ウォーター

第五十四部

 

 「ごめんね。やっぱり別府なんだなぁ。すごいや」

と宏一は改めて眼下の展望を見直した。それからしばらく、二人

はただ風に吹かれて別府を眺めていた。宏一は史恵のことを想い、

この旅行のどこかで再び会えることを信じようとしていた。宿に

は連れは遅れてくると告げてあり、予約はそのままにしてあった。

『もしかしたら、宿で史恵が待っているかもしれない』とは思っ

たが、逆に宿に戻っても来ていなかったら、と思うと戻りたいよ

うな戻りたくないような複雑な気分だった。

 二十分ほどもいたろうか、一人で街を眺めていためぐみが

「ありがとうございました。戻りましょうか」

と宏一に笑顔で言った。その顔は何か吹っ切れたような清々しい

雰囲気が感じられた。車に乗ると、めぐみは明るく話し始めた。

「どうしてもあそこに行きたかったんです。何日も苛々してたも

のですから、連れてきてもらってすっきりしました」

「お父さんのことを考えてたの?」

「いいえ、この前は彼に連れてきてもらったんです。その彼と別

れることになったもんだから、どうしてもあそこでもう一度別府

の街を見ながら考えてみたかったんです」

「何か分かった?」

「よく分からないけど、あの時から、もうこうなるのが決まって

いたみたいな気がしました。あの時、ちょうど三谷さんがいたみ

たいに彼が立ってたんです。その時は、お互いに何も言わなかっ

た。きっと、二人で別のこと考えてたんですね」

「そうか、でも、それが分かれば先に進めるね。よかったね」

「うん、よかった」

めぐみは一人でうなずくと、

「人生、何があるか分からないですね。急に三谷さんみたいな人

が現れるんですから」

と笑顔で言った。

「それはこっちのセリフだよ。急に可愛い女の子が現れて一人旅

を楽しくしてくれるんだから、世の中って分からないね」

「出会いですね」

「そうだね。出会いってやつかな」

二人はお互いをみながら笑った。

 「あ、そこを左に入って下さい」

めぐみの声で宏一は現実に戻った。

「あ、はい、あの辺りで良いです。乗せてもらった場所ですから」

宏一が車を止めると、

「今日は本当にありがとうございました」

とめぐみは丁寧に頭を下げた。

「いいえ、こちらこそ。今度、どこかで会ったときは、一緒にご

馳走でも食べてお酒でも飲もうね。その頃までにお酒を飲めるよ

うになっていて下さいね」

宏一がそんなことを言うと、

「私、もう、少しくらいは飲めますよ。家の商売が商売ですから」

と、ドアに手をかけたままめぐみがまじめな顔をして言う。

「それなら、はい、これが俺の名刺。いつでも連絡して下さい。

ご馳走しますよ。めぐみさんの連絡先は教えて貰えないのかな?」

「ありがとうございます。私のは必要ありません。それじゃ」

そう言ってめぐみは出ていった。バックミラーに小さくなって、

角を曲がって見えなくなるまで、宏一は『必要ありません、か不

思議な子だ』と眺めていた。

 宿についてフロントに確認すると、まだ史恵は着いていなかっ

た。さすがにがっかりしたが、ここでくよくよしていても仕方が

ない。予定通り夕食を出してくれるように言って部屋に戻る。

 部屋に入ると浴衣に着替えて大浴場で軽く一風呂浴びた。余り

大きな風呂ではなかったが、内湯の他に屋上露天風呂まであった

ので、結構楽しめて身体の疲れがだいぶ取れたようだ。部屋に戻

るとちょうど料理が運ばれてくるところだった。

「お連れの方は?」

と仲居が聞いてきたので、

「まだみたいですね。とりあえず私だけで始めますから、二人分

運んでいただけますか」

と配膳を頼むと、かしこまりました、と準備を始める。しかし、

ただでさえ二人分の食事の他に特別料理として地獄蒸しと関鯖の

造りを頼んであるのだ。よほど気合いを入れて食べないと、全て

に箸を付けることさえ難しい。

 料理が一通り揃うと、宏一は、さあ、と気合いを入れて食べ始

めた。いわゆる温泉料理ではあったが、普通の料理だけでもいろ

いろと仕事がしてあり、特に特別料理の蒸しものは絶品であった。

予想外の幸運に宏一は酒の追加を頼み、長期戦の構えで再び取り

かかった。

『この時間になっても史恵ちゃんが来ないと言うことは、今日は

どうやら諦めた方が良さそうだ、それならとことん食べてやる』

そんなことを思って膳の造りに手を伸ばした。

 しばらくして、

「失礼いたします。ご注文の特別料理のお造りとお酒をお持ちし

ました」

と若い声がして、若い仲居が入ってきた。

『担当が変わったのか』と思い、

「ありがとう、お酒はこっちに・・・エーッ」

宏一は仲居を見て驚いた。何とめぐみだった。

「どうして????」

「私の家はホテルやってるって言ったでしょ」

「でも、こんな大きなホテルだなんて」

「別府では小さいくらいですよ」

「車を降りて反対に歩いていったのに」

「家はあっちなんです。ホテルの敷地のちょうど反対側になるん

です」

「でも、高校生じゃ」

「家の手伝いをするときはこの格好なんです。ちゃんと和服を着

ないとへんですから」

「自分の所に泊まっているから俺のこと安全だっていったの?」

「そうですよ。連絡先だって予約の時に聞いてあるから」

「それにしても・・。今は忙しいの?」

「いいえ、三谷さんのところに遊びに来ただけです。お邪魔して

も良いですか?」

「もちろん、こんなことってあるんだねえ」

「あの、どこに座れば?」

