第 9 部
実は、久美がここまで落ち込むのには訳があった。東京に戻ってきてすぐ、目の前が真っ暗で誰も助けてくれる人がいなかった頃、ふと気晴らしに寄ったレンタルビデオで100円だっただいぶ古い映画を借りたことがあった。それは高校生の姉と小学生の弟がけなげに二人で一生懸命暮らしているというもので、自分たちにそっくりだと思って借りたのだ。しかし、その映画を見た久美は気持ちが落ち込んでしまった。それは、姉は生活費を工面するために金持ちの青年の家に行き、一晩愛されて朝までに帰宅することで弟に内緒で生活費の援助を受けていたのだ。高校生がセーラー服を脱いでシャワーを浴びるシーンから始まるこの映画は、恐ろしいほど今の自分たちにそっくりだった。そして自分もそうなるのかと思うと、目の前の幸一が怖くて仕方ないのだった。
その日は幸一の話を聞いて足取りも重く家に帰った。
土曜日、久美は学校の帰りに幸一のマンションに向かった。弟には父の会社でのアルバイトが夜遅くなると言って夕食を作ってきてあるから、家に帰るわけにはいかず、駅のコインロッカーに高校の持ち物一式を入れて、ハンドバッグだけで向かっていた。
最寄りの駅に着くと、まず近くで買い物ができそうな場所を探した。そしてしばらく歩き回った後、近くの小さなスーパーを探し出し、幸一に渡されていたお金で買い物をしてマンションに向かった。最初なので時間にはだいぶ余裕を見てあった。
久美は改めて渡された地図を頼りに幸一のマンションを訪れた。入り口がオートロックになっているので、渡されたICチップ付きの鍵と暗証番号がないと入れない。入り口には管理人室もあったが、土曜日は勤務ではないのか、窓にはカーテンが下りていた。
エレベーターに入り、言われていた様に行き先階のボタンの下にある鍵マークに鍵をかざすと最上階の12階が点灯した。鍵の持ち主のフロアー以外は点灯しないそうだ。何か閉じ込められたような気分になり、他の階のボタンを押してみたが確かに点かない。やがてエレベーターが止まり、ドアが開くと久美はその階に二つしかない玄関の一つのドアに鍵をかざしてロックを解除した。
玄関に入ると驚いたことに玄関から続く廊下の横は小さな中庭になっていた。スクリーンを張ってある廊下にはかすかに日が差し込んでいる。靴を脱いで廊下を歩き、突き当たりのドアを開けてリビングに入る。そこは30畳以上はありそうなリビングで、趣味の良いソファセットにテーブル、そして大画面テレビが置いてあり、アイランド式のキッチンが綺麗に組み込まれていた。
エアコンが入っていると見えてとても過ごし易い。部屋の掃除を頼んであるからか、幸一が料理をしないからか、キッチン周りも綺麗に片付いていた。
久美は買い出ししてきた材料をアイランドに並べ、料理の準備に取り掛かる。しかし、勝手のわからないキッチンなので何を探し出すのにも時間がかかり、お湯を沸かし始めるのに20分近くかかった。豪華なコンロは電気のIHではないが、全てがボタン操作だけで設定するようになっており、収納されていたパネルを引き出して『湯沸かし』ボタンを押し、ガスが点火したときにはほっとした。しかし、いきなり
「右コンロ、湯沸かしを開始します」
としゃべったのでドキッとした。そしてガステーブルがしゃべるなんて少し気味が悪いと思った。
とにかく何もかも最初で、何を作って良いか全く分からなかったので、取り敢えず今日は久美の得意な肉じゃがを作る予定だ。それにインスタントの味噌汁とごはん、それにサラダを添えようと買い出ししてきた。ただ、肉は高級な牛肉だし、じゃがいもも丁寧に皮を剥いてあるので見栄えは良い筈だった。
久美にとって予想外だったのは慣れないキッチンでは猛烈に時間がかかるということだ。やっと米を探し出してご飯を炊き始めてしばらくすると、もう幸一が帰ってくる6時になっていた。
幸一は時間通りに帰ってきた。
「いい匂いだね。美味しそうだ。久美ちゃん、来てくれてありがとう。これ、今日の分のお礼だからね」
幸一はリビングに入ってくるなり封筒をテーブルの上に置いた。
「まず、仕舞っておいで」
幸一に言われてあわてて封筒を受け取り、リビングの入り口においてあったバッグの中に仕舞う。急いではいたが、薄い銀行の封筒の中に一万円札が数枚入っているのが透けて見えた。
「ごめんなさい。時間がかかってしまって、ご飯がまだなんです」
「良いよ。ご飯は後でも。あ、久美ちゃんが困るんだね。それじゃ、ご飯が炊けるまでテレビでも見ていようか。でも、まず着替えてくるからね」
幸一はそう言うと部屋を出て行き、しばらくするとラフなポロシャツ姿で戻ってきた。
「久美ちゃん、今日は何を食べさせてくれるの?」
「あの・・・肉じゃがです」
「おお、大好物だ。ラッキー」
幸一は大喜びで冷蔵庫からビールを出してダイニングテーブルに座り、久美が恐る恐るという感じで出してくる料理をニコニコしながら見ていた。
「すごくお腹が減ったよ」
