ウォーター

第四百八十五部

 
「ぜんぜん気が付かなかったんですか?」
「好きな彼ができたって言うのはわかってたけど、片思いだって思ってたから。あんなに通い詰めてたなんて知らなかったから」
「そんなに?ひょっとして毎日?」
「毎日じゃないけど、週に4日から5日くらいかな?」
「そんなに・・・・・・」
「結衣にとっては本当の初恋だったみたいだけど、それにしては普段の様子が明るくなったりしなくて、だからきっと片思いだって思ってたんだけど、まさかセカンド彼女みたいになってたとはね。あんな事になってびっくり」
「気が付かなかったんだ」
「さすがにそこまではね。毎日家でいろいろ話すとかしてれば分かったかも知れないけど、結衣はそう言う子じゃなかったし。でも、今はいろいろ話してくれるけど」
いつの間にか奈緒子は砕けた口調で宏一と話していた。奈緒子自身も自分の口調の変化には気づいていたが、どうして宏一相手にこんなに砕けた感じで話しているのか不思議だった。ただ、結衣のことを宏一に話せるだけでとても気持ちが楽になるのは確かだった。
「奈緒子さんは苦労人だと思うから、きっと結衣ちゃんみたいな辛い経験もあるんでしょう?」
「どうしてそう思うの?私が苦労人だって??」
「だって、人の痛みを知ってないと理解なんてできないから。具体的には分からないけど、結衣ちゃんがあそこまで奈緒子さんのことを信頼したのは、きっと奈緒子さんが結衣ちゃんの痛みを、きちんと理解したからでしょ?」
「まぁ、若いのにそんな風に言ってくれるなんて。結衣がメロメロになるはずよね」
「おやおや、褒め返しですか。俺のことを褒めても良いことなんて無いですよ」
「お互いにね。ふふっ、こんな風に三谷さんとお酒が飲めるなんて。こんなに気が楽になったのは久しぶり。なんか解放された気分。またお願いしちゃおうかな?」
「この前みたいに?」
「あの時は・・・・きちんとしなきゃって、思いっきり気合いを入れてたから・・・」
「それなら、次は今日みたいにもっと砕けた感じって琴かな?大歓迎ですよ。お酒の相手をしてもらえるなんて」
「こっちこそ。ふふふっ、楽しみ。おっと、結衣にバレたら睨まれちゃう」
二人は和やかな雰囲気で水割りを楽しみ、時間は過ぎていった。やがて奈緒子の手元にあったウィスキーのボトルは空に近くなった。
「あらあら、いつの間にかこんなに。飲み過ぎちゃいましたね。そろそろ休みますか」
「あ、あっという間でした。ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。私は明日、朝食後先に出ようと思うんです。実はいきたいところがあるので。三谷さんは結衣とゆっくりしてから出てきてね」
「そうなんですか?一緒に・・・・・」
「そんなこと言うもんじゃありません。結衣に甘えさせてやって」
「なんか、親御さんに言われると不思議な気がするなぁ」
「良いんですよ。それに、今更だし。でも、ちょっと羨ましいかな。女としては」
そう言う奈緒子に宏一はドキッとした。奈緒子が女として魅力的に見えたのだ。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい。寝る部屋は同じですけどね」
そう言うと二人は寝室に入り、二つあるキングサイズベッドにそれぞれ分かれて入った。宏一はもちろん結衣が寝ているベッドだ。
宏一が布団を被ると、直ぐに結衣が抱きついてきた。
「起きてたんだ」
すると結衣は宏一の耳元で驚くようなことを言った。
「そう、宏一さん、ママと一緒に寝て」
「えっ、どうしたの?」
思わず宏一が抱きついてきた結衣を引き離して聞き直した。
「ママと一緒に寝て」
「どうしたの?よくわかんないけど怒ったの?」
「違うの、最初から決めてたの。宏一さんにはママと一緒に寝て貰おうって」
「結衣、三谷さんに無理言っちゃだめですよ。一緒に寝れば良いじゃないの」
「ううん、ママ、宏一さんと寝て」
「どうしてそんなことを・・・・・」
「ママはいつも私のために、全部私を優先してくれてるから、三谷さんはびっくりしたかも知れないけど、ママは美人だし、良いでしょ?お願い」
「結衣、気持ちは嬉しいけど、三谷さんだって困りますよ。だめです。静かに寝なさい」
もちろん奈緒子は宏一のことを気に入っていたし、さっきは正直に言えば少しドキドキしながら会話を楽しみ、酒を飲んでいた。そして、頭の隅ではこのままベッドインしたら、と想像くらいはした。しかし、それはあくまで身勝手な想像でしかない。
「ママ、お願い、今日だけは私のお願いを聞いて。私、良い子にするから」
「結衣ちゃん、どうして俺が奈緒子さんと一緒に寝たほうが良いんだい?」
「いつもママはとっても疲れてるし、宏一さんなら一緒に居ると優しい気持ちになれるから、きっとママも元気になると思う」
