ウォーター

第八部


  翌日、宏一は仕事を一段落し、ふと木下部長の例のプログラ

ムを覗いてみる気になった。軽くキーをたたくとすでに見慣れた

ワークシートが現れた。いくつかのセルに書き込まれた計算式を

眺めていると、ふと、何か変な気がした。何が変なのだろう、と

思って見返してみるが、計算自体に矛盾はないし、部長の横領額

計算セルへの情報も前と同じように渡しているようだ。しかし何

か変だ。

 じっくりと調べてみたい気になったが、今は新しいシステムの

構築作業が忙しいときなので、後回しにして本来の仕事を急ぐこ

とにした。11時からの会議までに資料をそろえなければならない。

会議では、宏一が経理や総務、営業、購買の部長たちに新しいシ

ステムに盛り込むべき能力を聞き、矛盾点を指摘した上でどの程

度要求が実現できるか、見通しを説明することになっていた。

 

 すでに、あらかたの要求は届いていたので、その見極めをする

ための作業をしていた。現在のコンピューターシステムでは不十

分なことは分かり切っていた。木下部長の例を出すまでもなく、

セキュリティの不足のほか、通信能力が大幅に不足しているのだ。

この食品問屋では市販のソフトを使っていたが、すでに4年も前

のもので、現在のコンピューターには少々古すぎた。

 

 宏一は、使用しているパソコンのソフトの使用頻度や外部との

通信の頻度を調べるソフトを使って、現在のシステムの能力を把

握することに全力を集中していた。やがてデータが揃うと部長た

ちが十人近くいる会議室で発表を始めた。

「現在使用しているソフトはワープロ、表計算、通信、データベー

ス等、全て合わせると67種類、使用頻度は上位5位までで時間ベー

スにして77%、十位まででは96%となります。因みに、二週間の

調査期間中に全く使用されなかったものは36種類です」

OHPを使いながら話す宏一に、総務部長が

「全く不要なものがあるということか」

と質問した。

「いえ、期末などにならないと使用しないソフトもあるかと思い

ますので、未使用ソフトについては改めて回覧いたします。その

上で削除するなり保存するなりの判断をしていただければと思い

ます」

と無難な返事をしておいたが、無駄なソフトが多すぎる、と思っ

ていた。

この点については後でゆっくりと説明するつもりだった。現在の

状況について一通り説明を終わると、次に各部長から出されてい

た要求事項の実現の可能性について説明した。経理から出されて

いた集計作業の自動化については比較的低いコストで実現できる

ことを説明すると、経理部長は満足そうだった。

 

しかし、購買から出されていた伝票の一括管理については伝票の

種類が多すぎて、一括管理をしようとするとかなり書式や記載項

目の整理が必要であることを指摘すると、

「それを実現するのが君の役目だろうが」

とかなり気分を害したようだ。

「簡単に申し上げますと、コンピューターから出力できる伝票の

大きさは、普通A4やA5、B4等数種類ですが、現在の伝票の

大きさの種類だけで12種類あります。これを統一しないと、プリ

ンターをずらりと並べることになります」

とこれまでの会社で何度も説明してきたことを繰り返して述べた。

ムスッとして黙り込んだ購買部長に

「もう一度ご検討をお願いいたします」

と言ってから、営業部に移った。この席には木下部長も同席して

いた。

「営業から出されております、報告書の自動作成や売り上げ、直

接経費の自動集計と接待費などの一括管理については、だいたい

可能な状況と思われます。しかし、一人が入力したデータを多く

のデータベースに振り分けたり、逆にデータベースからデータの

割り当てを受けると言うことになりますと、入力ミスなども含め

てセキュリティを強化する必要が出てきます。つまり、自動化を

進める分、チェック体勢を強化する必要があるということです」

と話し始めた。

セキュリティの話に入ると木下部長が急に関心を深めた。

 

