ウォーター

第七十八部

 

翌日、宏一が久しぶりに出社すると、

「三谷君、総務に行ってくれ。部長が待っておいでだ」

と木下部長に言われた。宏一のいない間、木下部長のメールボッ

クスには横領を指摘するメッセージが毎日入っていたはずなのだ

が、いつもと変わらない調子で話す様子を見て、宏一は少し感心

してしまった。

「はい、分かりました。今、エラーメッセージを見ていますので

5分で終わります。それからでよろしいでしょうか」

と答えると、

「分かった、そう伝える」

と電話を取って何かを簡単に伝えていた。宏一はエラーメッセー

ジを3分で見終わると、木下部長の引き落とし具合を確かめてみ

た。ほとんど引き落とされていない。やはり宏一のメッセージが

利いたのだ。

それだけを確認すると宏一は席を立って総務に行った。総務には

いつもの通り友絵が座っていた。宏一が、

「おはようございます。三谷ですが部長がお呼びと伺いましたが?

あ、それとこれは皆さんにお土産です。あとで召し上がってくだ

さい」

と型どおりに尋ねて土産の箱を差し出す。

「はい、おはようございます。わざわざありがとうございます。

ありがたくちょうだい致します。部長は第二応接でお待ちです」

と友絵がにこやかに答えた。昨日の朝の出来事がまるで遙か遠く

の出来事のようにごく自然な対応だ。宏一はそのまま第二応接に

向かった。視界から友絵が消える瞬間、ちらっと見た友絵は少し

心配そうな顔をしているように見えた。

「失礼します」

「入りたまえ」

「長く留守をしまして申し訳ありませんでした」

「いや、こちらこそ休暇中に仕事をさせて申し訳なかった。迷惑

だったろう?」

「いいえ、そんなことはありません。ちょっと時間はかかりまし

たが、別に連れがいるわけではない気ままな旅ですから、いい頭

の体操になりました」

「本当か?確か別府だと聞いたが、本当に迷惑にならなかったか?」

「ご心配には及びません。却って宿の方が親切にしてくださって、

あとでいろいろと質問を受けまして、おかげで少し楽しい想いが

できました」

「そうか、それならいいんだが・・・」

「忘れていただけませんか。こちらも落ち着きませんから」

「分かった。後日改めて一席設けさせて貰う。付き合ってくれた

まえ」

「はい、分かりました」

宏一は部長が迷惑を掛けたお詫びに一席設けてくれるのだと思い、

そう言う席なら気楽に過ごせるはずで、きっと高級なものが食べ

られると内心ちょっと喜んだ。

「さて、今日来て貰ったのは、前から君が希望していた工事管理

用の机と人員、それに資材置き場と工事業者の休憩場所について

だ」

「はい、どの程度希望を通していただけましたでしょうか?」

やはり友絵の言っていた通りだった。

「第三応接を空ける。3週間だ。新藤君に手伝って貰うといい。

細かい準備は彼女に聞いてくれ。三谷君も顔は知っているだろう

が、たいていのことはできるし、安心して任せて良い優秀な社員

だ」

「はい、ありがとうございます。本当によろしいのでしょうか?

