未来(みく)は手元の答案をしっかり握りしめ、『やった!』

と一人で喜んでいた。これで上位5人の中に入ったと確信できた。

中学3年生ともなれば塾の実力テストの成績は自分の将来に直結

する。だから未来はどうしてもここでいい成績を取っておきたかっ

たのだ。今、手にした答案で5教科は全て還ってきた。

どうやら満足しても良いと安心して終業時のミーティングの時間

に張り出される順位一覧を楽しみにした。

塾の同じクラスの生徒たちはそれぞれ喜ぶもの、残念そうな顔を

するもの、何も表情に表さないもの、それぞれだ。未来の塾では

一学期に2回ずつ実力テストをする。その結果は壁に張り出され

るのだが、生徒それぞれの固有番号で順位が表示されるので、一

応プライバシーは守れるようになっている。

その日最後のミーティングの時間は塾の生徒の勉強方針を確認す

る時間だ。学校のホームルームと似ているが、勉強だけに目的が

特化しているのでよけいなことは話さない。

今日は担当の教師が一人ずつ、テストの結果をふまえてコンピュー

ターが分析した勉強方針を各自に伝えていた。

「つぎ、岡村均、数学の方程式全般と理科の生物系をやり直せ」

担当が遠慮無く弱いところを指摘していく。次が未来の番だった。

「次、加藤未来」

「はい」

応える声にも自然に力が入る。

「帰りに事務室に寄っていくように」

突然、オオーッと沸き上がるような声が部屋を満たした。これは

成績が良い生徒だけに与えられる言葉なのだ。それが本当はなん

なのか、ほとんど誰も知らないようだったが、その言葉を手にし

た生徒は数日すると塾から姿を消すようになる。そして、実力テ

ストの時だけ現れて他の生徒と一緒に答案用紙に向かう。

どれだけの成績を取っているのかは正確に分からなかったが、そ

の生徒たちの進学先が飛び抜けて素晴らしいことから、ゲームの

隠しコマンドになぞらえて『隠し塾』に入ったんだ、と言われて

いた。

「はい!」

思わず未来の言葉にうれしさが溢れ出してしまう。隠し塾には入

れる生徒は1年でわずか20人ほど。3年生はそのうちの10人

くらいだ。たいてい女子が多かったが、大抵の場合、女子の成績

は男子に引けを取らないどころか、高校入試くらいでは女子の方

が全体的に高いことも多いので誰も不思議に思わなかった。

「加藤さん、良かったね」

ミーティングの後、塾だけの友達が何人か声を掛けてくれる。中

には早々と、

「もう会えなくなっちゃうんだね。時々は顔見せてね」

と寂しそうに言う友達もいた。

確かに、まれではあるが隠し塾に入ったはずの生徒が普通のクラ

スに戻ってくることもあったし、時々ふっと数日だけ授業を受け

ていく生徒もいるのだ。

しかし、未来はせっかくの友達からの言葉などはどうでも良いと

言った感じで軽く受け流すと事務室に向かった。

「すみません、加藤未来です」

受付で声を掛けると、

「中に入ってください。近藤先生がお待ちです」

と言われた。未来は大好きな近藤が話をしてくれるらしいことに大

喜びで事務室に入ると、パーティションに区切られた相談室で近藤

に会った。

「ああ、加藤か。おめでとう。いい結果だったな」

「はい、ありがとうございます」

未来は弾けるような笑顔で応えると、ぺこりと頭を下げた。

「加藤はやればどんどん成績が上がっていくタイプだ。ここまで成

績が上がるのも予想より少し遅かったくらいだぞ」

「え?見ていてくださったんですか?」

「あぁ、去年の11月に入ってきた時からずっとな」

近藤は平気でそう答えた。近藤の目の前におかれたノートパソコン

には未来のこの塾での経歴がグラフ化されて全て入っているので、

何でも答えられる。

「ありがとうございました」

「ところで近藤、おまえは狙おうと思えば海王でも慶賀でも十分に

狙えるが、自分自身はどう思っているんだ?」

「ええ?そんな成績じゃありません。海王なんてトップでも取らな

いと・・」

未来は近藤が全国的に有名な私立の進学校の名前を口にしたので

びっくりした。