 自分のソフトが心配なのだろう。大丈夫さ、うまくやってやる

よ、まだまだ由美には楽しませてもらわないとな、と思いながら、

「従って、パスワード管理やアクセスレベルの制限、つまり部長

用のデータは一般社員は覗けないこと等ですが、これが新たに必

要になります。さらに、データの盗用を防ぐために重要度の高い

ソフトには特殊な保護を行うほうが良いと考えます。具体的なこ

とをこの席でお話しして良いものかどうかは分かりませんので、

今回は控えさせていただきます。

最後に、営業マンに携帯端末を持たせ、必要に応じてデータを転

送したり、データを受け取れるようにする件ですが、今ご説明い

たしましたセキュリティの強化を行った上で可能になると考えて

おります。営業マンの方に持っていただく端末の見本を取り寄せ

ましたので後でご覧になって下さい。簡単な通信用と本格的なパ

ソコンと二種類用意しましたが、プリンターを追加すると更に重

くなります」

と、メーカーから取り寄せた機器を示した。

 

 各部長は、

「意外に大きいものだな」

とか、

「鞄にこれだけスペースがあるかな」

とか興味深そうに眺めていた。宏一は、これらの機器を使用した

場合に想定される実際の能力について説明した後、総務の要望事

項に移った。

会議が終了した後、木下部長に呼び止められた。

「どうだい、昼飯でも食わないか」

と誘われたので、

「お願いいたします」

と渋々答えた。

 

派遣社員の宏一にとっては、本来の意味で木下部長は上司ではな

い。しかし、営業三課の部屋を使っている以上無視できるわけは

なかった。会社から少し離れた天ぷら屋に入り、座敷で上定食を

取ると、

部長から切り出してきた。

「個人的な興味で聞くんだけど、さっき話していた特殊な保護っ

てどんなことだい。簡単にでいいから教えてくれないか。三谷君

が持っている技術の最先端と言うものを勉強したいんだ」

と熱心に聞いてきた。

 

宏一は少し迷ったが、

「内緒ですよ」

と前置きをした上で、部長の権限でアクセスできるソフトの種類

やアクセスした場合にも記録を残すこと、修正内容などについて

も機密ファイルとして記録が残ることなどについてかいつまんで

説明した。

木下部長はしばらく考え込んでいたが、

「修正した記録を削除してしまえば分からなくなるんじゃないの

かい」

と突っ込んできた。

「その通りなんですが、その記録を誰が削除したかの記録は残る

んですよ」

と涼しい顔で答えると、

「うーん、よくできているなぁ」

と困ったような顔をした。

「でも、抜け道はあるんじゃないのかい?」

と興味深げに真剣に聞いてくるので、

「そりゃ、何にだって欠点はありますよ。誰にも知られずにデー

タを書き換えることだって実際は可能です。具体的な方法はお話

しできませんがね」

と答えておいた。

 

その日の夜、洋恵の家庭教師をしながら宏一は考えていた。既

に休憩時間も終わり、洋恵の後ろに立っている宏一は、洋恵のT

シャツの裾から手を入れ、形の良い乳房をブラジャーの上から撫

でながら、木下部長をどう扱って良いものか悩んでいたのだ。

 

 このまま、現在のシステムの開発を進めれば、いずれ例の横領

プログラムの機能を停止させなければならなくなる。部長は気が

ついていないようだが、新しいシステムでは在庫や売掛金、経費

のチェックが従来よりもかなり簡単にできるようになるのだ。

従って、経理の人間がその気になれば毎月チェックすることも可

能になる。木下部長は改竄して横領することばかり考えているよ

うだが、それが簡単にチェックできるとなればせっかく苦労して

横領してもすぐにばれてしまう。

 

