第 6 部
久美は自分で何度も何度も、嫌になるくらい何度も計算した。電気、ガス、水道、電話、携帯、プロバイダー、NHK、食費、学費、交通費、服飾費、学資積み立て、健康保険、等々。そして弟と二人暮らしを続ける場合、自分が高校を卒業するまでに必要なお金は一千万円を軽く超えており、親の残した貯金では六百万以上足りないことが明白だった。最初、覚えたての表計算ソフトを使って高校卒業までの資金を計算したとき、節約すれば親の貯金でも足りると思った。しかし、実際の生活ではそれ以上のお金が出ていった。その原因を探り、修正を繰り返すたびに必要な経費はどんどん膨らんでいき、最近はその金額が修正してもあまり変わらなくなっていた。
久美がカンパを手に考え事をしているのを受け付けの女性は金額の多さに戸惑っていると思ったらしい。
「大丈夫。全部使って」
「足りません」
「え?」
「これじゃ、足りないんです。全然」
「ご、ごめんなさい。でも、それは・・・」
その言葉に久美ははっとした。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないんです。えと、あの、そんなつもりじゃ、ありがとうございます。本当にありがとうございます。嬉しくて、私わがままで、私たちのこと考えてもらったのに、そんなつもりじゃ、ごめんなさい」
慌てて久美は何度も頭を下げた。
そんな久美を見てその女性は、
「ごめんなさい。謝るのは私の方かもしれないわ。久美ちゃんがどれだけ悩んでいるのか、まじめに考えたこともなかった」
「いいえ、皆さんの気持ちがこんなにたくさん詰まっていて、本当にありがとうございます。私ではどうにもならないすごいお金なんです。本当にありがとうございます」
「受け取ってくれるの?」
「はい、ありがとうございます」
「よかった。みんなにも伝えておくわ。喜んで受け取ってくれたって」
「ありがとうございます」
久美はさらに頭を下げた。
「それじゃ、久美ちゃん。会社の人が待ってるから、案内するわね」
そう言うと、
「私の上司なの。大丈夫。きっと力になってくれるから」
と言って久美をどこかの部屋に連れて行った。
久美は会社に入ったことなど無かったから、実際、テレビで見るくらいの知識しかなかった。だから、画一的で無機質なデザインの廊下を歩いて連れて行かれた部屋に入った途端、廊下とはあまりに違うので驚いた。
「失礼します。柳様をご案内しました」
「そうか。一緒に入って下さい」
「はい、失礼します」
そう言う久美の言葉を聞いた女性は、入り口の近くの機械に、
「柳様、入室なさいました」
と告げた。
その部屋は明るい窓が壁の代わりに広がっており、ちょうど角部屋と見えてまるで空中に浮かんだ部屋のように感じた。そして豪華な応接セットと大きな机があり、その机の上にはパソコンと書類がたくさん置いてあった。
「こんにちは、柳久美さんですね」
「はい」
「三谷幸一です。初めまして」
「初めまして・・・」
「とにかく座りましょう。どうぞ」
幸一はそう言うと、自分がソファに座ることで久美を向かいのソファに導いた。
「大変な目に遭いましたね。落ち着いたかな?」
「はい、だいぶ・・・・」
「澤田さん、昨日はどうだったの?」
「はい、お二人をすき焼きにお連れしました。最初は久美ちゃんも英二君も緊張していましたけど、少しずつ話をしてくれました」
「あ、久美さん、名前で呼ばせていただきます。良いですよね?」
「はい」
「ここは以前、柳部長が使っていらした部屋です。私も大変お世話になりました。だから、お父様の思い出が詰まった場所だと思って下さい。そして私も澤田も本気で久美さんたちの力になろうと思っています。まずそれだけは信じて下さい」
「・・・・」
すると、久美たちが入ってきたドアとは違うドアが開いて、別の女性がお茶とケーキをいくつか運んできた。
「この会社でケーキを注文するなんて、たぶん始まって以来じゃないのかな?」
幸一は運んできた女性に軽口をたたいた。
「そうですね。できれば、これからも定期的にお願いしたいですね。おこぼれを頂戴できますから」
その女性はそう笑って去っていった。
「と言うことなので、これからも何度も遊びに来て下さい。いえ、ごめんなさい。相談に来て下さい。これは私からのお願いです」
幸一はそう言って久美に頭を下げた。
それから久美は、自分の父がこの会社の創業当時からの設立メンバーの一人であり、会社の業績に大いに貢献したことや、人格者であった久美の父に多くの社員が心酔していたこと、そして人気があるがためにいろいろと苦労もしたことなどを聞かされた。久美は自分の父の会社での存在を初めて知り、それが久美の持っている父へのイメージと同様なことにほんの少しだけほっとした。
そして、現在も会社が契約している弁護士が父の財産の管理について手伝いをしていることを知った。久美が東京に戻って暮らしていることも幸一は既に知っていた。そして、会社の弁護士が叔父と話をつけたからこそ久美たちが静かに暮らしていられると言うことも知った。
「でもね、その弁護士もお父さんの残した財産の中によく分からない部分があって、それが何なのか、まだ調べているそうなんだ」
「よくわからない部分?」
「手紙だそうだ」
「手紙が大切なんですか?」
「弁護士はそう言ってる。まぁ、そう言うことは専門家に任せておけばいいよ。会社の弁護士だから、絶対に久美さんに悪いようにはしないから。ただ、時間がかかっているね」
久美には何のことだかまるで見当がつかなかった。
そこまで話した頃、澤田という女性は受け付けに戻っていった。
幸一と二人きりになったので、久美は再び緊張した。
「それでね。今心配しているのは、久美さん兄弟が暮らしていけるかどうかなんだ」
「はい・・・」
「ごめんなさいね。澤田さんから報告を受けたんだけど、民生委員のことで問題があるとか?」
「問題って言うか、あの・・・」
「大丈夫。もう心配しなくて良いよ。すぐに何とかなるから」
「え?どうしてですか?」
「私か、この会社か、とにかく久美さんたち兄弟をバックアップしていく存在がここにいるからね」
久美は目の前の男性の言うことを信じてよいものかどうか迷っていた。いくら何でも話が上手すぎた。そんなことってあるのだろうか?