「ねぇ、少しだけ、食べてもいい?」
「今日は、得意先とのゴルフですごく疲れたんだ」
幸一は次々と話をするが、久美は黙って支度を続けていた。そして、やっとご飯以外の皿が並んだとき、
「久美ちゃん、もし、良かったら、久美ちゃんのこと、今日のこととかを話してくれると嬉しいな」
「はい・・・でも・・・」
「無理にとは言わないけど、なるべく、お願い。久美ちゃんのことを良く知りたいんだ。ね?」
幸一はそう言って軽く頭を下げた。
「はい、分かりました」
そうは言ったが、なかなか久美の口は開かなかった。幸一は久美がよそってくれた肉じゃがを突きながらビールを飲み、やがてご飯が炊けると久美が食べるのを楽しそうに眺めながらさらにビールを飲んだ。味気ない一人暮らしに可憐な花が咲いたようで、幸一は心から満足だった。
「この肉じゃが、本当に美味しいね。コンビにとかとは全然違うんだもの」
「ありがとうございます」
「久美ちゃんもたくさん食べてね、って俺が言うのも変かな」
「いいえ・・・・」
久美はそう答えながら、幸一の食事を作るだけで済む筈が無いと緊張していた。
「そうそう、あと、これはお願いなんだけど、お風呂も沸かしておいてくれると嬉しいな。浴室のボタンを押すだけだから」
「はい」
久美はあわてて自分のカバンに戻り、手帳を出すと書き留めた。
「それと、制服のまま料理したんじゃ汚れちゃうね。後でお金を渡すから、ここで使うエプロンを買ってきてね」
「はい、でも、お金ならまだあります。来週の分を買っても余りますから」
「分かったよ。それじゃ、お願いね」
「はい」
「渡したお金が足りなくなったら教えてね」
「はい」
久美はそう答えたが、材料費として渡されたお金は2万円もあるのだ。一食や二食で無くなる筈が無い。
「それから、どんな料理でも作って良いからね。好き嫌いは一切無いから。それと、失敗しても大丈夫。全部食べるからね」
「はい。でも、何か好みを言って貰えると・・・」
「そうか。それじゃ、来週はとんかつが良いな」
「私、作ったこと無いから・・・・」
「それじゃ、挑戦してみてね。材料は小麦粉やパン粉なんか全部買ってこないとだめだよ。必要なら料理の本を買っても良いから」
「はい」
久美は大人しく返事をしたものの、自分で作れるかどうかまったく自信が無かった。
幸一は久美によそってもらったご飯をお代わりして大満足だったが、久美はかろうじて軽く一杯だけご飯を食べた。
「あー美味しかった」
幸一は満足して言った。
「久美ちゃん、本当に美味しかったよ」
「いいえ、良かったです」
まだ久美はこの環境に慣れていないのだ。仕方が無い。しかし、そっけない久美の態度を差し引いてもこの部屋に久美がいてくれるのは嬉しくて仕方なかった。
「それじゃ、お風呂に入ってくるからね」
幸一はそう言うと、部屋を出て行った。
久美は一人で後片付けをしながら、幸一が気を悪くしただろうか、と少し心配した。でも、今の自分にはこれ以上明るく振る舞うことなどできないのだから、どうしようもない。
後片付けを終えると、幸一に言われていたようにお酒の支度を始めた。と言っても、買ってきたチーズを切って皿に並べただけだ。
幸一はしばらくして戻ってくると、
「ありがとう。お酒の支度もできたんだね」
と全く気にしないでサイドボードのワインセラーからワインを取り出した。
幸一がワイングラスを取り出してテーブルに置いたとき、箸を置いてくれた久美とすれ違った。その時、今まで抑えていた欲望がたぎった。幸一はカッと血が上って久美を抱きしめた。久美は身体が硬直したように棒立ちになっている。
「ありがとう。来てくれて嬉しいよ。本当に。久美ちゃん、ありがとう」
久美の耳元でそう囁いて、細い項に軽くキスをした。
「いや、いや・・・離して・・・いや・・・・」
久美はそう言ったが、身体が硬直したように動かない。拒絶して幸一に嫌われたらと思うと何もできないのだ。
「久美ちゃん・・・」
「いや、お願いです。離して下さい」
幸一の腕の中で懇願する久美は小鳥のようだと思った。今の幸一は久美をどうにでもできる立場にある。それは明確に言葉で確認したことはないが、二人とも良く分かっていることだった。
「離して・・・・」
久美の絞り出すような声に、ようやく幸一は久美を解放した。
「ワインのコルク抜きを出さなきゃ」
幸一はそう言うと、キッチンにコルク抜きを取りに行き、
「お酒を飲むときはここでゆっくりするんだ」
と久美に言い聞かせるようにソファに座った。
「久美ちゃんもそっちに座って」
L字型に配置されたソファの一つに幸一が座り、久美にはもう一方に座るように言った。
しかし、久美はしばらく立ったままで座ろうとはしなかった。幸一は気にしないかのように座ったままテレビを点け、CSのニュースチャンネルを選択するとワインをグラスに注いだ。
幸一の座っているソファは二人用にしてはかなり大型で、3人用と言っても十分通る大きさだった。