「お前の中学でのトップなんて大したことないさ。近藤ならでき

るさ。やる気さえあればな」

「ほ・・本当ですか?」

近藤の自信ありげな言葉に、未来は夢の扉が目の前に現れたよう

な気がした。

「何だ、驚いたりして。そんな気はなかったのか?」

「はい・・だって海王なんて」

「家は私立はダメだって言ってるのか?」

「いえ、そうじゃなくて、私の実力じゃまだ・・・」

「ま、確かに今はまだだ。でも、本人にやる気があれば十分狙え

るぞ」

「なんか、ちょっと信じられなくて・・・」

「いいか、おまえの強みは幅広く物事を理解していけるところだ。

だからきっかけを掴むと理解が早い。社会の平安時代から室町末

期まで、江戸後期から明治初期までの問題はほとんど完全と言っ

ていいし、数学の確率や国語の古典もほとんど間違えることがな

いだろう?」

「はい、興味があっていろいろ調べたりしたから」

「そうだ。きっかけがあればその周りを全部吸収できるのがおま

えの強みだ」

「はい」

近藤に指摘されて未来は確かにその通りだと思った。今言われた

ところはほとんど何の苦もなく解ける分野ばかりだ。

「しかし、弱点もある」

「はい、そうなんです・・・」

「英語の仮定法や長文問題、理科の反応式なんかは苦手みたいだ

な。特にケアレスミスが多い。前回のテストで正解しているのに

次のテストで間違ったりする」

「はい・・・」

確かに指摘された通りで、覚えたと思ってもすぐに何かのきっか

けで分からなくなってしまうことが多く、テストのかなりの時間

を本来正解できる問題に無駄に使ってしまうことがたびたびある。

そうなると未来自身も焦ってしまい、更に結果が悪くなってしま

うのだ。

「どうだ、弱点を克服し、強みを一気に伸ばしてみるか?」

「できますか?私に?」

「あぁ、できるとも。本人の意思次第だ」

「でも、これ以上勉強時間を延ばすのはもう無理だと思うんです」

「時間の問題じゃないさ」

「そうでしょうか?でも、どうしたら?」

「おまえも『隠し塾』のことは聞いたことがあるな?」

「はい」

「入ってみるか?」

「え?ええ・・・」

未来はどうして良いものか迷ってしまった。せっかく調子が上がっ

てきたのだ。訳の分からないところで勉強するよりも、このまま

しばらく上り調子で進み続けたかった。

「まず2週間通ってみないか?隠し塾と言っても別に特別な所じゃ

ない。『個人別能力開発コース』と言って、この塾の特別進学コー

スなんだ。可能性の高い生徒だけを入れて能力を最高に伸ばすこ

とを目的にしているんだ」

「でもぉ」

未来は迷っていた。確かに良い成績は取りたいが、特別に特訓の

ようなものをされると、ボロボロになってしまうような気がして

気が進まなかったのだ。

「大丈夫だ、安心しろ。訳を話してやろう。この塾としても優秀

な生徒にいい高校に進んで貰いたい。そうすれば塾も有名になる。

それは分かるな?」

「はい」

「でもな、そう言うコースを一般のどの生徒にも解放してしまう

と、あまり良い成績じゃない生徒でも入りたがるんだ。そうする

といろんな方法で『あの子にも個人別能力開発コースを受けさせ

てやって欲しい』ってお金持ちなんかが言ってくる。時にはお金

とか使って無理に受けさせようとするんだ。わかるか?」

「はぁ、なんとなく・・・」

「しかし、個人別能力開発コースで教えられる先生は限られてい

る。最高の教師だけしか教えられないからな。塾としては良い成

績を残してくれる生徒だけを教えたいんだ。だから一般の生徒に

は何も言ってないし、この塾のどこを探しても見つからない」

「・・・・」

「だから加藤も、例えこのコースに入らなくても、このことは絶

対に誰にも話してはいけない。いいな」

「はい・・・」

「誰かに話しても、塾の職員は全員そんなものは無いって言うぞ」

未来は、やけに秘密にしたがると思った。近藤の言うことが分か

らないわけではなかったが、どこかおかしいような気がした。そ

んなに秘密にしなければいけないのだろうか?