 宏一が手を貸せばチェックをすり抜けることも不可能ではない

だろうが、犯罪の証拠を残してしまうので宏一自身の身が危なく

なる。しかし、部長が横領を辞めてしまえば一気に生活は苦しく

なり、由美を塾に通わせるどころではなくなってしまうだろう。

そうすれば、由美は喜ぶかもしれないが宏一は由美の体を楽しむ

ことができなくなってしまう。どうしたものか・・・・。

 「ねぇ、先生ったらぁ、早くぅ」

既に堅く膨らんだ乳房を持て余して、洋恵がおねだりをしていた。

「じらさないで、早くぅ」

甘え声で次を要求してくる。あわてて洋恵に、

「こうして欲しいのかな」

とブラジャーのバックストラップを外して乳房を解放してやる。

一瞬びくっと体がふるえ、押さえつけられていた二つの膨らみが

こぼれ出る。

両手で乳房を下からそっと持ち上げるようにして、人差し指だけ

で先端の突起を転がすように愛撫する。

「ううっ、先生、そんな、いや、もっと、ぎゅっと、全部、全部、

して」

と先端だけでは満足できないのか、可愛らしく嫌々をする。

「ほうら、こうされるととっても気持ちいいだろ、これじゃ、い

やなのかな」

洋恵の言葉を無視して更に微妙な愛撫を繰り返す。

「ああん、先生ったらぁ、ちゃんと揉んで」

そう言うと、体を後ろに反り返し、宏一の与えてくれる快楽を待っ

た。ゆっくりと裾野から揉み上げてやると

「はあっ、ああっ、いいっ、感じるっ、いいっ」

と体をピンと伸ばして喜びを表現する。ゆっくりと何度も乳房を

揉んでいると、

「下も、先生、下も、して」

とうわずった声でおねだりした。

「洋恵ちゃんもしてくれなきゃだめだよ」

そう言うと洋恵をイスからおろし、宏一の前に跪かせた。洋恵は

最初何のことか分からないようだったが、宏一が、

「お口でして」

と言うと、いたずらっぽく宏一を見て、ジッパーに手をかけた。

 

前回よりは慣れた調子で肉棒を含み、顔を前後に動かして口で喜

ばせる洋恵を見ながら、

「上手になったね、かわいいよ」

と髪を撫でる。昨日、由美の中で終われなかったが、洋恵の口で

愛されていると一気に感覚が鋭くなってきた。

「洋恵ちゃん、終わるよ、お口の中に出すからね、いいね、ううっ、

出るよ」

と最後が近いことを洋恵に伝える。洋恵はさらに顔を前後に大き

く動かして宏一を喜ばせようとする。

「いくよっ、でるっ」

そういうと洋恵の顔を両手で掴み、口の中に発射した。びゅっ、

びゅっ、と口の中に肉棒が発射すると洋恵は目を丸くしていたが、

やがてゆっくりと全体を舐め回し、口を離すと、

「飲んじゃった」

と、くすっと笑った。

再び洋恵をイスに座らせ、後ろから手を回してゆっくりと乳

房を揉みながらも

「ありがとう、とっても気持ちよかったよ」

と洋恵の耳元でささやくと、

「・・・あん、ちょっと苦くて青臭かったかな・・・、でも、先

生の、・・あうっ、飲んじゃった」

と洋恵は目をつぶって満足そうにつぶやいた。

「これから先は僕の部屋にきてからね。土曜日に来てくれるよね」

洋恵の乳首をもてあそびながら耳の中に息を吹き込むように言う。

「うっ、先生、きっと、約束よ、はっ、はうっ、土曜日ね」

と息を詰まらせながら、小さな声で返事をした。

 

 丁度、宏一の仕事もそろそろ佳境に入ってきたところだった。

システムエンジニアの宏一はプログラマーではない。従って、複

雑なプログラムを作るための細かい命令を打ち込むことはできな

い。しかし、目的にあったソフトを選び出し、組み合わせること

でたいがいの事はできてしまう。

 

必要であればプログラマーを手配してソフトを作らせることは可

能だが、今回の契約ではできるだけ一人で済ませることになって

いた。市販のソフトや宏一を派遣した会社で手に入るソフトで済

ませれば、万が一不具合が起こっても対応を取りやすいので、宏

一もできるだけ専用ソフトの開発はしないで済ませるつもりだっ

た。

 しかし、営業のセキュリティに関する部分だけはどうしようか

迷っていた。どこまで厳密な保護を掛けるかは、この会社にコン

ピューターに詳しい担当者がいない以上ある程度宏一が自分で判

断するしかないのだが、厳密な保護を掛ければせっかくのシステ

ムが使いにくくなるので難しいところだった。

 

 例えば、営業マンが端末をどこかに置き忘れた場合、すぐに気

が付いて対応を取ればよいが、取引先などに置き忘れ、それを誰

かが悪意を持って操作した場合、通常のIDコードとパスワード

による保護だけでは簡単に破られる可能性がある。

例えば、置き忘れたり、食事で少し席を離したりしてから、担当

者が気が付いて取りにくるまで1時間程あれば、記憶装置の中の

内容を全て読みとることぐらいは普通パソコンを少しいじったこ

とのある人なら簡単である。

 

後でじっくりと記録内容を解析すればよいのだから、そんなに時

間はかからない。それほど悪意がなくても興味本位と言うことも

ある。億の金が動く取引ともなればなおさらである。一人の営業

マンにいくつかIDコードとパスワードを持たせて、目的に応じ

て使い分けてもらえばある程度はセキュリティの強化になるが、

営業マンがパスワードを忘れたりする事もあるし、データを盗み

出すのに必要な時間が延びるだけで、本来の意味で安全を強化す

ることにはならない。

 

