「それと、今日と明日だけはもっと言葉遣いを楽にしてくれない?」

「え?」

「なんか、あんまり旅行って雰囲気じゃないんだよなぁ」

「でも、研修だし・・・」

「無理にとは言わないけど、未来ちゃんだって肩凝るでしょ?」

「でも、勉強してるんだし・・・」

「そうか・・・ま、できるだけ楽にして欲しいんだ。それだけは覚えておいてね」

「はい」

「それじゃトンカツ食べに行こうか」

「うん」

康司は未来を連れて歌舞伎町の入り口にある有名なトンカツ屋に向かった。二人の板南口からは反対の位置になるので、かなり長い距離を歩くことになったのだが、天気も良かったので小田急側を回らずにルミネ2から直接マイシティ側へ抜けて行けたので、まだ人混みの中を歩く距離は短かった。小柄な未来は康司が歩くスピードを上げると、時々小走りにならないと追いつかないので、康司の後を付いていくのが大変だった。さすがに歌舞伎町の入り口から康司が中に入っていった時は足がすくんだが、店はその直ぐ先だったので安心した。

店は12時前とは言え、休日の昼時だったのでさすがに混んでいたが、運良くほとんど待たずに座ることができた。康司は名物のトンカツ茶漬け、未来は一口ヒレカツ定食を食べ、二人とも大満足だった。未来の口調も次第に砕けたものになり、だんだんと楽しい雰囲気になってきた。そして二人ともだいたい食べ終わった所で、突然康司が問題を出した。

「それじゃ、ここで問題です」

「え?あぁ、はい、いいです」

「この店の直ぐ横を通っている通りはなんて言うの?」

「え?新宿通・・・」

「それは何街道?」

「ええっ??えーと・・・・」

「降参する?」

その言葉に未来は敏感に反応した。ここで降参すると、今までの例ではたいてい後から良くないことが起こるのだ。箱根に行ってから何をされるか分からないと思ったので、急に真剣な顔で考え始めた。『新宿を通っていた街道ってあったっけ?ええと、街道が整備されたのは江戸時代で、有名な5街道は東海道と日光街道と中山道と・・・・その中で新宿を通っているのは?新宿?江戸のどこ?宿場町、だっけ??ここが?』

康司は腕時計を見ている。時間を計っているのだ。未来の頭は猛烈な勢いで回転し始めた。頭の中で膨大な知識があっという間に整理されていき、必要な情報だけが集められていく。康司が待ってくれるのはいつも最大で1分しかない。

「分かった?」

時計を見ていた康司が言った。時間になったのだ。

「はい、甲州街道です」

「正解、どうしてそう思ったの?」

康司は更に突っ込んで聞いてきた。

「それは・・・」

未来が答えに詰まると、康司は再び時計を見始めた。未来にはだいたい分かっていたのだが、細かい所までは覚えていなかった。通常出る試験の範囲を超えているからだ。

「それで、分かった?」

「はい、でもこれは普通試験には出ないよね?」

「そうだね、だから降参しても良いよ。降参する?」

「イヤ、答えてみる。江戸城を造った時に、攻められた時のことを考えて甲州街道だけは江戸城から一直線に造りました。馬で甲府に逃げるためです。だから甲州街道は5街道の中で一番短いんです。逃げるためだけの街道だから」

「大正解!大学入試並みのレベルだね。完璧だよ。良くできました」

「えへへ、よかった」

未来は康司にここまで褒められることは滅多にないので大得意になった。江戸時代の歴史を勉強した時に、どうして甲州街道だけ短いのだろうと思って調べたことがあったのだ。

「今日は未来ちゃん、調子良いみたいだね」

「そうかな?」

確かに今日の未来は調子が良かった。自分でもここまで覚えているとは意外だった。

「それじゃ、もう一つだけ」

食事の後のお茶を飲みながら、康司は更に質問を出した。

「ここは歌舞伎町って言うけど、歌舞伎が初めて盛んになったのはいつ?人形浄瑠璃という言葉を使って答えてごらん」

「それは・・・」

未来は当然答えられると思った。人形浄瑠璃と言えば江戸中期の代表文化だし、歌舞伎もそのころに発展したはずだと思ったのだ。

「えーと、江戸時代の文化文政の頃に人形浄瑠璃と一緒に発展しました」

「間違ってるよ、もう一度考えて」

「え?でも、どうして?」

「未来ちゃんには難しかったかな?」

「待って、考える」

「降参する?」

「イヤ!答える」

康司が時計を見始めたので、未来は慌てて考えをまとめ始めた。しかし、今度は最初の答えが間違っていたので上手く頭が回転しない。『えーと、文化文政の時代の文化は町人文化を特徴としていて・・・だから歌舞伎じゃないの。どうして違ってるの?歌舞伎は町人文化の代表なのに・・・えーと、歌舞伎が始まったのは・・・え?いつ?・・』今度は頭がつっかえつっかえにしか回っていかない。情報の整理ができないのだ。