一番大きい応接室を使わせて頂いて」

「あそこなら広いから休憩エリアをとっても資材置き場に困るこ

とは無かろう。タバコも吸えるし、鍵もかかるから安心だ。しか

し、期限はしっかり守ってくれよ。先週の部長会で承認を取って

あるから各部長は知っているが、一応正式に本人から通達を出し

てくれ」

「はい、そう致します」

丁度その時、友絵がお茶を出しに部屋に入ってきた。

「新藤君、ちょうど良い。今週から3週間、三谷君を手伝って欲

しい。いろいろと事務仕事が大変だと思うが、がんばってくれ」

「はい、よろしくお願いします」

友絵は宏一に丁寧に頭を下げた。慌てて宏一も、

「こちらこそよろしくお願いします」

と頭を下げる。友絵が出ていくと、

「ところで、だ。ちょっといいか?」

「今回のサーバーの故障の原因は社内でもかなり重要視されてい

る。新システムへの移管に疑問を投げかける部長もいるくらいだ」

その話を聞いて宏一は驚いた。それほどの長時間の大規模なトラ

ブルではなかったし、実害が出るほどのものではないと思ってい

たのだ。

「それはまた、どうしてそんなに・・・。確かにサーバーは一時

的にダウンしましたが、それほど不信感が広がるとは・・・申し

訳ありません。私の説明不足と管理不足です」

宏一は大人しく頭を下げた。よく分からないが、社内に不信感が

広がっているのだとすれば宏一の責任である。

「いや、三谷君が良くやっているのはみんなも分かってる。だか

らだ・・・」

部長はちょっと言葉を切り、

「事故報告書を出して貰いたいんだ。分かっている範囲でいい。

事故の発生原因、その原因の背景、修復の内容、それらをまとめ

て欲しい」

「は・・・、分かりました。しかし、専門用語が入ってしまいま

すが、よろしいでしょうか?」

「かまわん。しっかりとした報告書が出れば問題はない。忙しい

中に無理を言って申し訳ないが、よろしく頼むよ」

部長はそう言うと席を立った。その部長を見送りながら、宏一は

どうしてわかりもしない報告書を部長が欲しがるのか頭を傾げた。

もちろん正確に報告書を書くことは可能だが、素人には難解どこ

ろか外国語みたいに見えるはずだ。できることならやりたくなか

ったが、命令とあれば仕方がない。そこに友絵が湯飲みを下げに

入ってきた。

「失礼します」

そう言って湯飲みに手を伸ばす。

「友絵さん」

宏一がそう声を掛けると、友絵が一瞬驚いたように慌ててドアの

方を見てしっかり締まっていることを確認した。

「一緒だね、よろしく」

そう言って宏一が友絵の手を取ると、友絵は慌てて手を引っ込め

た。

「あれ?怒ってるの?それとも後悔してるの?」

宏一が心配そうに聞くと、

「しっ、だめです。ここじゃだめ」

と小さな声でしかられる。

「どうして?」

「誰が聞いているか分からないじゃないですか」

「誰もいないのに・・・」

「だめです」

そう言って部屋を出ていこうとする。

「わかったよ。ごめん。でも、どうしてさっき心配そうな顔をし

てたの?」

「三谷さんが何も言わずに席を外してこっちに向かったから」

友絵はそれだけ言うと、スッとドアを開けて、

「それでは、あとで私の所にいらしていただけますか?お待ちし

ております」

とはっきりした声で言うとさっさと戻っていった。宏一は友絵の

他人行儀な応対に驚いたが、じっとしているわけにもいかない。

まず営業に戻って仕事の場所を第三応接に移す準備をする。全社

員に管理者からメールを打って説明し、今まで一緒に過ごしてき

た営業三課の仲間に簡単に挨拶した。

中には宏一が移るのを残念がる社員もいて、簡単でいいから送別

会を開こうというものまで現れた。

宏一にしてみれば、仲間として扱ってくれることはとても嬉しい。

派遣と言うだけで下に見られるのが普通なので、丁寧にお礼を繰

り返す。

そして、改めて送別会の日取りを打ち合わせることになった。宏

一がファイルの入ったボックスをキャスターに乗せて総務に行く

と、友絵が、

「お待ちしておりました。今部屋の鍵を貰ってきます。ちょっと