 営業マンに持たせる端末は、どうやら、サブノートといわれる

小型の端末になりそうなので、蓄積されるデータ量はバカにでき

ない。市販のセキュリティソフトにもいろいろなものがあるが、

市販のものには解読ソフトがあると考えたほうがよい。

宏一は市販のソフトを使用しながら、鍵となる部分だけは専用の

ものを開発したほうがよいのではないか、と考えていた。総務部

長から、半分自慢とも受け取れるいろいろな取引先と金額を延々

と聞かされたあげく、これらの取引先にも絶対に秘密を保てるよ

うに、と念を押されているので、これくらいはしたほうがよいと

考えていた。

 宏一の考えた方法とは、営業マンと使用するノートパソコンと

使用ソフトを一対一で対応付け、自分のIDを使用して自分のノー

トパソコンで自分用のソフトを起動しないと中身が見えないよう

にする事である。

 

従って、市販のソフトをパソコンに入れる際に、少しだけ細工を

する必要があった。しかし、この方法なら置き忘れで相手にデー

タを盗まれる心配は大幅に少なくなる。少なくともスイッチを入

れた起動段階でセキュリティの壁(ファイアーウォールと呼ばれ

る)を突破しないとデータが入手できないし、もし、入手できて

も元々ソフトの入っていたパソコンとは違うパソコンではデータ

を読めない。もちろん、強力な解析機能を持った専門の解読者に

かかったら簡単に破られてしまうだろうが、そこまで心配しても

きりがない。この程度の保護機能なら専門のプログラマーに二日

で頼める仕事であった。

 

 昼食前に宏一の仮の上司に当たる総務部長に詳しく説明したと

ころ、どこまで分かったのか疑問だったが、昼食を一緒に取りな

がら説明してくれと言われた。宏一には昼食での話の内容がピン

ときた。 昼食を会議室で比較的豪華な箱弁当を食べながら、引

き続いて説明していると、途中から人事課長も加わった。予想通

り、開発が終わってもしばらく嘱託で宏一に残留してくれと言う

のだ。さらに、しかるべき時期に正式に社員となってくれとも言

われた。以前の会社でも同様のことを言われた経験があるので、

「会社の秘密中の秘密を握っているわけですから、ご心配はもっ

ともですが、必要なデータがなければ私にも何も出来ないように

しておきますからご心配には及びません。お気持ちだけありがた

くいただいておきます」

と答えておいた。

 

 会社としてみれば、社員であれば無理も言えるし、いざ必要が

なくなれば解雇もできる。宏一は自由に仕事がしたかった。それ

に、こういう立場でいれば派遣先では大切にしてもらえる。セキュ

リティを含むシステムの開発はしんどい面も多いが、魅力の多い

仕事だった。

 

 最後に、

「これから、サンプルとしていろいろなソフトを購入しますので、

一時的に購入伝票が増えますが、ご了承下さい」

と付け加えた。仕事でお金の面でいい思いが出来る時期に来てい

た。知り合いのソフト業者から安く仕入れて定価に近い価格で購

入したことにすれば、少しは差額が手に入る。

 いろいろなソフトを購入することで数十万円は手にすることが

出来るはずだった。会社としても、もう少し安く買えるはずだと

思っていてもあまり強くは言えないので、たいていは大目に見て

くれる。一人で全部担当しているからこその旨味であった。

 

その日の夜、木下部長に夕食を誘われた。最初は断ったが、熱

心に誘われるので断りきれなくなって誘いに応じることにした。

その日は洋恵の家庭教師の日だったが、酒臭い息で教えるわけに

も行かず、

「土曜日に洋恵ちゃんには教えますので、申し訳ありません」

と断りの電話を入れた。

 

 部長の馴染みらしい串揚げの店に連れていかれ、ビールを飲み

ながらごちそうになった。おもしろい店で、最初に客が座るとビー

ル以外は何も頼んでいないのに次々と串揚げが並び始めた。不思

議そうに見ているので、木下部長は、

「この店は、客がストップをかけるまでいろいろなものが次々に

出てくるんだ。勘定は串の本数で決まる。三十種類全部食べ終わ

れば注文も聞いてくれるが、たいていはその前に腹一杯になるぞ。

しかし、三谷君は若いんだ、遠慮なく食べなさい」

と薦めた。串揚げの店なら値段も知れたものである。部長の懐具

合を知っているだけに、ありがたくいただくことにした。

 