「はい、答えて」

「わ・・・わかりま・・・せん・・・」

「降参する?」

「・・・・はい・・・」

未来はがっかりした。当然高校入試の範囲に入っているので、絶対に正解しなくてはいけない問題だった。

「歌舞伎が誕生したのは江戸初期で、徳川幕府と一緒に誕生したと言われている。そして元禄時代に元禄歌舞伎が演芸として最初の隆盛を極めた。しかし、このころの歌舞伎はまだ現在のものとはかなり違っていて、化政文化の頃人形浄瑠璃が盛んになった頃、人気を奪われて歌舞伎は低迷した、が正解だよ」

「だって・・・・」

「なあに?」

「歌舞伎は町人文化の代表なのに・・・」

「それじゃ、化政文化は何年から何年まで?」

「そ、それは・・・」

未来は江戸時代の文化は大まかにしか抑えていなかった。化政文化は江戸後期としか覚えていなかった。

「江戸後期です」

「何年から何年?」

「わかりません」

「降参?」

「はい・・・」

「1804年から1830年までだよ」

「はい」

「そう言えば分かるでしょ?化政文化は江戸のかなり後で、明治維新まで40年ほどしかないんだ。このころには歌舞伎はかなり熟成されていて、現在に近いものになっていたんだけど、人形浄瑠璃が流行ったのはもう少し前の時代なんだよ。年末になると流行る忠臣蔵は1701年の出来事で、それを元に人形浄瑠璃で仮名手本忠臣蔵が演じられたのが1748年、そしてそれを元にして歌舞伎で忠臣蔵が演じられたのも同じ年だけど、人形浄瑠璃の方が流行っていたから歌舞伎はそこからお手本を貰ったんだね」

「はい」

未来はがっかりしてほとんど康司の話が耳に入っていなかった。せっかく楽しい旅行になると思っていたのに、康司にウルトラ級の難問を出されて降参させられてしまった。最初の問題だって十分に難しかったのに、後の問題なんて答えられる生徒がいるとは思えなかった。

「未来ちゃん、がっかりしないで。引っかかりやすい問題だったから最初は間違えても無理無いよ。でも、化政文化の年代位は覚えて欲しかったな」

「はい、ごめんなさい」

「化政文化は何年から何年?」

「1804年から1830年です」

「良くできました。後でもう一回答えられたら降参したのは無しになるよ」

「はい」

康司は未来が一転して元気を無くしたのでちょっと困ってしまった。今日は未来を凹ますために出かけるのではないのだから。

「そろそろ時間だね、行こうか?」

「はい」

二人は予約してあるロマンスカーの時間が近づいたので小田急に向かって歩き出した。

「そうそう、新宿駅と東京駅の乗降客数はどっちが多いの?」

「確か、新宿です」

「どれ位多い?」

「わかりません」

「数字は覚えなくても良いよ。新宿は一日の乗降客数が450万人で日本一、東京はその半分の220万人だ」

「はい、覚えます」

話題が歴史から変わったので、未来は少し気分転換できた。12時を回っているので、駅は一番人での多い時間帯だ。未来は人混みを歩いていると、障害物競走をやっているような気がする時がある。背が低いので向こうを見渡せないから真っ直ぐ歩くことができず、ひたすら人を避けながら歩かなくては行けない。

それでも改札を通って2番線に並ぶと、いよいよ旅に出発するという気分になってきた。

「未来ちゃん、それではここで問題です」

また康司が未来に問いかけた。未来は今度答えられなかったらどうしよう、と思って緊張したが、ここまで歩いてくる間に康司に弱点を指摘されれば後で補強することができる、と前向きに考えるようになっていたので、何とか気分が落ち込むのは防いだ。

「いいかい、新宿から箱根湯本駅まで88.6Kmあります。それを『箱根』号は86分で走り抜けます。平均時速、列車では評定速度って言うんだけど、時速何キロですか?」

未来はホッとしたが、ちょっとイヤな気分になった。計算すれば必ず解ける問題だが、暗算は苦手なのだ。それに3桁を2桁で割って、分速から時速に直さなくてはいけない。

「2分で計算して」

未来はそう言われる前に既に計算を始めていた。幸い数字が似ているし、割る数字が少しだけ小さいので分速は簡単に求められるが、二桁の答えを出すためには3桁の計算をしておかなくてはいけない。これが面倒だった。

それでも2分経たずに未来は答えを出した。

「時速86キロです」

「大正解!未来ちゃん、計算速くなったね。解き方が分かっても、時間がかかって解けないことが多かったのに。偉いよ」

「でも、今度は喜ばないよーだ。きっと次は意地悪な問題を出すんだから」

「あのね、情報の取捨選択を間違わなければ歴史は解けるんだよ。おっと、そうだ」

「何?また歴史?」

「残念でした。『取捨選択』って書いてごらん。書きにくかったら別の読み方で感じを教えて」

「えーと、シュは取る。センタクは選ぶと手へんに尺、シャは・・・・えーと、あ、捨てる、だ」

「大正解!2問連続正解しました」

「3問目は?」

未来は楽しくなってきた。