まってて下さい」

と席を立ち、すぐに戻ってきた。

「それではいきましょう」

と自分のファイルをキャスターに乗せ、宏一と部屋を出ていく。

「友ちゃん、早く戻ってきてね」

と女子部員から声がかかった。

第三応接に入るまで友絵は一言も口を利かなかった。鍵を開けて

応接室に入ると、やっと、

「ああ、危なかった」

と声を出す。

「どうしたの?」

「三谷さん、だめですよ、あんな事しちゃ」

「あんなことって?」

「私がお土産にお礼を言った時、何も言わずに応接に向かったで

しょ?」

「ああ、そうだっけ・・・?だめなの?」

「不自然です。普通なら三谷さんはもう一言何か言います」

「そうかなぁ?でもそれがどうして?」

「私が三谷さんの手伝いを1人でやることになったんで、みんな

もの凄く敏感になってるんです。あんなのは絶対ダメです」

そう言われてみれば確かに友絵が、『ありがたくちょうだい致し

ます』と言ったのだから、『たいしたものじゃありませんから』

とか何か一言あった方が自然だし、いつもの宏一ならそれくらい

言っていたような気がした。

「でも、そんなことでバレちゃうの?」

「三谷さん、女性の感を舐めてませんか?不自然なことがあると、

それだけでみんな一生懸命その理由を探るものなんです。

だからダメです」

「もしかしてさっきすぐに出ていったのも・・・」

「そう、お茶を下げるにしては中に居る時間が長かったから。仕

事の挨拶だけならすぐに終わるでしょ?」

「そこまで気にするかなぁ」

「それ位しなきゃ絶対にダメです」

「でも、この部屋は別だよね?」

「まぁ、ここには普通の人は来ないし、話し声を聞かれることも

ないから・・・」

「よかった。じゃあ、ここでは名前で呼んでくれない?」

「ダメですって!もし一度でも部屋の外で『宏一さん』て呼んじゃ

ったらどうするんですか?」

「どうするって・・・」

「三谷さん、私と近い内に必ず結婚してくれます?」

「え?」

「ほら、そうでしょ?ここではそれくらいの覚悟が居るんです」

「分かった。でも、友絵さんのこと、嫌いじゃないからね。それ

どころか・・・」

「分かってます。それくらい。でも、社内では絶対に名前で呼ば

ないでください」

「はい・・・・」

宏一は友絵にこてんぱんに伸されてしまった。ここはどうやら友

絵の言うことをしっかり聞いておく必要があるようだった。

「それでは三谷さん、これから経理に行って経費の説明を受けて

下さい。工事完了までいくつかの経費を使えるようになっていま

すから」

「一緒に行って聞いて欲しいんだけど」

「そうしたいのは私も同じなんですけど、管理職用の経費につい

て私が聞くわけには行かないんです」

「わかったよ・・・」

「経理の場所は分かります?」

「うん、行ってくる。」

宏一はそう言うと、少し心配そうな顔をして見つめる友絵を残し

て経理に出かけた。

宏一が経理の入り口でその旨を告げると、経理一課の課長が自分

の机の横にイスを持ってきて宏一に座らせ、てきぱきと説明をし

ていく。

「三谷君、君は派遣社員だが、工事完了までだけではなく、シス

テムの試運転が完了して実際に動き始め、派遣が終了するまでの

間、身分は派遣のままで特別な課長待遇を認められた。理由は僕

にも分からないが、これからその説明をするから」

「はい、お願い致します」

「給与についてはすでに決まっていることに変更はない。これは

身分が同じなんだからわかるね?」

「はい」

「しかし君は消耗材料の注文が自分でできるようになる」

「今までは営業三課にお願いしていました」

「結構いろいろ注文しているね。いちいち営業を通していたんじゃ

向こうも大変だろうし、金額が大きくなってくると経理上も好ま

しくないんで、独立させることにしたというわけだ」

「ありがとうございます」

「それから、業者が入ってくればお茶や菓子を出さないというわ

けにもいかんだろう?」

「はい、私の個人的な意見ですが、あると無いとでは工事の質に