 部長は最初は当たり障りのない話をしていたが、宏一が串を十

本ほど平らげたところで話を切り出してきた。

「この前話していたセキュリティに関することで、書き換えると

記録が残るって言うやつ、どう考えてもそれをすり抜ける方法が

分からないんだけど、どんなことをすればすり抜けられるのか教

えてくれないかな、気になって仕方がないんだ。本当は聞いても

仕方がないことなんだろうし、聞く事自体いけないことなんだろ

うけど、ま、そこは内密にということで教えてくれないか」

 「いいですよ。そんなことでしたらお安いご用です」

宏一がいとも簡単に承諾したので部長はちょっと驚いた顔になっ

た。

「それは、監視しているプログラムの機能を停止するなり、一度

削除しておいて作業が終了したら元に戻すなりすればいいことで

す。

簡単ですよ」

「そうか、その手があったのか。気が付かないものだな、聞いて

しまえば簡単なことなのに」

「そんなもんですよ。監視しているファイルの具体的な名前も知

りたいですか?何ならお教えしますよ」

「いや、そこまでは・・・」

部長はあわててビールをいっぱい飲み干すと、

「ま、何かあったら自分でできるだけのことはしてみるよ。三谷

君に迷惑ばかり掛けるわけにも行かないし」

「ご自分で探されるのはご自由ですが、普通のウインドウズマシ

ンでも、通常二百近くのプログラムが常時動いているんです。普

通の方法では分からないでしょうけど。自分で探すなんて素人に

は不可能ですよ」

 

「参った参った。やはり専門家に任せたほうが一番いいって事か。

ま、よけいなことまで聞いてしまったな。今日のことは忘れて一

杯飲んでくれ」

そう言ってビールを勧めると、話題を変えてしまった。宏一は、

横領の片棒を担がされるのではないかとびくびくしていたが、簡

単に引き下がってくれたので少しほっとした。もっとも、頼まれ

ても断るつもりではいたが。あんな単純な手口での横領を手伝う

なんて、宏一にしてみればプライドが傷つくと言うものである。

 

 二軒目に、近くのスナックに連れて行かれたが、もう、重要な

話は出ないと踏んだ宏一は、時間を見計らって適当なところで失

礼した。時間を見ると九時少し前である。少し遅れるかな、そう

思いながら渋谷駅に急いだ。

 

 昨日の夜、宏一の部屋の留守電に明子から電話があって、待ち

合わせ時刻を指定してきたのだ。団体の旅行の都合で急に一泊で

きるので宏一と過ごしたいらしい。どこかシティホテルでも取る

か、と思っていたら、今日の昼休みに携帯に連絡が入り、

「この前のお礼がしたいから全部任せて」

と言うことなので、予約や手配はお手の物の明子に今回は甘える

ことにした。

 

 ハチ公前に付くと、大きなダッフルバックを抱えた小柄な明子

が宏一を見つけて飛び跳ねるように駈けてきた。

「ごめんなさい、急に呼び出しちゃって」

「こっちこそ、急に部長に呼び止められて一杯付き合わされたか

らお酒臭くてごめんね」

「いいのよ、こっちが急に呼んだんだから。じゃあ行きましょ」

「今日は何にも用意してないんだけど、いいのかな、甘えちゃっ

て」

「いいのよ、横にいてくれれば。あーお腹減った。食事に付き合

ってもらっていい?」

「あんまり食べられないけど、それで良ければ付き合うよ。明子

さんと同じくらいは食べられると思うけど」

「私ってこう見えても結構食べるのよ。今日は特にお腹減ってる

から、牛一頭でも食べられそう。びっくりしないでね」

そう言って明子は宏一と新宿に向かった。

 

 新宿の東口を出てしばらく言ったところにある『スープと鉄板

焼きの店』と看板の掛かった小さな店に入る。表からは分からな

かったが、中は煉瓦調の静かな店で、結構高級そうであった。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました。いつもご利用いた