「もちろん、こっちに座って」

「でも、お連れの方がいらっしゃるって聞いたけど?」

「みてのとおり、ふられたみたいだね。良かったらこれ、食べな

い?」

「へぇ、そうなんですか。それなら遠慮なく」

めぐみは上手に正座すると、まるまる一人前残っている食事に手

を付けた。

 「こんなご馳走なんて久しぶり」

「夕ご飯は?」

「一応簡単に食べたけど、チャーハンだったし、配膳を手伝って

たから余り食べられなくて。今日はついてるな。お客さんの食事

を一度食べてみたかったんだ。それも特別料理だなんて」

と言いながら、造り、和え物、蒸しもの、と次々に平らげていく。

 めぐみの話では、特別料理の食材は仕入れから別になっており、

比較的自由の利く通常料理と比べて必要なだけしか仕入れないの

でめぐみの口に入ることはまず無いという。以前は高価ながらも

保存の利く食材も使っていたが、そのようなものは今ではどこで

も使っているので料理で客を満足させるために保存食材はやめた

のだという。

 「確かに、この地獄蒸しなんて新鮮なものをふんだんに使って

いるものね。美味しいはずだ」

「これは蒸し上げ加減が難しくて、出来るのは二人しかいないん

ですよ。強い蒸気で一気に蒸さないと美味しくないし、それぞれ

によって火の通り具合が違うから、一緒に出来上がるようにする

のはとても難しいんです。それに一発勝負だし」

「へえ、良く細かいこと知ってるね」

「帳場に出入りしてればそれくらいの事は聞きますよ」

「このお酒も美味しいね」

「うちの自慢なんです。父が酒蔵に行って直接注文したものだか

ら」

「そんなことまでするんだ。ホテルの経営者なんて楽じゃないね」

「私は妹だから気楽ですけど、姉貴は大変。毎日苦労してます」

「そうか、めぐみちゃんは高校を卒業したら手伝いはしないんだ」

「大阪か東京にでも出ようかと思って、大学はその方面で探して

ます」

「そうか、それはそうと、このお酒、飲んでみる?」

「良いんですか?それじゃ少しだけ」

めぐみは最初はすまなそうにしていたが、飲み始めると宏一に注

がれるままにぐい飲みに2杯をあっという間に飲んでしまった。

「結構飲めるんだね」

「お客さんに無理に勧められることもあるから、自然にそうなっ

ちゃうんです。一口飲んでひっくり返ってたら仲居なんてできま

せんよ」

「それはそうだけど、大したもんだね」

「そんなこと言ってないで、はいどうぞ」

「それにしてもこの地獄蒸しは最高だね。新鮮なものを絶妙な加

減で蒸してあるね。生じゃないけどしっとりとしていて、こんな

美味しい蒸しもの、食べたこと無いよ」

「ありがとうございます。後で伝えておきますよ。あの、私も

ちょっとだけ、いいですか?」

「もちろん、こんなにたくさんあるんだもの。どうぞどうぞ」

めぐみに勺をしてもらいながら、宏一は思わぬ幸運に喜んでいた。

二人でいろんな事を話ながらの食事はあっという間に時間が過ぎ

ていった。お互い初対面なのだから、何を話しても相手には興味

深いことばかりで、話題はいくらでもあった。

 宏一はせっかくのチャンスだったので、もう少しめぐみと話を

したかった。しかし、外が再び騒がしくなり、各部屋から膳を下

げているような気配が伝わると、めぐみはそわそわし始めた。

「めぐみちゃん、お酒を追加して、もう少し二人で話をしたいん

だけど」

「そうですね。もし、三谷さんがお邪魔でなければ。一旦戻らな

いといけないけど、またあとで来ます」

そう言ってめぐみがあとの酒用に膳の料理を小ぶりの皿に手際よ

くまとめ始めた。

「それでも、三谷さんみたいにちゃんと食べて下さるお客さんは

ありがたいんです。高い料理を散々用意させといて、ほとんど箸

を付けないお客さんもいるから・・・・・・」

突然、宏一の携帯が鳴った。めぐみは余り気にせずに、

「だから、そんなお客さんに比べれば・・・」

宏一は史恵がかけてきたものだと思った。そうだとすると、めぐ

みの話し声は都合が悪い。しかし、このままにするわけにも行か

ないと思ったので、すぐに通話ボタンを押すと、明るい声が聞こ

えた。

「もしもし、三谷さんですか?」

「あれ、新藤さんじゃないの。どうしたのこんな時間に。もうす

ぐ9時だよ」

何と、友絵が東京からかけてきたのだ。話し声の調子と、名字で

呼んでいるところをみると、どうやら会社かららしい。

「休暇中に申し訳ありません。サーバーの具合が悪くなってしまっ

て、どうしても今日中にデータを出さないといけないって営業の

人が言うもので」

「わかったよ。その具合が悪いって言っている人に代わって貰え

る?」

「今は席を外していますが、すぐに戻ります。休暇中申し訳ない

と思ったんですけど、総務部長が営業に気を遣ってどうしても必

要なら三谷君を呼び出すっておっしゃったんです」

「良いよ。気にしなくても。その営業のサーバー以外は順調に動

いているの?他の不具合は聞いていない?」

「大丈夫みたいです。何も総務には入ってきていません」

「それと、何時頃からの話なのか聞いてる?」

「5時過ぎからだそうです。しばらくは大丈夫だったみたいです

けど、6時頃から全然ダメになったみたいです。あ、今、担当者

に代わります」

宏一が話をしている間に、めぐみはそっと膳を下げるために外に

出ていった。



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