も結構違いが出ると思います。業者にしてみれば、お茶やお菓子

が置いてあり、タバコが吸えると言うだけで、工事をこの会社が

大切に考えている、と感じるんです。お茶菓子程度で工事完成後

の試運転期間が大幅に短くなるのなら、これ以上安い投資はない

でしょう」

「それを君に任せる。消耗材料費で落として貰おうと考えたりも

したんだが、食べ物を消耗材料費で買うと、税務上問題があるの

で接待費で賄うことにした」

「はい、ありがとうございます」

「この金額だけは営業課長並みに認められているから、かなり使っ

ても大丈夫だと思う。但し、1万円以上の領収書には相手の名刺

のコピーを付けること」

「それは、名刺のコピーがあればそれ以上のものでもかまわない

と言うことでしょうか?」

「一件の最高額は決まっていないが、3万円以上、5万円と審査

が厳しくなるので、その点は十分に注意して欲しい。3万円以上

は私に報告が必要で、5万円以上は部長に報告が必要だが、基本

的には事前の許可がいると考えてくれ」

「上限はあるのでしょうか?」

「もちろんだ。消耗材料費はひと月に5万円。接待費は十万円ま

でだ。なるべく使わないで欲しいことに替わりはないけど、必要

なら使ってくれ。課長待遇で接待費が使えると言うことは、管理

能力もそれ並みを期待されていると言うことなんだ」

宏一は、ありがとうございます、と言って経理を出ると、友絵の

待つ応接室に戻った。

それから二人は午前中いっぱい掛けて応接セットを倉庫に運び、

二人のための事務机やら部品棚やら休憩用のテーブルとイスを運

び込んだ。

そして午後いっぱい掛けて宏一は自分用のサーバーにLANを繋

いで営業三課にいた時と同じ環境を作った。その間に友絵は棚に

番号を振ったり、既に届いている部品を開封し確認して棚にしま

ったりの仕事をした。

宏一の方はどうやら夕方には格好が付いたが、退社時間になって

も友絵の方はまだ終わらない。

「新藤さん、どう?終わりそう?」

「まだです。今日は残業かな?」

「残業許可はどうなってるの?」

「たぶん、三谷さんが一時的に上司ですから、三谷さんが決めて

良いと思うんですけど、一応確認してみますね」

友絵は電話を取ると、その件を総務の課長に確認した。

「三谷さんが決めていいそうです。三谷さんの分も併せて残業処

理と集計は私がやりますから」

と友絵が答えた。

「分かったよ。それじゃ、新藤君、残業をお願い」

「はい、分かりました」

そう言うと友絵は部品の集計表の作成作業に戻る。その様子があ

まりにも事務的で冷たかったので、宏一は少し寂しくなった。友

絵の後ろに立つと、うなじを指でつーっと撫でながら、

「友絵さん、ちょっと冷たすぎない?」

と囁くように言う。

「ダメです。三谷さん」

友絵はそう答えたが、特に何も反応しない。どうやら無視する気

らしい。宏一は更に指で丁寧にうなじを愛撫しながら、

「なんにも感じてくれないの?寂しいよ」

と耳元で囁く。

「ダメ・・・ダメです・・・・仕事ですから・・・・」

友絵は口ではそう言っていたが、友絵は宏一のしたいようにさせ

ていた。更に宏一はうなじに少し唇を這わせ、

「もう就業時間は終わってるんだから、みんな帰っちゃったよ。

ほら、静かだろ?」

と言ってぴっちりとした合い口からベストの中に手を差し込んで

小さな膨らみを愛撫する。友絵も宏一の気持ちを完全に無視する

ことはできなかったので、迷っている間にどんどん愛撫が進んで

いく。

「ダメ・・・ダメ・・・そんなこと・・・会議室で・・・」

「応接室だよ」

「あ・・・だめ・・・やめて・・・あうぅ」

「ほうら、感じてきたろ?ちょっとだけ愛させて」

「ダメです・・・・仕事・・・うぅ」

「気持ちいい?」

友絵は素直に頷いた。宏一はベストのボタンを外すと、ブラウス

に手を掛ける。もはや友絵は仕事を続けていられなかった。ノー

トパソコンの画面は眺めているものの、何が書いてあるのか読む

ことすらできない。


トップ アイコン
トップ


ウォーター