「そんなこと言っても、奈緒子さんだって・・・・・・」
宏一は困ってしまった。結衣の言い分は子供らしい直感的なもので、奈緒子や宏一の気持ちをぜんぜん考えていない。自分にとって良いことは、他の人にとっても良いことだ、と言う押しつけでしかない。しかし、宏一が結衣になんと言って良いか迷っていると、奈緒子が言った。
「分かったわ、結衣、私が三谷さんと一緒に寝れば良いんでしょ?」
「奈緒子さん」
「三谷さん、私じゃ嫌かも知れませんけど、隣で寝てもらえますか?結衣、それで良いわね?」
奈緒子はそう言うと、さっさとベッドに入ってしまった。奈緒子にしてみれば、同じベッドといっても大きめのキングサイズベッドなので身体がくっつかなければ問題ないだろうと思ったのだ。
「宏一さん」
結衣は宏一に抱きつくと、耳元で微かな声で囁いた。
「ママに優しくしてあげて」
「えっ」
宏一が驚くと、結衣は続けて囁いた。
「お願い、ママを抱きしめてあげて。私、本気だから。宏一さんが私にした事と同じ事をママにしてあげて」
「そんなこと言ったって奈緒子さんだって」
奈緒子は隣のベッドでの結衣と宏一の会話を聞いて、不思議に思った。結衣の声はほとんど聞こえないのだが、宏一の声は聞こえるからだ。
「大丈夫。腕枕をしてあげて。そうすればママは嫌がらないから」
結衣は不思議なことを言った。
「そうなの?」
「お願い、できれば、もっといっぱい優しくしてあげて。私にしてくれたみたいに」
「結衣ちゃん・・・・・・・・・」
結衣の考えは短絡的だが、それだけに真剣らしいのは表情から明らかだった。宏一は取り敢えず起き上がると、結衣に背中を向けて寝ている奈緒子の正面に回り込んでベッドに入った。自然に奈緒子は結衣の方に向き直って宏一に背を向けた。
宏一はそのまま奈緒子の方に身体をずらすと、
「結衣ちゃんがこうしろって。嫌かも知れませんけど、少しの間我慢して下さいね」
と言って手を回すと奈緒子に腕枕して後ろから寄り添った。奈緒子はビクッと大きく震えて身体を小さく丸め、両手でぎゅっと自分を抱きしめるようにガードしたが、逃げ出そうともしなかったし、拒絶の声も上げなかった。この時奈緒子は、思わず逃げ出したくなって結衣の方を見た。宏一の事は素敵だとは思うし、こんな素敵な恋人がいたら幸せだろうな、とは思うが、結衣の相手なのでその思いは押し殺していた。だから逃げ出そうとしたのだが、結衣がじっと見つめていることに気が付くと動けなくなった。
その間に宏一は静かに後ろから奈緒子を抱きしめる形になった。
「奈緒子さん、嫌ですか?」
そっと聞いてみたが奈緒子は何も言わなかった。ただ、もの凄く緊張して怖がっているのははっきり分かった。
「ごめんなさい。髪に触りますね」
宏一は奈緒子の耳元で囁くと、そっと奈緒子の髪を撫で始めた。奈緒子は最初、更にぎゅっと身体を緊張させたが、やがて少しずつ緊張が解れ始めた。まるでお芝居をしているような気になっていることに気が付いたからだ。結衣という観客の前で宏一と二人だけでお芝居を演じている感じだ。もちろん奈緒子は、宏一が自分にとって危険な存在ではないことくらい分かっていたが、籍は抜いているとは言え、自分は人妻だと思っていた。そう言う立場で居たつもりだった。だから、宏一と芝居をしていると思えば、こうしているのも苦にならなくなってきた。
一方宏一も、結衣に言われたとおりに腕枕をしたのだから、これで良いだろうと思った。そして腕枕をしたまま少し頭を上げて、奈緒子の向こう側に居る隣のベッドの結衣を見てみた。すると、じっとこちらを見ている結衣と視線が合った。
「おねがい、優しくしてあげて」
結衣が小さな声で言った。それは宏一には先ほどの繰り返しで聞いたに過ぎなかったが、奈緒子には衝撃的な言葉だった。それは、結衣が本気でそう思っていると分かったからだ。だから思わず結衣の方を見つめ直したくらいだ。そして、結衣が宏一に望んでいることをはっきりと理解した。一瞬、嫌がってベッドを降りようかとさえ思った。しかし、それでは何もならない。それも分かっていた。
ただ、奈緒子は不思議なことに、結衣が見ていることを知ると、こうやって宏一に腕枕されていることが急に嫌では無くなってきた。
「ママ、お願い、宏一さんと一緒に」
そう言うと結衣は寝返りを打って向こう側を向いてしまった。奈緒子は『なんて我が儘なんだろう』と呆れたが、結衣の気持ちは大切にしたかった。今の結衣は、自分が結衣にとって大切な家族であると同時に、自分にとっても結衣はかけがえのない大切な家族なのだ。夫との関係がこんな風になった今、自分は精神的に結衣に寄りかかっていると言っても良いくらい大切に思っている。それに、よくよく考えてみれば、宏一はそれほど嫌がる理由は無いように感じた。
『仕方ないか・・・・』