だきましてありがとうございます」

とギャルソンが挨拶したところを見ると、何度か利用しているの

だろう。メニューは価格の入っている男性用と価格の入っていな

い女性用に別れているようで、明子のメニューとは房の色が違っ

ていた。それでも食事は明子がア・ラ・カルトを中心に注文し、

ワインの注文は宏一が担当した。

 

「すごい店に出入りしてるんだね。ワインリストなんか見せると

ころなんて、ほとんど入ったことないよ。緊張するよ」

「嘘ばっかり、ちゃんとハーフボトルで赤と白を選んでくれるし、

カルベネのお手頃な赤を選べるんだから、大したものよ。白は私

のためにドイツ系にしてくれたんでしょうけど、食事にはさっぱ

りしたフランス系のほうがあたしは好き。気を悪くしないでね。

ただ知っておいて欲しかっただけ」

「そうか、僕も実は甘ったるいのよりキリッとしたワインのほう

が好きなんだ」

そう言って、ソムリエを呼び、注文を変更してもらった。明子は

進んで自分の仕事の話をした。苦労話や失敗談などを聞いている

と、若い女性にはつくづく厳しい仕事だと分かってくる。

宏一も仕事の苦労話を明子に聞かせた。

 「コンピューターを扱うって言うより人間を扱っているみたい

ね。どの仕事も大変なんだ」

明子は宏一も同じような苦労をしていると知って、少し安心した

ようだった。

 

 新鮮なエビや季節の温野菜を食べてから、サイドオーダーの夏

牡蠣のサラダを二人で分け、メインに明子はタンシチュー、宏一

はレディスカットのサーロインを食べ、更に、デザートのオレン

ジクレープと三色シャーベットを半分ずつ食べるとさすがに二人

とも腹一杯になった。

 

 明子がカードで勘定を済ませ、二人で歩き出した。

「今日はごちそうさま、とってもおいしかったよ」

そう言うと、急に明子はびっくりした顔で、

「えっ、帰っちゃうの?」

と心配顔で聞き返す。

「そうじゃないよ、でも、ごちそうになったんだからちゃんとお

礼は言わなくちゃ。明子さんに今夜はずっと付き合うよ。さて、

どこに行きますか?」

「あーびっくりした。何か気に障ることでもしたかと思って、悲

しくなっちゃった。もう、返さないんだから」

そう言うと、宏一の腕を両手でつかんだ。少し酔ってきているよ

うだ。元々酒に強い宏一は、そんな明子の変化をほのぼのと見つ

めていた。自分にわがままを言ってくれると言うことは、安心で

きる相手と見なしている証拠だ。

 

「さぁ、次に行きましょ」

「大丈夫かい、あんまり強くないんだろ?まだ飲めるの?」

明子は宏一に寄りかかるようにして歩いている。

「少し風に当たりたいわ。公園に行きましょ」

二人はゆっくりと中央公園に向かった。店を出たときは、少し足

下がふらついていた明子だが、しばらく歩いていると酔いも醒め

てきたのか、いつもの軽快な足取りに戻ってきた。

 中央公園に着くと、あちこちにアベックがいた。日比谷公園の

ように激しい行為をするものはいないが、結構あちらこちらで寄

り添ったり抱き合ったりしている。明子は不意に立ち止まると、

宏一に、

「ありがとう、大好きよ」

と言って目を閉じた。宏一が唇を重ねると、首に手を回して明子

のほうから積極的に応じてきた。唇を重ねながら、明子はここで

キスをするために連れてきたんだと言うことに気が付いた。

 職場の上司が相手では、いくら好きでもこのような場所で堂々

と愛情を示すわけには行かない。明子は、言ってみれば日陰の関

係に疲れたのかも知れなかった。長いキスの後、

「どう、満足しましたか」

と言うと、

「とっても」

とにこっと笑って言う明子に、

「どこか部屋を取ろうか、疲れてるんだろ」

「大丈夫よ、あそこをご覧なさい、あれが私たちの今日の部屋よ」

と公園のはずれの大きなホテルを指した。

「へぇ、これはすごい。センチュリアンなんて」

「今日は特別よ。ちょっと贅沢をしたい気分なの、さあ、いきま

しょ」

「何もかも準備してくれたんだね。ありがとう」

と言ってから

「まるでドラエモン、じゃなくてドラミちゃんだね」

と付け足した。

「私にとっては三谷君がドラエモンよ」

と明子は宏一の腕をしっかりとつかんで歩いていった。


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