「そこで、一回だけ聞く。どうだ、行ってみる気はあるか?」

「あのう、もし行ってダメだったら戻ってきてもいいんですか?」

「ああ、それはかまわない。いつでも戻ってきて普通にクラスに

入ればいい。席もそのままになってる。とりあえず二週間通って

みて、ダメだと思ったら戻ればいい」

「それとお金は?」

「今までと全く同じだ。普通にここの事務の受付でいつも通りに

払えばいい。基本的に時間が少し違うが、お前の都合の良い時間

を予約できるから、たぶん今よりは楽になると思うぞ」

未来はちょっと不安だったが、いつでも戻れるなら良いだろうと

思った。なんと言っても海王という言葉が頭の中で大きく光り始

めていた。未来の町内ではおろか、学区の中でも海王に行ってい

る生徒はいないはずだったから、周りが自分をどう見るかは分か

り切っていたのだ。

町内を堂々と歩いて、周りの中学生から羨ましく見られる、そん

な生活がもうすぐ手にはいるかも知れない。

「はい、お願いします。やってみます」

「そうか、良く言ってくれた。それじゃあ、これをよく読んで、

来週の月曜からはそっちに出るように」

「はい、ありがとうございます。がんばります」

「それと、もう一つ。加藤はインターネットにアクセスできる携

帯を持ってるか?」

「え?いえ・・・・あの・・・学校では禁止だから・・」

未来は戸惑った。学校だけでなく、もともとこの塾でも携帯は禁

止なのだ。見つかれば塾に席のある間は保管されてしまう。

「あるなら良いが、無い場合はこちらで貸し出すことになってい

るんだが加藤は必要か?」

「いえ・・・・あります」

「それは良かった。個人別だから毎回時間を一人ずつ予約する必

要があるんだ。それには携帯を使うんだ。家のパソコンからでも

できるが、持ち歩ける携帯の方が便利だからな」

未来は帰りの電車の中で、渡された簡単な資料に目を通した。学

習内容の説明は特に変わったものは無かったが、iモード用のホー

ムページにアクセスして個人コードを打ち込み、時間を予約する

ようになっており、一番最初に未来に割り当てられたコードが印

刷してあった。

試しに未来は携帯を取りだしてアクセスしてみる。

しばらく受信が続くと、いきなりコードを打ち込む画面になった。

4桁のコードを打ち込むと、「加藤未来様」と名前が現れ、曜日

指定の画面がでてきた。試しに明後日を選んでみたが、『指定の

日に空き時間はありません』とメッセージが出て先に進めない。

しかし、来週の月曜日を選ぶと、4時半と6時の二つの時間が現

れた。4時半を選ぶと、『月曜日:4時半:予約完了。12日ま

で残りあと2回』とメッセージがでた。どうやら、4時半の予約

が完了し、今月の12日まではあと2回予約する権利があると言

うことらしい。

13日以降のことがどうなるのか分からなかったが、たぶんその

先はまた新しく予約できるようになるのだろうと思って携帯の予

定表にこの時間を書き込んだ。

月曜日の4時半少し前に未来は指定のマンションの近くに来た。

初めての場所なので迷わないようにと早めに来たのだ。まだだい

ぶ時間があるのでコンビニに入って時間をつぶすことにする。中

に入ってふと見ると、雑誌の売り場には同じような中学生が何人

もいた。未来が雑誌売り場に近づくと一斉に射るような目つきで

睨む。

未来は突然の異様な雰囲気に驚いたが、ほんの少しの間だったの

で雑誌を見て時間をつぶし、やがてマンションに向かった。その

後ろ姿を何人かの女子生徒が恨めしそうに見ていたことには気づ

かなかった。

マンションの指定の部屋は入り口がちょっと変わっており、イン

ターホンの所に電卓のような数字のキーが付いていた。未来は案

内書に書いてあったように自分のコードを打ち込む。

「はい、加藤さんですね。入ってください」

と男の声がしてカチッとロックの外れる音がした。恐る恐る入っ

てみると、中は普通のマンションのようだった。玄関を入ってす

ぐに廊下があり、その奥のリビングから男の教師が手招きをして

いた。

「加藤さんですね。担当の水野です。よろしく」

