第 73 部
「今日はラッキーだわ。突然可愛い男の子とデートができるなんて。それも会社持ちの経費で。美味しいもの、食べちゃおうかな?」
「澤田さん、でしたね?小学生の男の子を接待するのが今日のあなたの仕事ですよ。あんまり大人の店に連れて行かないで下さいね」
毎田がそう言うと、
「はぁ〜い。注意されちゃった。ねぇ久美ちゃん、英二君が嫌いな物はなあに?」
と澤田はあっけらかんとした表情で聞いてきた。
「人参と茄子と鯖と生の牛乳と、梅干しと・・・・」
「分かったわ。任せといて」
「お願いします、澤田さん」
「うん、了解しましたぁ。久美ちゃんの家に迎えに行けばいいのね?」
「はい、電話しておきます。宜しくお願いいたします」
久美が丁寧に頭を下げると、澤田は明るく部屋を出て行った。
すると毎田は誰かに長い電話をかけ始めた。久美は目の前に残されたケーキセットをつつきながら、これからのことを想像していた。これで少しは生活が安定するのだろうか?幸一からお金をもらわなくても良くなるのだろうか?弟を大学に行かせることができるのだろうか?もしオーナーになったら、幸一はもう久美に興味を示さなくなるのだろうか?オーナーになれば少なくとも久美にお金を渡す必要はなくなるのだから、そうなっても不思議はない。幸一に力強く身体の奥まで貫かれて快感が身体中を駆け巡った時の記憶が頭をかすめていった。
やがて毎田に電話がかかって来ると、毎田は久美を連れて玄関へと降りていった。すると来た時より人数は少なかったが偉そうな怖い顔をした大人が何人か見送りに出てきた。久美は『この中に私に嫌がらせをした人がいるのかな』と思うと怖い気もしたが、同時に怒りも湧き上がってきたので思いっきり知らん顔をして、無理に少し笑顔まで作って大きな車の後ろの席に毎田と一緒に乗り込んだ。
「さすがは柳さんのお嬢さんだ。大した物です」
車が走り出すと毎田は話し始めた。
「今、たぶん意識的にでしょうけど、堂々と振る舞っていたでしょう?わざとですか?」
「だって、あの中に私にストーカーを付けた人がいると思うと、悔しくって・・・」
「そうですね。たぶん、あの中にいたと思います。きっとその人は久美さんの態度を見てがっかりしたことでしょうね」
「そうですか・・・???」
「そうですよ。久美さん、さっきまで会議室でビクビクして怖がっていた女の子とは思えない位しっかりとした態度でした。本当に凄いです」
「毎田・・・・さん・・・・ですか?」
「はい、そうですよ」
「毎田さんは私がこの会社でしばらくアルバイトしてたの、知ってます?」
「いいえ?そうなんですか?」
「はい、みんないい人達ばっかりでした。私のためにカンパもしてくれたんです。それを酷いことを言ったりしたけど、笑顔で許してくれました・・・・」
「久美さん、その話は向こうに着いてからゆっくりと聞かせて下さい。きっとオーナーの方も聞きたがるでしょうから。お願いします」
「毎田さん、私、高校一年生です」
「知ってますよ」
「高校一年の女の子にこんなこと、話したって無駄だと思わなかったんですか?それに、私が何を言っても丁寧に話をしてくれるし」
「久美さん、正直に言うと、私も最初はそう思っていました。一生懸命話したって嫌がられてそれでお終いになるかも知れないって。でも、会議室でその気持ちはなくなりました。今は久美さんと話すのが楽しいですよ。それに、久美さんは見かけは高校一年でも、心は既に大人です。人間的に尊敬できるとも思えます。こういう仕事をしていると、私の倍以上の年齢の人でも人間的に尊敬できない人に会うことも多いので、久美さんにお会いできたのは久々のラッキーな出来事です」
二人はそれから他愛もないことを話していると、30分ほどで車は大きな家の前で止まった。
「さぁ、着きましたよ。そろそろ夕食の時間です。美味しいものを食べましょう」
毎田はそんな気楽なことを言うと、久美を家の中へと案内していった。そこには久美の父親よりももう少し年上の男性がにこやかな笑顔で久美を出迎えてくれた。
「初めまして。山崎と言います。お父さんとは長い間信頼する関係にありました。お葬式でもご挨拶しましたが、覚えていますか?」
「あの・・・・ごめんなさい・・・・・」
山崎は少し残念そうな顔をしたが、直ぐに、
「そうでしょうね。あの時はこれからのことで不安でいっぱいだったでしょうから、誰と会ったかなんて覚えていないでしょうね」
「はい、何だかあっという間にお葬式が終わってしまって・・・・」
「悲しんでる間もなかったってか・・・・。そうだろう。人間、ある程度以上の悲しさは心が受け入れないものだ。きっと、お父さんを亡くした悲しさが心に染み込んでいったのはもっとずっと後になってからなのだろうな・・・・・。本当に悲しい出来事だった・・・・、今でも昨日のようだ・・・」
「山崎さん」
「おお、そうだった。今日は悲しい話をするために久美さんに来てもらったのではなかったな。久美さん、このときの話はこれからいくらでもする機会はあるだろう。今日は取り敢えずこれからの久美さんのことについて話をしたいと思ってきて頂いたんだ。食事の用意ができている。一緒に食べながら話をしましょう」
山崎はそう言うと、久美と毎田を別の部屋に連れて行った。
その部屋は大きな和室で、三人分の用意がしてあった。
「私は普段和食ばかり食べているのでこういう料理になってしまったが、今日は若い人もいるので少しは若い人向けの料理も出すように言ってある。余り高校生を遅くまで引き留めるわけにも行かないが、妻の心づくしの料理だ、食べていって欲しい」