「とにかく久美さんは何もしなくて良いから」
「はい・・・」
「経過はちゃんと知らせるから、訳の分からないことにはならないよ」
「はい」
「それで、失礼なことを聞きますが、生活費の方は大丈夫ですか?」
「今は・・」
「今はまだ大丈夫だと思うけど、国分が、あの、葬儀の全体のお世話をした・・」
「はい、知ってます」
「国分が心配していたものだから」
「はい、その通りです・・・」
「そうか、やっぱり・・・・」
「・・・・・・」
「でも、大丈夫。何とかするよ」
「はい、お願いします」
そう言いながら久美は、どこかの誰かがしゃべっているような気分だった。自分自身はまだ目の前の人物を信用していない。しかし、今の自分は信じるしかないと言うことも分かっていた。
それから久美は幸一の提案通り、毎週欠かさずに会社の幸一の部屋を訪れた。そして、その度に『これは誰々から』といくらかのお金を渡された。しかし、それも何度か続くと渡されないことの方が多くなった。幸一は、
「今、会社の役員会で久美ちゃんたちへの奨学金を出せないか検討中なんだ。認められれば英二君が大学を卒業するまで毎月お金が出るからね」
と言って久美を安心させようとした。
「・・・あの・・・いつ頃になりますか・・・??」
おそるおそる、といった感じで久美が聞くと、
「ごめんね。まだだいぶ時間がかかりそうだよ。とにかく、額が大きいものだから」
と幸一は残念そうに言った。
「それでね、久美ちゃんにはアルバイトでもして貰おうと思うんだ」
「アルバイト?でも、私、なんにもできないし・・・」
「さっきの澤田さんが教えてくれるよ。きっと将来にも役立つから」
「でも・・・・」
幸一が勧めたのは受付嬢の仕事だった。正直、あまり気乗りしなかったのだが、幸一が『ただ座って笑顔で挨拶していればいいから』と言うので引き受けることにした。それから週に2回、学校に話をして午前中で学校を抜けると会社で受け付けの仕事を手伝った。
受付嬢の仕事は思った以上に大変な仕事だった。まず、膨大な会社組織と役目を覚えなくてはいけない。次に主だった人の名前も覚えておく必要がある。更にこの会社では電話の総合受け付けの役目もしていたから、電話の応対も必要だった。久美は最初、受け付けの机に備え付けられているコンピューターが電話だと言うことが信じられなかった。電話が入ると相手の電話番号とともに名前が表示され、社員の名前をキーボードで打つと画面にリストが表示され、クリックすると繋がるのだ。久美に優しく教えてくれる澤田は社内に流す案内のメールも作成していた。
久美は必死になって仕事を覚えた。電話の応対の定型文をノートに書き写し、家で何回も練習した。しかし、正確に応対しながら笑顔でいるというのはとても難しいことだった。更にその間に相手をパソコンで探し出して来客を告げたり、回線を繋いだりしなくてはいけない。しかし、やっと夢中になれることを見つけた久美は、生活の不安を忘れるかのように夢中になって仕事を覚えた。
大人の女性に混じって小柄な高校一年の女の子が受け付けに座っているのは、ある意味で滑稽だった。しかし、一生懸命なのが相手にも好感を持って伝わると見え、来客には非常に評判が良く、中にはすぐに久美を覚えて挨拶してくれる客も現れた。また、社内でも評判になったし、営業からは会社を覚えてもらえて助かると言われた。
また、久美にとっては大人の言葉遣いを練習する良い機会になった。会社で聞こえてくる言葉は、最初久美にとってドラマの言葉みたいだった。今までの自分たちの言葉とは全然違う、自分の気持ちが全然伝わらない堅苦しい言葉だった。しかし、自分で少しずつ話せるようになってくると、相手に対して失礼にならないようにしながら自分を主張できると言うことに気が付いた。
時には会社、あるいは受け付けに歓迎されない客が来ることもある。そんな時でも慣れた受付嬢なら笑顔で追い返すことさえできるのだった。もちろん、警備の人を呼ぶこともできたが、たいていはその必要がなかった。アポ無しで来る訪問販売や社内から相手にされない営業マンは不思議そうな顔をしながらすごすごと帰っていくのだった。
久美はだんだん仕事に慣れてくると、少しずつ仕事を楽しみ始めた。自分が一人前の大人に近づいているようでとても楽しかった。自分が大人びた言葉で話しかけると、相手も必ず丁寧に応対してくれる。それが堪らなく楽しかった。