「はい、加藤未来です。よろしくお願いします」

「最初に説明しますから、こっちのイスに座ってください」

加藤はそう言うと、未来を勉強机に座らせた。

「ここは加藤さんの能力を最大限に引き出すために用意された場

所です。リラックスして貰うためにテレビもゲームもありますし、

冷蔵庫に入っているものは自由に食べてかまいません」

加藤はゆっくり話し始めた。やや広いリビングにはお互い離れた

位置に勉強机が二つと、両側に参考書のいっぱい詰まった本棚、

そして反対側には大画面テレビと応接セットがあった。応接セッ

トは勉強部屋には似つかわしくないほど大きく、3人くらい座っ

ても余裕のありそうなゆったりとしたロングソファと二人用のソ

ファだった。ソファの前のコーヒーテーブルには果物が置かれて

いる。

「ここで一番大切なことは時間厳守です。どんな場合にも時間を

守ること。延ばすことはできません。また、遅刻もダメです。1

0分以上遅刻すると他の生徒が代わりに入ってきます。その時に

使えなかった時間はもう他の時間に使えません。いいですね」

「はい、わかりました」

「それと、ここでは名字ではなく、名前で呼んでください。私は

康司です。良いですね。未来ちゃん」

「はい・・康司さん・・・で良いですか?」

「良いよ、未来ちゃん。それじゃ、始めようか」

「あの、何から始めれば?」

「未来ちゃんの好きな教科で良いよ」

「はい、それじゃ、英語から」

「未来ちゃんの時間に何をやるかは未来ちゃんが決めればいいか

らね。勉強したければ勉強の時間になるし、テレビを見たければ

それでも良いよ。とりあえずせっかく来たんだから何か勉強を始

めようか」

康司はそう言うと、未来に勉強を教え始めた。最初未来は、康司

がどれだけ教えられるのか、はっきり言って疑っていた。『何で

も良い』などと言われたので、大したことは教えられないだろう

と思っていたのだ。しかし期待は見事に裏切られた。康司は未来

の想像を遙かに超える巧みさで英語を教えることができた。まる

で未来が分からない点がどこかを見透かしているかのように未来

の能力ぎりぎりを見切っている。

「どう?書けた?」

「はい、できました」

「今書いた中でwouldの次には何を書いた?それは合ってる?」

「え?・・・あ、beが抜けてる」

「惜しかったね。動詞は過去形になってるのに」

康司はソファに座っており、未来の書いたものなど読んでいない

のだ。それで確実に未来が何を書くか見通している。未来は康司

の能力のすばらしさに驚いた。短時間の間に未来の能力を完全に

理解してしまったらしい。

単にそれだけではなく、康司は体系付けて教えてくれたので、未

来はあっという間に仮定法をマスターしてしまった。何時間もか

けて勉強してもしっくりこなくて、何度勉強し直したか分からな

い仮定法があっという間に覚えられたのだ。

1時間半の時間はあっという間に過ぎ、未来はもっと教えて欲し

くて仕方なかった。しかし、康司の時計がピピッと鳴ると、

「3分前だね。今日は良く勉強したね。お疲れさんでした。片づ

けて返ってください」

と言うと、康司は未来のそばを離れ、玄関で未来を待った。時間

には相当厳しいらしいと感じた未来は、慌てて片づけると、

「ありがとうございました」

と丁寧に頭を下げて部屋を出ようとした。

「あ、未来ちゃん」

「はい?」

「次も俺が教えて良い?」

「あ、はい、お願いします。本当に勉強になりました。ありがと

うございました。これからもよろしくお願いします」

未来はそう言うと部屋を出た。

そのままマンションを出た未来は、まっすぐに家に帰った。まだ

塾に寄る時間はあったのだが、個人コースを受けている間は基本

的に塾の授業を受けてはいけないと書いてあったので、家に帰っ

て復習することにした。

その晩、未来は更に驚いた。仮定法の出ている問題集をあっとい

う間に片づけてしまい、その日の予定が半分にもならないうちに

終わってしまったのだ。『凄い、本当に覚えてる。私、ちゃんと

覚えたんだわ』未来は自分の能力が急速に伸び始めていることを

実感した。