ウォーター

第四百七十四部

 
「うん、分かったよ」
宏一は奈緒子をきちんと見つめて言った。
「奈緒子さん、結衣ちゃんは正直に教えてくれましたよ。絶対に正直に点数を付けたそうです」
宏一の言葉に奈緒子は覚悟を決めた。結衣は嘘はつかないからだ。
「はい、お願いします」
「98点だそうです。残りの2点は、本当のママじゃ無いからで、それはどうしようも無いって分かってるって。だから本当は百点だって言ってますよ。良かったですね」
「まぁ、結衣・・・・」
「ママ、大好き」
奈緒子は予想外に結衣がくれたプレゼントに思わずしばらく俯いてしまった。明らかに涙を拭っている。
「優しくしてくれたのも嬉しかったけど、本当に嬉しかったのは本気で怒ってくれたことだそうです」
「あぁ、あの時・・・・・」
宏一は聞いて良いものかどうか迷ったが、奈緒子が結衣に聞いてくれた。
「結衣、三谷さんに話しても良い?あの時のこと」
結衣はコクンと頷いた。
「実は、三谷さんもご存じのことがあって、あの日結衣はボロボロになって帰ってきました。最初、玄関に入ったまましばらく動かなかったんです。上がる勇気が無かったんでしょう。それを私が見つけたんです。それはもう知ってますよね」
「はい、教えてくれたから」
「それからは、私もよく覚えてないんですけど、結衣をシャワーに連れて行って、お湯を全開にして洗いながら怒ったり抱きしめたりしたんです。こんな結衣がどうしてこんな悲しい思いをしなきゃいけないのか、私には分かりませんでした」
「そうですよね。結衣ちゃんは何一つ悪いことしてない」
「いいえ、違います。結衣は悪いことをしたんです。もう結衣は分かっています。だからああなったんです。よく確かめもしないで男の言いなりになったんです。自分を粗末に扱ったんです」
「そんな・・・・・そんな言い方」
宏一は奈緒子の余りに突き放した言い方に絶句した。
「宏一さん、良いの。だってそうだもの。私、自分を大切にしなかった。ママは泣きながら本気で怒ってくれたの。自分のしたことを思い知りなさいって。そして、二度とこんな事をするんじゃ無いって。シャワーでびしょびしょになって私を抱きしめて怒ってくれたの」
結衣は静かに言った。それはまるで新しく生きる覚悟を決めたという感じだった。
「あの時は、本当に無我夢中で怒ったりもしましたけど、私もあとで分かりました。結衣はきっと寂しかったんです。だから自分を少しでも必要としてくれる人が欲しかったんだと思います。その寂しさが強すぎて大切にするのと利用する違いが見えなかったんです」
「私ね、気が付いたの。宏一さんは私のことを本当に大切にしてくれたんだって。急に無理にお願いしたのに、ちゃんと私のこと考えて優しくしてくれたでしょ?私の気持ちを一番に考えてくれた。嬉しかった。あとで気が付いたけど、自分に少し自信が持てたみたい。その自信の使い方を間違えたけど・・・・。でも、宏一さんのおかげで強くなれた」
結衣は珍しく饒舌だった。ただその言い方は冷静で、まるで自分を分析するような口調だった。
「結衣ちゃん、本当に辛い思いをしたね」
「うん、でも、その分、宏一さんにいっぱい優しくしてもらえたから。あの時は辛かったけど、もう良いの」
宏一は目の前に並ぶ豪華な料理を眺めながら、この料理が親子の思いの詰まったものだと思った。宏一の視線に気が付くと奈緒子が言った。
「さあさぁ、こんな話はもうやめましょう。せっかくのお料理が寂しがってます。いただきましょう」
そう言うと奈緒子は宏一にビールを注ぎ、宏一も気持ちを切替えてビールを奈緒子に注いだ。もちろん結衣はオレンジジュースだ。三人で乾杯する。
「ビールなんて苦いだけでしょ。どうして美味しいのかわかんない」
「それが子供なのよ。ビールのおいしさが分からないなんて」
奈緒子は涼しい顔で言った。
「でもね結衣ちゃん、オレンジジュースって凄いんだよ。いろんなジュースがあるけど、オレンジジュースは唯一、『オレンジジュース』って言うだけで世界中、どこでも通用するんだ。そんな飲み物や食べ物はほかに無いんだよ。オレンジジュースだけ」
「オレンジジュースって言えば、どこでも通じるってこと?」
「そうだよ。少なくとも俺の知る限りはね。アメリカ、ヨーロッパ、中国、メキシコ、カナダ、シンガポール、マレーシア・・・・・とにかくたくさんの国で通じるよ。英語圏では無い国でもね」