奈緒子は思い直すと、目の前にある腕枕になっている宏一の腕を軽く抱きしめた。もちろん、胸には当たらないように少し離して両腕で固定している。こうしておけば触られる事はない。すると、自然に宏一が布団を首元までかけ直してくれた。少し気持ちが落ち着いた事で、ふと『こんな事、どれだけぶりなんだろう?』そう思うと不思議な気がした。
「奈緒子さん、ありがとう。嫌じゃ無いですか?」
奈緒子の頭の後ろにある宏一が奈緒子の耳元で囁いた。奈緒子は結衣に聞こえないようにそっと囁いてくれるのが嬉しかった。もちろん、自分は宏一に話しかけられないが、それは今たいした問題では無い。奈緒子はコクンと微かに頷いた。それで十分通じた。
「良かった。それじゃ・・・・」
宏一は腕枕にしている左手に加えて右手を奈緒子の上に被せてきた。奈緒子は少し緊張した。両手を胸の前でクロスしてガードしているので触られる心配は無いが、後ろから抱きしめられているのと同じだからだ。背中に宏一の身体全体をはっきりと感じる。
「緊張してますか?」
宏一の囁きに奈緒子はコクンと頷いた。
「だいじょうぶ?」
自分でも不思議だったが、奈緒子は再びコクンと頷いた。奈緒子は今まで年下の男性と付き合ったことは無かったが、腕枕になっている腕の感覚や、背中で感じる宏一の身体の感覚や温かさは、紛れもなく自分よりも若い男のものだった。
宏一はしばらくの間、それ以上何もしてこなかった。だから最初は緊張していた奈緒子も、次第に緊張が解れてきた。それに、目の前のベッドで向こうを向いている結衣も、いつの間にか寝てしまったようだ。奈緒子は次第に宏一との二人だけの時間を密かに楽しむようになってきた。
こうやって静かに抱かれているだけでとても安心する。結衣が宏一に会いたがるワケだと思った。女は男に抱かれていると、触られて感じさせられて受け入れて終わってお終い、と言う男女のルーチンに満足はしていても、それだけではどこか寂しさや満たされないものを感じてしまう。それは、ルーチンになっている行為だけでは自分が大切にされている、愛されているという気持ちの上での繋がりを感じる時間がほとんど無いからだ。しかし、宏一は先ずこうやって気持ちの上でしっかりと安心させてくれる。それが女にとってどれだけ大切なことか分かっているらしい。奈緒子は宏一の腕の中でその安心を確実に感じ取り、心の中が少しずつ満たされていくのを感じていた。
奈緒子の知っている宏一とは、結衣を通して理解した宏一で、それは優しくリードしてくれる女が安心できる相手としてなのだが、奈緒子は結衣が宏一と一緒に寝るように強要した結衣の気持ちが分かってきたと思った。
しかし、このまま奈緒子は寝てしまっても良いものかどうか迷った。先程まで緊張していたからか、まだ眠気は襲ってこない。奈緒子はほんの少し振り返るような仕草を見せた。途端に宏一の囁きが聞こえた。
「どうしましたか?」
その声に奈緒子は安心した。微かに首を振ると、また宏一は囁いた。
「良かった。このまま寝ても良いですよ。こうしてるのは嫌ですか?重いかな?」
その声に奈緒子は小さく首を振ると、安心していると言うことを示すためにほんの少し腕枕になっている宏一の左手を引き寄せた。
「奈緒子さん、・・・・嬉しいな。こんな事ができるなんて・・・」
宏一の言葉に、奈緒子はポッと顔が赤くなり、顔が熱くなったのを感じた。もちろん宏一は男だから、少しは見かけの良い女性が目の前にいれば反応して当然だ。奈緒子だって自分の外見は認識しているからそれくらいは分かる。しかし、それにしては宏一は安心できる存在だった。
それに奈緒子は宏一に語りかけられない状況が逆に嬉しかった。もし話ができる状況なら、奈緒子は宏一にこのまま寝てしまっても良いのか聞かなければならないし、いろいろ立場上の言い訳をしなくてはいけない。そして、宏一が例えこのまま寝ましょうと言ったところで、奈緒子はきっと何か宏一にしなければならなくなると思った。そしてそれはきっと後で後悔するようなことだと感じていた。
しかし、今は奈緒子は何も話せないので宏一に確かめる必要が無い。このまま宏一が起きていようがお構いなく寝てしまっても良いのだ。
そう思うと、奈緒子は少し嬉しくなった。そして、抱きしめてもそれ以上全く触ろうとしない宏一の腕に宏一の優しさを感じた。そして奈緒子はもう一度宏一の腕をそっと抱きしめると、静かに意識を落としていった。それは久しぶりに安心できる大切な時間だった。奈緒子は小さな幸せを感じながら静かに眠りに落ちていった。
しばらくして奈緒子は目を覚ました。いつの間にか自分は宏一の腕枕を外しており、振り返ると宏一は隣で大の字になって寝ているまだ外は暗い。結衣はベッドの上で丸くなって熟睡している。





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