第 12 部
「それじゃ、タクシーを呼ばなきゃ」
幸一はテレビのものと思われるリモコンのボタンを押すと、
「サトミ」
と言った。
「はい、どうしたの?」
突然部屋の中に女性のクリアな声が響いた。その声があまりにリアルだったので、久美はびっくりして幸一に身体をくっつけてきょろきょろした。
「大丈夫だよ。コンピューターだから」
「コンピューターですか?」
幸一の声に反応してサトミの声が確認してきた。
「違う」
「はい、どうしたの?」
「タクシーを呼んで」
「はい、タクシーですね。どこにしますか?」
「大東京タクシー」
「はい、大東京タクシーを呼びます」
女性の声がそう言うと、点けていなかったはずのテレビ画面に『大東京タクシー』の文字と電話番号が流れていった。その女性の声は久美よりはもう少し年上の女性の声だったが、とても可愛らしい声だった。
「はい、大東京タクシーです」
今度は明らかに電話のオペレーターの声が部屋に流れた。サトミの声が住所を流暢に言い、
「一台、直ぐにお願いします」
と言うと、オペレーターは
「ありがとうございます。部屋まで伺います。お部屋でお待ち下さい」
タクシーのオペレーターはそう言って電話を切った。
「どう、面白いだろ?」
幸一は自慢げにそう言ったみたいだったが、あまりにリアルな声だったので久美は少し気味が悪かった。二人しかいないと思っていたこの部屋にもう一人女性が居るような気がするのだ。
やがてタクシーが到着したと見え、テレビの画面に運転手が映った。
「ありがとうございます。大東京タクシーです」
「今すぐ降ります」
幸一がそう言うと、運転手は画面から離れていき、テレビの画面も消えた。
「タクシーが来たみたいだ。今日はありがとう。また来週の土曜日ね。待ってるよ。これを降りるときにタクシーの運転手に渡して、金額を書き込むのを確認してね。それを運転手に渡せばいいから。それじゃ、お休み」
幸一はそう言って久美を送り出した。
久美はタクシーに乗って家の場所を告げてから再び不安になった。自分はここでの夜に耐えられるのだろうか?来週にはもう我慢できなくなって飛び出してしまうのではないか?そんな気がして恐ろしかった。
幸一は今日の目的である、久美をここに呼ぶ理由を久美が納得したことで満足していた。少しの間だったが、少女の身体も楽しむことができた。そしてこれからその時間は毎週数時間確保できるのだ。一人暮らしだが、こんな楽しみがあるから不自由だと思ったことはなかった。
翌週の土曜日、久美は学校にいる間から落ち着かなかった。よっぽど体調が悪いと幸一に電話しようかを思った。確かに体調は良くなかった。昨日など殆ど眠れなかったのだ。しかし、残念なことに幸一の家に行けなくなるほど体調が悪化したわけでもなかった。授業を終わった久美が教室を出ようとすると、仲良しのちーちゃんが後ろから追いついてきた。
「くー、今日ハヤシヤに行こうよぉ」
「ごめん、土曜日はバイト入れたんだ」
「そうかぁ、これからずっとだめなのぉ?でもさ、元気ないよ?大丈夫かい?」
「うん、何とかがんばるよ」
久美はわざと元気を出してそう言った。ちーちゃんは心配そうな顔だったが、それでも、
「無理するんじゃないぞぉー」
と言って手を振って送り出してくれた。今の久美にはその心遣いだけでも嬉しかった。『仕方ない』それが学校を足取り重く出たときの久美の正直な気持ちだった。
久美は約束はきちんと守る子だった。だから、本屋で料理本を買ってちゃんとトンカツの材料も買ったし、エプロンも買った。全部合わせるとかなりの重さになったが、久美はがんばってそれを幸一のマンションに運んでいった。
買ってきた食材は一度冷蔵庫に入れ、まず料理本を読んでしばらくは勉強の時間だった。すると、トンカツの作り方はさほど難しくはないことが分かった。そこでみそ汁を作り、サラダを作った。ここまではだいたい順調だった。そしていよいよトンカツに取りかかる。肉の筋を切って小麦粉を付けて卵水に漬け、皿にパン粉を付けた。そして油を温めて、温度を見計らって肉を入れた。ジュワ〜〜〜〜ッと音がして揚げ物らしい音がしたことに安心した。ただ、衣がいくつか剥がれているのが気になった。しばらくはじっと見ていたが、それを引き上げようとして、何にトンカツを引き上げればよいのか分からずに慌てた。そして確か母親は新聞紙を使っていたはずだと思って部屋の中を探したが、この部屋に新聞紙はなかった。結局諦めて大きめの皿に引き上げたときにはトンカツはかなり茶色が濃くなっており、あちこち突いたために衣が剥げていた。そして引き上げてから思い出した。『食べる直前に揚げなきゃいけなかったんだ』まだ幸一が帰ってくるまで1時間以上残っていた。
久美はがんばったのに失敗してしまったことにがっかりし、思わず床にぺたんと座り込んでしまった。そしてしばらくぼぉっとしていた。幸一がこれを見たらなんと言うだろうか?失敗しても良いと言っていたが、やっぱり怒るかもしれない。
身体中を脱力感が襲った。昨日、殆ど寝ていないこともあり、しばらくそのままぼぅーっとしたまま時間が過ぎていった。部屋の中はとても静かで外の音も殆ど入ってこない。もしかしたら少しの間居眠りをしていたかもしれない。すると突然大変なことを思い出した。『そうだ、ご飯炊かなきゃ!』久美は慌てて時計を見た。既に5時を回っている。