そう言うと女性が一皿ずつ料理を運んできた。
「あの・・・・、奥さんですか?」
久美が恐る恐る話しかけると、
「いや、妻は奥で料理をしている。今日はお客様なので何人か手伝いに来てもらっているんだ。後で落ち着いた頃に挨拶に来るだろう」
と山崎が言った。そして、三人での食事が始まった。
久美は自分でも不思議な位落ち着いていた。初めての人と知らない所で食事をしているのに嫌な気が全然しないのが不思議だった。次々と運ばれてくる料理は久美の知らない物ばかりだったが、とても美味しかったし、とても綺麗だった。そして、隅々まで心配りがされているのが良く分かった。
食事の間は山崎が久美に会社のオーナーとはどういう物なのか、分かり易く説明してくれた。一言で言うと、オーナーとは会社を個人で持っている人なのだ。そしてその会社が生み出す利益を受け取る権利がある代わりに、会社が損をしたら家や財産を売り払っても損を埋める責任がある。その為に会社の社長や役員に仕事の内容を命令することさえできる人なのだ。会社では社長が一番偉いと思っていた久美には驚きだった。
「そうだな。普通は株式会社で、オーナーは株を持っている何百人、何万人といて、社長に命令することができるのは年に一度の株主総会だけだから、一般的には社長が一番偉いというのに間違いはないがな」
山崎はそう言って補足してくれた。ただ、山崎の話は分かり易かったが、組にしてみれば学校の外で政治経済の補習を受けているようなもので、あまり楽しい食事ではなかった。それでも心が落ち着いているのは不思議で仕方なかった。
料理も最後の方になると山崎の妻が座敷に顔を出し、それから自然と話は事故の後の久美の話になっていった。山崎夫妻は久美姉弟が九州に引き取られてから東京に戻ってきたことや学校までも久美を見放したことに涙して話に聞き入った。久美はなるべく淡々と話をしたつもりだったが、山崎夫妻は苦労を偲んで優しい眼差しで目の前の高校一年の少女の話を受け止めてくれた。山崎も久美が会社でアルバイトしていたことを知らず、アルバイトを止めなくてはいけなくなったこと、受付のみんなや取引先の人までが優しく可愛がってくれたこと、そして奨学金を検討中であることなどをとても興味深く聞き入っていた。
ただ、さすがに幸一との間のことは伏せておいた。
「そうか、柳君のお嬢さんだからしっかりしているとは思ったが、想像以上の苦労の中を駆け抜けてきたんだな。普通のサラリーマンでもここまでできるやつはまずいないだろう。どうだ、毎田?」
「はい、私などは苦労を知りませんので、たぶん途中で自暴自棄になるか、楽な道に流れていったと思います」
「これは年齢の問題ではない。大人とは単に歳を取っただけで学ばない奴は五十になってもどうにも使えない。しかし、久美さんはこの若さで既に人の痛みを知っている。柳君の久美さんへの愛情が偲ばれるよ」
「本当にそうですね。あんな事故でなくなるなんて・・・」
山崎の妻がそう言った時、久美は思いきって聞いてみた。
「あの事故は故意に起こされたかも知れないって毎田さんが言ってましたが、そうなんですか?」
「・・・・私は・・・・そう思っている」
「そうなんですか・・・やっぱり・・・」
「久美さん、どう思う?やはりお父さんを事故に遭わせた奴を罰して欲しいかな?」
「はっきり言うと、そうです。お父さんを大好きでした。とても仲が良くて恋人みたいでした」
「そうだろうな、その年頃では」
「でも、それよりも、もっと大切なことがあります」
「なんなのか聞かせて貰えるかな?」
「お父さん、父がよく言っていました。『物事の本質を見極めろ』って」
「本質とは?」
山崎の目が一瞬光った。
「まだ事故かどうかはっきりしていないこと、仮に事故だとして、それを仕組んだ人が良い想いをしていることです。会社の人もそれを知らないことです」
「・・・・・・そうか・・・・・・・、そう言う見方だったな・・・・柳君はいつも・・・・・親子の血は争えないな・・・・・」
「父はよく言ってました。『行き詰まったら、もう一歩先に進んでから止まれ』って。『それが問題を解決するこつだ』って」
「それで良いのかね?もしかしたら・・・」
「辛いのは慣れてますから。それに、このままにしてもいつかきっと知りたくなりますから」
久美は力なく笑った。
「分かった。それではできる限りのことをして調べてみよう。毎田、分かったな?」
「はい、そうします」
「久美さん、今日は来てくれてありがとう。本当はもっともっと話をしたいんだが、学生さんを引き留められる時間ではないようだ。今日はこのくらいにしておこう。でも、良く来てくれたね。ありがとう。心からお礼を言う」
そう言うと山崎は深々と頭を下げた。
「それと、オーナーの話だが、このまま進めても良いのかな?」
「・・・・それはまだ良く分からなくて・・・」
「心配いらない。できればこちらからお願いしたい位だ。このお嬢さんになら会社を任せられる」
「あなた、本当に良かったですね。思い切って来ていただいて」
「うん、まるで柳君と話をしているみたいだ。彼はお嬢さんに知識よりも心を残してくれたんだな。久美さん、心配いらない。今後もできる限り会社のことについては私が援助させていただく。まだしばらくは息をしている楽しみができた」
「そうですよ。久美さん、これからはちょくちょく遊びに来て下さいな」
「ありがとうございます。良く分かりませんが、お願いします。私も父と話をしているみたいな気がしました」