「日本も英語圏じゃ無い」
「そうだね。だから、オレンジジュースって言葉を覚えておけば、どの国に行っても通じるんだ」
「他のジュースはダメなの?」
「試してみたけど、アップルジュースやグレープジュースなんかはぜんぜんダメ。他には無いよ」
「そうなんだ」
「三谷さん、ビールはどうなんですか?」
「ビールって英語ではビアですけど、これは中国では余り通じないですね。シンガポールなら通じますが」
「中国ではなんて言うんですか?」
「卑しい酒って書いてピージョォって言うんです」
「そうなんだ。どこでも通じるのはオレンジジュースだけか」
「そう、唯一、世界共通だよ。メキシコでもフランスでも英語圏以外でも通じる」
「ふうん」
「だから、オレンジジュースって言葉を覚えておけば、世界中どこでも飲めるんだ。便利だろう?」
「うん、でもオレンジジュースばっかりなんて。まぁ、好きだから良いけど」
「甘い飲み物を飲んでる間は子供なのよ」
「でも奈緒子さん、でも、酎ハイって甘いものが多いでしょう?」
「あぁ、そう言えばそうですね。ジュースみたいなものか。アルコール入りの。それじゃ、結衣のこと言えませんね」
「奈緒子さんは酎ハイを飲まないんですか?」
「そうですね。接待の時にはお酒は口を付けるだけでほとんど飲みませんし、会食の時も最初にビールで乾杯するだけですから。でも、友達と会って食事をするときはビールやワインが多いかな?」
三人は会話を楽しみながら豪華な食事を楽しんだ。今夜は結衣が宏一の隣にぴったりとくっついてお酒の酌をしてくれるし、奈緒子が一緒に飲んでくれるので酒が進む。特に結衣は本当にくっついているので奈緒子が呆れるほどだった。
「結衣、そんなにくっついたら三谷さんが暑いわよ」
「そう?宏一さん??」
「暑くは無いけど、ちょっとドキドキしちゃうよ」
「暑く無いって」
「まぁ、迷惑にならないようにしなさい」
「はぁい」
「結衣ちゃんも食べないと。いっぱい残してるよ」
「お昼にいっぱい食べたから、ちょっとお腹いっぱいなの」
「何を食べたの?」
「バーベキュー、ジンギスカン?どっち?」
「あぁ、ぐらんぱる公園か。確か、でっかいやつがあったよね?」
「そう、でも時間が掛かるって。食べられなかった」
「女性二人じゃ、バーベキューって言ったってそんなに食べないだろうし、盛り上がらないんじゃ無いですか?」
「それが、結衣がたくさん食べて、ちょっと私がびっくりしたくらいで・・・・。いつもはそんなに食べない子なのに。でも、その分、夕食まで響いたみたいで」
「やっぱり結衣ちゃんも食べ盛りなんだ。ほら結衣ちゃん、もう少し食べないと。後でお腹空くよ」
「それじゃ宏一さん、食べさせて」
「まぁ、結衣ったら、甘えて」
「良いじゃない。今日だけ」
「はい、それじゃ結衣ちゃん、お口を開けて、あーん」
宏一は結衣に一口食べさせた。
「結衣、自分でちゃんと食べなさい」
宏一に食べさせて貰った結衣は、宏一の予想外の行為に赤くなった。
「やっぱり自分で食べる」
「お?結衣ちゃん、赤くなったね。お酒も飲まないのに」
「そうよ、結衣が食べたいって言うから、アワビも伊勢エビも頼んだんだから、ちゃんと食べなさい」
「宏一さん、一緒に食べよ」
「特別料理ですか。凄いですね」
「まぁ、結衣が元気になるならと・・・・・、ちょっと贅沢でしたけど。だから結衣、ほら」
「はあい」
結衣は宏一と一緒に伊勢エビの黄金揚げやアワビの石焼きを食べ始めた。
「奈緒子さん、確かにお酒を飲みながらだと最高だけど、結衣ちゃんにはちょっと大人向けすぎる感じがしますね」
「そうですね。ちょっと子供が食べる料理じゃ無いかも・・・」
「大丈夫。美味しいから」
「それじゃ、私も三谷さんと一緒に」
奈緒子は宏一に日本酒を注ぐと、一緒にアワビを食べ始めた。
「そう言えば、この宿は奈緒子さんの知り合いに紹介して貰ったとか聞きましたけど?」
「いえ、ここの女将は私の中学の同級生なんです。結婚してこの宿に入ったので。だから時々は使うんですけど、ほとんどは接待とか手配だけで、自分で使うことは滅多に無くて。今日も3年ぶりなんですよ」
「そうなんですか。仲が良かったんですか?」
