連れてこなきゃ良かった」
「何言ってるの結衣、ママが来たからもう一度ここに来られたんでしょう?この前だって全部ママのお小遣いで出したんだから。お父さんだって・・・」
突然結衣が厳しい表情をした。
「パパのことは言わないで。聞きたくない」
「・・・・・・・」
奈緒子が黙ってしまったので雰囲気が一気に冷たくなった。それに気が付いたのか、結衣が宏一にくっついてわざとらしく言った。
「ねぇ、宏一さん、ママって綺麗だよね?」
宏一はいきなり振られて驚いた。しかし慌てて同意する。
「うん、もちろん綺麗だよ」
「でしょう?あのね、ママ、独身なのよ、『フリー』」
「え?だってママって・・・・」
「結衣、そんなこと今言わなくても」
「だってフリーなんだもん」
奈緒子が困った顔をして言った。結衣はどこ吹く風といった感じだ。
「三谷さん、こんな話、急にごめんなさい。実は、訳あって籍は抜いたんです」
奈緒子は静かに打ち明けた。
「籍は抜いたって・・・・と言うことは」
「ママはフリーに戻ったって事」
すかさず結衣が指摘した。
「でも結衣ちゃんのママなんだろう?」
「そう。でもフリーよ。間違いなく。パパのせいでね。他の人と・・・」
「もう結衣、止めなさい」
「・・・・ごめんなさい。でもママは悪くないって事」
宏一がなんと言って良いか困っていると、奈緒子が付け足した。
「それで取り敢えず、先方のことが落ち着くまでしばらくの間は籍を抜いてるんです。でも籍だけです。他は全て変わりません。しばらくしたら戻す予定なんです」
「そうなんですか。奈緒子さん、気苦労が絶えないんですね。実業家の奥さんて大変なんだ」
「そうなの。だから宏一さん、ママに優しくしてあげてね」
「結衣ったら」
奈緒子はそう言ったが、それ以上は結衣に何も言わなかった。きっと気苦労が多いと言うことなのだろう。確かに、宏一が結衣の家に行っても父親は最初の一度だけしか居なかったし、奈緒子も帰りが遅い。宏一は奈緒子に日本酒を勧め、奈緒子もにこやかに飲んだ。宏一はここで話題を変えることにした。
「奈緒子さんはどんな料理が好きなんですか?今日の料理は凄いですけど」
奈緒子も話題を変えたかったと見え、積極的に宏一の話題に乗ってきた。
「そうですね。やっぱり和食が一番です。主人の手伝いで接待も多いけど、和食なら胃にもたれないし。今日の料理は三谷さんの好みに合ってますか?」
「こんな凄い料理、口に合うとか、どうとか言うのとは次元が違いすぎてなんとも言えないですけど、とにかく見た目が素晴らしいです。刺身にしても生だけじゃ無くて上手に炙ってあるのを入れてあったり、ぜんぜん量を追いかけてない。それどころか少しでも手を加えて美味しく食べて欲しいと言う気持ちが表れてる。手の込んだものがあちこちに少しずつ入ってて、本当に凄い料理だと思います。こういうのを本当の高級料理って言うんですね」
「結衣、ほら、三谷さんはきちんとお話しできるでしょう?こうならないとダメよ。むすっとして黙ってちゃダメ。きちんと自分の意見を言わないと」
「はぁい」
結衣は宏一にぴったりとくっついて座っていても奈緒子と一緒なのが気にならないらしく、微笑みを浮かべている。それどころか、宏一と二人だけの時よりも明るい感じさえした。
「私もこんな手の込んだ料理なんて久しぶりなんです。接待は多いですが、同じ店で同じ料理のことが多くて、何度も同じものを食べるので、美味しいですけど感動は無いですね」
「特に好きなのは何かありますか?」
「本当は焼き魚が一番好きなんです。お刺身も美味しいですけど、焼き魚が一番魚の味が分かるような気がして」
「へぇ、奈緒子さんは港町の出身なんですか?漁師とかは焼き魚が好きだって聞きますけど?」
「いいえ、港町ではありません。でも、親戚が魚屋をやっていたので、その関係で魚をよく食べてました」
「それでママは魚にうるさいのね」
「うるさいだなんて人聞きの悪い。思いが強いって言って欲しいわね」
「そういう風に言うんだ」
「そうですよ。言い方が大切なの」
「はいはい」
「まぁっ」
慌てて宏一が割って入った。
「奈緒子さん、今日は焼き魚は小さな切り身だけだけど、それだとちょっと残念ですね」
「そうですけど、ここの宿は器に凝ってますから、それを見るだけでも楽しいですね」
「そうですか、器か、さすが実業家の奥様ですね。器なんてなかなか分からないのに」
「ここは季節ごとに、それも四季じゃ無くてもっと細かく旬の器に変えてるんですよ」
「そうなんだ。夏だからガラス、なんて単純なものじゃないんですね」
「夏でも、初夏に入梅、梅雨に梅雨明けの盛夏やお盆過ぎの残暑などありますから」
「凄いですね・・・・あれ?結衣ちゃん、器の話なんて退屈?」
「そんなことないけど・・・・・・」
そこで宏一は、今度は結衣に話を振ることにした。それくらいは呼んで貰ったお礼として当然だ。
「結衣ちゃんは、お母さんと一緒に旅行できて楽しいの?」
「うん、こうしたかったの。ママって呼びながら旅行するのがずっと夢だったから」
「そうか。それじゃ、ママは結衣ちゃんにとっては何点くらいかな?」
「三谷さん、そんなこと・・・・・でも教えて。私、何点なの?」
「そんなの言えない。言わなくても良いでしょ?」
「言えないって言うのは、分からないんじゃ無くて、恥ずかしいから?」
結衣はコクンと頷いた。
「奈緒子さん、結衣ちゃんは恥ずかしいから言えないって言ってるけど、どうします?許してあげます?」
「三谷さん・・・・・いつもならもちろんこれ以上聞かないけど、今日は特別。三谷さんもいることだし、私の心の覚悟はできてます。結衣、教えて。私は何点なの?」
「結衣ちゃん、教えてあげたら?」
結衣はしばらく俯いていたが、覚悟を決めたらしく、やがてそっと宏一に耳打ちした。
「え?それって残りの・・・・・」
結衣はもう一度耳打ちした。今度は少し長かった。奈緒子は何も言わずにじっと待っている。


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