慌ててお米を探したが、先週見つけたはずの米の場所が思い出せずになかなか見つからない。やっと見つけて炊飯をセットしたときは5時半を回っていた。
幸一は今日も6時きっかりに帰ってきた。
「久美ちゃん、今日も来てくれたんだね。ありがとう」
明るく挨拶する幸一に、久美はぎこちなく頷くだけだった。
「まずはこれを仕舞ってきてね」
そう言うと先週と同じように封筒を渡す。
「はい」
それだけ言うと久美は自分の鞄にそれを仕舞った。
一応、夕食の支度は調っていた。テーブルの上にはトンカツらしきものが載っていたし、サラダもあった。久美が冷蔵庫から缶ビールを出してくれる。
「すごい、本当にトンカツができてる。久美ちゃん、大変だったろう?ありがとう」
「いえ・・・その・・・・」
「さぁ、食べよう」
幸一はそう言うと、トンカツをもりもりと食べ始めた。しかし、既にトンカツは冷え切って固くなっている。久美も箸を付けようとしたが、
「ちょっと冷めてるみたいだね。こうしようか。ちょっとかして」
幸一は久美のトンカツも取り上げると自分の分と合わせて食器棚から取り出した別の皿に入れ、電子レンジのスイッチを入れた。
「ちょっと暖めるから」
そう言っている間にレンジが音を立てて止まった。ちょうどその時、炊飯器が音を立ててご飯が炊けたことを知らせた。慌てて久美が立ち上がってご飯をよそうと、
「絶妙のタイミングだね。さぁ、今度こそ食べよう」
幸一は久美の分を戻すとガブリとトンカツにかぶりついた。
久美はナイフとフォークでぎこちなく食べているが、幸一はトンカツが3枚もあることもあってそんなことは全然気にしていなかった。
「うん、美味しい。良くできてるよ」
幸一は衣の剥げかけたトンカツを美味しそうに食べている。幸一があまりに美味しそうに食べるので、作った久美でさえ『本当は美味しいのかもしれない』と思ったくらいだった。
「ごめんなさい。上手く作れなくて・・・」
「何言ってるの。これは誰が見たってトンカツだよ。ちょっと衣が剥げていたりするけど、丁寧に作ってあることくらいわかるさ」
「そうですか?」
久美は幸一が無理に褒めてくれているのだと思った。
「だって、ちゃんと肉に筋切りをしてあるし、下味に塩こしょうだってしてあるでしょ?それに、パン粉は少し剥げちゃったけど、小麦粉だって全面に綺麗に漬けてあるじゃないの」
久美は幸一が詳細に久美がした仕事を数え上げたので驚いた。確かに全て幸一の言うとおりで『揚げちゃえば分からないのに』と思いながら、いやいや本の通りにやっていた自分が恥ずかしかった。
「久美ちゃんが丁寧に作ってくれたトンカツ。とっても美味しいよ」
「はい・・・」
「最後のパン粉を付けるところでおそるおそるやったから少し剥げちゃったんだね。こう言うのは思い切ってパン粉に突っ込んでからエイって押しつけてそれでお終いにした方が上手くいくんだよ」
「はい」
「それと、揚げるときは、揚げ始める前に引き上げる準備をしておいた方が良いね」
「え?どうして分かるんですか?」
「簡単だよ。片面は綺麗な色に揚がっているのにもう一面は濃い茶色になってるだろ?それは良い揚がり具合になってから片面だけ更にずっと揚げ続けたからこうなったんでしょ?」
「はい、すみません」
「怒ってなんか無いよ。揚げ物は慣れないととっても大変なんだ。挑戦してくれただけでも嬉しいよ。スーパーで出来上がったのを買ってくることもできたのに」
「あれは・・・あんまり美味しくないから・・・・」
「それが分かってれば素質十分。きっと直ぐに料理上手になるよ」
「ごめんなさい。この次はきっと上手くやりますから」
「嬉しいね、そう言ってくれると。それじゃ、来週もトンカツね」
「良いんですか?」
「久美ちゃんさえよければ」
「はい、わかりました」
久美は、微笑みながらこの次はきっと上手にやろうと思った。
気が付くと、食事前はあれほど緊張して、正直言って幸一に会うのが嫌だったのに、いつの間にか幸一のペースに乗せられてしまっている。いつの間にか自分も出来損ないのトンカツを食べているし、幸一は3枚のトンカツを殆ど食べてしまっていた。何となく楽しい気持ちになっているのに気が付いた。
幸一はロング缶の缶ビールをグイッと飲み干すと、
「もう一本、小さいやつを出してくれる?」
と言った。久美は冷蔵庫から出しながら、
「幸一さんて、ビールを美味しそうに飲みますね?」
と言ってみた。幸一は久美が初めて話題を振ってきたことに驚き、喜んだ。
「そりゃ、久美ちゃんが作ってくれたんだもの。ビールだって美味しいさ。何なら一口、飲んでみる?一口だけ飲んでごらんよ。パシュッて開けてから」
幸一がそう勧めるので、はじめは遠慮していた久美も興味本位で一口だけ飲んでみた。
「苦いです。やっぱり良いです。私はジュースが良いです」
「ははは、ごめんね」
幸一が笑うので、久美は照れ隠しに、
「私、まだ子供なんです」
と言って下を向いた。久美が下を向いたとき、幸一は久美の顔色が少し青白いことに気が付いた。