「中学の時は毎日一緒でした。今の子は仲が良い子でも昔ほどくっついてないみたいですけど、当時は本当にぴったり一緒でした。後で会いに行ってきますので、お二人はどうぞこっちでごゆっくり」
奈緒子は涼しい顔で言ったが、どうやら二人だけにしてくれると言うことらしい。
「早く行っても良いのに」
「結衣ちゃん、俺は今日初めて奈緒子さんと一緒にゆっくり食事をしてるんだから、もう少しゆっくりさせてよ」
宏一は、以前に結衣のことで奈緒子から相談を受けたときに食事をしたことは伏せて結衣に言った。もちろん奈緒子もそれは心得ているらしく何も言わない。
「そうか・・・ま、そう・・・」
宏一は左隣の結衣の浴衣の合わせ目を見た。最初はぴったりとしていた合わせ目が、今は緩んで少し結衣の下着が見えている。宏一は結衣があの虹色のブラキャミを着ていることに気が付き、今日は結衣も最初からその気だったことが分かってドキッとした。
気が付けば食事を始めて2時間以上が過ぎ、豪華な食事もだいたい終わりになってきた。奈緒子はフロントに電話して皿を下げてくれるように頼むと、残った料理を手際よくまとめて言った。
「お酒をもう少し追加しますか?」
話が弾んでいたので、宏一は同意しようとしたが、その時結衣が奈緒子に分からないように宏一の裾をツンツンしてきた。結衣を見ると、『もう良いでしょ?』と言わんばかりだ。
「いえ、追加は要らないでしょう。ここにあるだけで十分ですよ。とても美味しいお酒だから、このままだと飲み過ぎますから」
宏一の答えにピンときたのか、奈緒子は結衣の方を見てから言った。
「まぁ、結衣ちゃんたら、そうですね。分かりました。ただ、寝酒だけは準備しておきますね。もしかしたら、私がお相伴させていただくかも知れませんから」
そう言うと奈緒子は再度フロントに電話して夜食やつまみになるものと氷と洋酒を頼んでから、残りの酒を宏一と飲み始めた。結衣は、もう付き合っていられないと言わんばかりに席を立ってリビングへと行ってしまった。
「奈緒子さんは、本当はお酒、いける口なんですね」
「普段は飲まないから、本当に久しぶりです。こんなにリラックスしてお酒を飲むなんて」
奈緒子はニッコリと笑って言った。
「どうしても友達と飲むと、普段の愚痴ばっかりになってしまって、憂さを晴らすのも大切ですけど、あれは健康に良くないですね。愚痴と文句ってお酒が美味しくないし。今日は本当に楽しい。久しぶりです。こんなに美味しいお酒は」
「俺も楽しいです。こんな美人と一緒に楽しいお酒を飲めるんですから」
「まぁっ、そんなこと、結衣に聞かれたら大変ですよ」
「え?だって、結衣ちゃんだってそれくらいは何も言わないのでは?あれだけ奈緒子さんが大好きだって言ってるんだから」
「三谷さん、女の気持ちを分かってないですね、ふふふっ」
奈緒子は意味ありげな笑いを浮かべた。
「それじゃ、試してみましょうか」
そう言うと奈緒子は、少しだけ大きな声で言った。
「それじゃ三谷さん、隣に行っても良いですか?お酌させて下さい。向かいの席にお酌するのはなれてるけど、隣の席なんてなかなか無いから」
そしていそいそと、宏一の隣に移動してきた。
「はい、どうぞ」
宏一は奈緒子にお酌され、完全に奈緒子のペースに嵌まって奈緒子にも酒を注いでいる。すると、リビングとの間の扉が開いて結衣が顔を出した。
「ママ、飲み過ぎなんじゃ無いの。これから友達のところに挨拶に行くんでしょ?あんまりお酒くさいと嫌われるよ」
結衣の言葉に、奈緒子は神妙な顔で言った。
「はいはい、もうお酒も無くなるから、あと10分だけね」
「本当ね。10分だけよ」
「はい、分かりました」
結衣の強い口調の言葉に正直に頭を下げた奈緒子は、結衣が戸を閉めると小さな声で言った。
「ね?これで分かったでしょ?」
「これって・・・・・・・」
「結衣は心配なんですよ。私がここに三谷さんと二人で居るのが」
「妬いてるんですか?」
宏一が小さな声で言うと、奈緒子は宏一の耳元でそっと言った。
「もちろんそれもありますけど、私へのお礼もあるんです。根は優しい子ですから」
「奈緒子さんへのお礼?こうやって二人でお酒を飲むのが?」
宏一の言葉に、奈緒子はちょっといたずらっ子っぽくクスッと笑った。


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