第 7 部
澤田は横で見ていて久美に人気が出るのは嬉しかったが、久美の笑顔を殆ど見たことがないのが気がかりだった。端整な顔立ちですっきりとした大きな目をしている久美は、笑うときっと可愛らしいはずだった。しかし、軽く微笑むのがせいぜいで、声を立てて笑うところを見たことがなかった。
久美のアルバイトが終了する時間になると、いつも幸一が受け付けに来た。そして久美に声をかけて着替えさせ、一緒に帰宅した。そして英二を一緒に誘って食事に行ったり、時には久美に何かプレゼントを買ってくれた。たいていは簡単なものだったが、久美にとってはそれが唯一の息抜きだった。そして、知らないうちに自分でも幸一には心を開くようになっていった。
そんな久美を、いつもより少し早く終業時間前に幸一が誘い出したのは久美にとってちょっと驚きだった。そして、その幸一の顔を見た澤田の顔色が変わったのも気になった。制服に戻った久美を連れ出した幸一は、歩きながら話し出した。
「久美ちゃん、今日は時間ができたんだ。久美ちゃんを素敵なところに案内するよ」
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「うん、もう終わっちゃったからね。別にさぼったり怠けたりしている訳じゃないから大丈夫」
「そうですか。よかった」
そんな話をしながら、幸一は久美を六本木ヒルズの最上階のカフェに連れて行った。久美にとっては初めてのところだったので、見方によってはまるで自分が浮き上がったみたいに感じるカフェは最高の気分だった。
「久美ちゃん、今日は英二君は塾だっけ?」
「はい、帰ってくるのは8時半頃です」
「それじゃ、英二君には内緒でこのままちょっとだけ食事していこうか?」
「え?いいんですか?」
久美は少し驚いて幸一を見上げた。その顔には素直な嬉しさと信頼感が見て取れた。
「久美ちゃんは一人で全部責任を持っているんだもの。少しくらいは良いよね?」
幸一はそう言って軽くウィンクすると、久美を同じビルの中の寿司屋に連れて行った。寿司屋のカウンターに座って緊張している久美に、
「好きなものを頼んで良いよ」
と言って、自分はカンパチ、中トロ、鉄火、と注文していった。久美は最初、幸一と同じものを貰っていたが、少しだけお腹が落ち着いてくると、
「あの、卵、下さい」
と自分からも注文するようになった。それは短い間だったが、久美が本当に久しぶりに一人でわがままを聞いて貰ったような、本当に貴重な時間だった。
やがて久美が一通り食べて満足すると、幸一はお勘定を済ませて久美を近くの喫茶店に連れて行った。そこは喫茶店というよりはラウンジ、と言った方が良いような豪華で静かな場所で、周りには学生など一人もいなかった。そして幸一は、いよいよ話さなくてはいけないことを話し始めた。
「久美ちゃん、今日は話があるんだ」
幸一はゆっくりと切り出した。今まで年上の兄にわがままを聞いて貰ったようにニコニコしていた久美は一瞬で表情を硬くし、幸一の表情から、その話は良い話ではないことを直感した。
「久美ちゃんが受け付けに入ってくれてから、とってもお客さんの評判が良くって、今じゃ久美ちゃんに挨拶してほしくって会社まで来る人もいるみたいだよ」
久美は大人しく聞いていた。
「それに、会社の人にも丁寧に応対してくれるから、会社の中も明るくなったってみんな喜んでいるんだ。久美ちゃんは最初、上手に応対できなかったのに、すぐに上達したでしょ?だから、会社に入ってだいぶ経つのにいまだに上手に応対できない人たちが、久美ちゃんがこんなに上手くなるんだったら、自分達もがんばらなきゃ、って言って会社全体の応対が上手くなったみたいだね」
幸一の言い方は優しいが、久美はそんな言葉を聴きたくなかった。本当は何を言われるのか、それだけが気になった。
「それでね・・・」
「ごめんなさい」
「え?」
「褒めて下さるのは嬉しいんですけど」
「それだけのことを久美ちゃんはしたんだよ。きっとすごく努力したと思うよ」
「でも、それを言いたくて誘って下さったんですか?」
久美は言葉遣いが少し変だと思ったが、それよりも言いたいことを優先した。
「・・・ゴメンね。そんな・・・・まずお礼を言いたくて」
「はい・・」
幸一の『まずお礼』という言葉は、次に来る言葉が反対の意味であることを確信させた。幸一も回り道をしても無駄だと思ったらしい。
「はっきり言うとね。受け付けのアルバイト、ダメになっちゃったんだ」
「はい・・・わかりました・・・・」
久美の表情に明らかに驚きと落胆が見えた。『あんなに楽しかったのに』と言う想いと『働けなくなったらどうすればいいの』という想いが頭の中で錯綜する。
「これはね、久美ちゃんの仕事ぶりが悪いとか、どこからか文句が出たとか言うんじゃないんだ。まずこれだけは覚えておいてね。みんなとっても喜んでいるんだよ」
「・・・・はい・・・」
いまさら何を聞いても仕方ないとは思ったが、久美は大人しく幸一の話を聞いていた。
「原因はね、普通のアルバイト以上のお金を久美ちゃんにお礼として渡したからなんだ」
久美の表情が明らかに変わり、少し怒ったように見えた。確かに久美にしてみれば、自分が要求したわけでもないのにかなりたくさんのお金を貰っていた。確かに生活のためには大切なお金ではあったが、でも、それは久美の責任ではない。もう少し安くても良かったのだ。
「会社の中でお金の使い方をチェックするところがあるんだけど、そこが言うには、アルバイトに支払う額としては多すぎる、これ以上は普通のアルバイトの金額以上は出しちゃいけない、って言うんだ」
「そうですか・・」
「でも久美ちゃん、普通のアルバイトのお金じゃ厳しいだろ?」
幸一はぐっと身を乗り出すと、小さな声で言った。
「いくらですか?」
「1時間780円」
久美はその金額を聞いてがっかりした。今までは時間に換算すると5千円以上のお金が出ていた。それに比べれば、まるで時間の無駄だ。その金額なら他にいくらでもアルバイトの口がある。それに、学校を休んでもいくらも稼げない。
やっとこれで、弟の学費の積み立てまでできると思った矢先の出来事に、久美は目の前が真っ暗になった。久美の表情を見た幸一は、思った通りに久美が落胆したので可愛そうで仕方なかった。
「それでね・・・」
「何か私にできる仕事は無いんですか?一生懸命覚えますから」
「それも聞いてみたよ。でもね、久美ちゃんが18歳未満だから正式に会社で働いてもらうことができないんだって。法律で決まっているんだって。それ以外はアルバイトしかダメなんだって」
久美は『そんな法律、法律じゃない』と思った。法律とは本来、自分たちを守るためにあるはずなのに、自分の生活を取り上げる法律なんて許せなかった。しかし、諦めるしかない、ということもまた久美は理解していた。どうしようもないのだ。
少しの間黙っていた久美はやがて、
「あの・・・・」
と声を出した。
「なんだい?」
「あの・・・・」
言い出し難い事だった。しかし、以前に奨学金がどうとか聞いた覚えがあった。それを確かめたかったのだ。しかし、さすがに自分からは言い出し難い。
その様子を見ていた幸一は、そっと言った。
「奨学金のこと?」
久美は静かに頷いた。
「ごめんね。まだまだ時間がかかりそうだよ。たぶん、何ヶ月もかかるみたいなんだ」
「そんな・・・」
「そうだよね。久美ちゃんは、明日からのお金が必要なんだから」
「わかっているのに、どうしてなんですか!」
思わず久美はかっとなって幸一を責めた。
「ごめんね。本当にごめんね。久美ちゃんたちにどれくらいのお金を出すべきなのか、それがなかなか決まらないのがひとつ。そのために専門家に話を聞いたりして時間がかかってるんだ。それに、会社がどこまで面倒を見るべきなのか、それが決まらないのがもう一つ。そして、大きなお金を出すにはたくさんの人の賛成が必要なんだ。これがもう一つ」
「要するにダメって事なんですね」
「ダメじゃないよ。絶対にダメじゃない。それなら最初からこんな難しいことやらなきゃいいんだから。でも、すぐにはダメだね」
久美はしばらく黙り込んでいた。何を言っていいのかわからなかった。これからどうやって暮らしていけばいいんだろう。貯金を崩し始めれば、来年の今頃には無くなってしまう。学資の積み立てをやめ、携帯から何から全部やめて一切余計なことをせず、家から出るのは学校だけにすれば来年一杯は持つが、それでも久美が卒業するまでに必要な生活費には程遠かった。
「どこか他の親戚の人に連絡してみる?」
久美はゆっくりと首を振った。そんな親戚はいなかった。
「おじいちゃんとかおばあちゃんとか・・・・」
「四国におばあちゃんがいるけど、もう歳だし・・・」
「そうか・・・」
「今までありがとうございました」
突然久美は立ち上がると、荷物を纏めて出て行こうとした。会社が助けてくれないなら、これ以上ここにいても無駄だと思った。当てがあるわけではなかったが、取り敢えずここにいても仕方ないことだけははっきりしていたからだ。
「待って。ちょっとだけ待って」
幸一は慌てて久美の手を掴んだ。
「ちょっとだけ座って。すぐに終わるから。後一つだけ」
久美をもう一度座らせると、幸一は最後の希望、というか想いを口にした。
「久美ちゃん、週に一回でいい。俺のところに来てくれないかな?食事を作ったり、話し相手になってくれればそれでいいよ。ちゃんとアルバイト代は出すから。これは僕が出すお金だから会社とは関係が無い。だからたくさん出してあげられるよ」
久美はその言葉を聴いて、一瞬だけ心を引かれた。しかし次の瞬間、幸一の目に好色な光のようなものを見た気がした。すると、今まで我慢していた何かが心の中で弾けた。そんな上手い話があるわけが無い。幸一が優しかったのは、結局お金で自分を縛りたいからだと感じた。幸一の話は、今まで大人しく話を聞いていた自分に付け込む横暴だと思った。『きっとこの人が全部をだめにしたんだ』『私はお金さえ渡せばナンデモすると思ってるの?』心の中で炎が一気に燃え上がる。
「幸一さん、私をどうする気ですか?何をさせる気なの?」
久美の言葉は、今までとは全然違う強い調子の言葉で、その瞳は怒りに燃えていた。
「だから食事とか・・・・」
「もういいです。私、自由がいいんです。幸一さんの言う意味はわかりますけど、お断りします。失礼します」
「わかったよ。でも、これだけは持って行って。連絡先と住所と地図。持って行くだけで良いから」
幸一は席を立った久美に押し付けるように渡した。
「連絡なら会社にするから良いです。受け取ったってどうせ捨てますから。それでも良いですね」
久美はそれを毟り取る様にしてバッグに押し込むと、店を飛び出すように出て行った。そして一番上の地図らしきものが零れ落ちても知らん顔をして歩き続けた。
帰りの電車の中で久美は泣いていた。今までの全てが悲しかった。両親を亡くした事、会社の援助が続くと思い込んだこと、そして幸一の自宅に誘われたこと、今日までの自分が馬鹿みたいに思えた。そして駅のゴミ箱に幸一から受け取ったものを全て捨ててしまった。