「それじゃ、疲れるけど楽な問題と、楽だけど疲れる問題のどっちが良い?」

「何それ?でも、疲れるけど楽な問題がいい」

未来は何のことか分からずに適当に答えた。すると康司はニヤッと笑って、

「ほら、電車が入ってきたよ。この列車の定員は何人?」

「え?何のこと?」

「この列車には何人の乗客が乗れるの?」

「そんなこと、分かる訳・・・・あ!」

「そう、ほら、早く数えないと!間に合わなくなるよ!」

未来はダッと駈けだした。座席の数を数えろ、と言う問題なのだ。とにかく列車の端っこに向かって全力で走る。『もう、ウルトラクイズじゃないんだから!』とか思いながらも全力で先頭車まで行くと、1,2,3・・・と座席の列を数え始めた。4列配置なので、後でこの数に4を掛ければ座席数になる。最初は一つの車両だけ数えて、車両数を掛ければ答えが出るかと思ったが、よく見ると先頭車、中間車、中間先頭車、さらに車内販売のステーションとかがあって、それぞれに定員が微妙に違う。未来は慌てて数えながら端っこまで走り抜けた。『発車しちゃったらどうしよう』とそればかり気になっていたが、いきなり走って息を切らせた未来がまだ車内に入らない康司のところまで戻ってくると、

「それで、いくつ?」

と平気な顔で訊いている。

「それより早く乗らなきゃ」

「そうだね、そろそろ乗ろうか」

と悠々と乗っていく康司を見て、未来は全力で走って慌てて数えてきた自分がバカみたいだと思った。そのわけを未来は座席に着いてからホームの上に表示された電光表示板を見て理解した。発車までまだ15分近くある。12時30分の発車なのに、20分も前に入線していたのだ。それならゆっくり歩いて数えたって余裕で間に合うはずだった。

「何人だった?」

「588人」

「はい、大正解」

「ばっかみたい。慌ててホームを走ったりして」

「慌てろとも走れとも言わなかったよ」

「だって、発車しちゃったら大変だって思ったから」

「未来ちゃんが勝手にそう思っただけでしょ?発車時間はホームのあそこにデカデカと出てるし、未来ちゃんが持ってる切符にだって書いてあるよ」

「うーーー」

「うなって威嚇してもダメ」

「くやしいっ」

「ははははは」

「もう、康司さんたらっ」

「でも、3問連続正解だね」

「うん、ねぇ、もし私が楽だけど疲れる問題を選んでいたらどんな問題になったの?」

「『座席のメニューにある品物を全部一個ずつ買ったらいくらでしょう?』だよ」

「そんなの簡単だよ」

「本当?メニューを開いてごらん」

「ええっ、こんなにいっぱいあるの?」

「ほら、座ったままできる問題だけど、大変だろ?」

確かにメニューには細かいものまで入れるとかなりの数の品物が載っていた。これだけ足し算をするとなると、そろばんでもやっていない限り途中で計算ミスをするのは明らかだ。

「康司さん、これ、答えを知ってるの?」

「いいや、こっちの問題だったら俺も横で計算しなくちゃいけなかったんだ。だから、未来ちゃんが走ってくれて助かったよ。定員はパンフにも載ってるからね」

「もう、聞かなきゃ良かった」

「機嫌を直して、ほら、何か好きなものを買ってあげるから」

「子供じゃないんだから」

「そう?それならどうすればいいの?」

「次の問題は?」

「まだやるの?」

「先生が参ったって言うまで絶対正解してやる」

「そうか、それじゃあね、今日は芦ノ湖まで行くけど、芦ノ湖の気温がここよりも4.3℃低いとしたら、芦ノ湖はここより何メートル高いの?」

「今度は理科か、ええとね、ちょっと待って・・・・」

未来はそれからも一生懸命問題を解き続けた。それは未来にとって全力で解かなければいけない問題ばかりで、猛烈に疲れることだった。途中アイスクリームを買って貰ったが、アイスクリームの成分と量と比重からこれは水に浮くかどうかを食べ終わるまでに計算させる問題などは未来自身食べている時、全然味が分からなかった位だった。そして二人を乗せた「はこね号」が小田原に近づいた頃、未来の反応が鈍くなってきた。だんだん眼がとろんとして何度も瞬きをするようになる。

「未来ちゃん、箱根湯本に着く前に起こすから、少し目をつぶっていてごらん」

「やぁ、そんなことしたら寝ちゃう。まだ勉強するぅ」

「ダメ、疲れてるからエネルギーを補充しないと。目をつぶりなさい」

「いやぁ、最後まで勉強したいぃ」

「それじゃぁ、耳を澄ませてごらん。レールを百本通過するのにかかる時間から速度を計算しようか。目をつぶってないとレールを通過する音を聞き逃すよ。ここに時計を置いておくから、百本数えたら時間を見るんだよ。一本の長さは25mだから、後は計算できるね」

未来は目をつぶってレールの音を聞き逃すまいと数を数えているようだったが、康司の見たところ、50まで数えないうちに未来は寝てしまった。

そして未来が眠い目を擦りながら康司に起こされ、寝ぼけ眼で箱根湯本の駅に降りて登山電車に乗り換えたあと、素晴らしい景色に声を上げて、さらにケーブルカーに乗ろうとした時、

「未来ちゃん、この登りのケーブルカーって、途中で下りのケーブルカーとすれ違うけど、どうしてぶつからないの?」

と康司が質問してきた。

「ええと、駅みたいに線路を切り替えてるんでしょ?」

「いいや、誰も何にも切り替えてないのに絶対にぶつからないんだ。どうして?」

「運転手さんが・・・」

「運転手は乗ってません。ドアを開け閉めするためだけに運転手みたいな人は乗っているけどね」

「ええと・・・・」

「終点までに考えておいてね。俺は景色を楽しむから」

そう言うと康司は未来から離れて窓際に場所を取り、悠々と外を眺め始めた。未来は考えても分からなかったので、取り敢えずすれ違う場所を見てみようと最前列に移動して実際にすれ違うのを見ることにした。こういう時小柄な未来は得だ。ちょこちょこと人の間をすり抜けてあっという間にケーブルカーの最前列の窓を確保できる。

しかし、いくつかの駅を過ぎていよいよ下りのケーブルカーとすれ違う時になっても、どうして2台のケーブルカーがぶつからないのかは分からなかった。線路をジーッと見ていたが、確かに線路には普通の電車の駅のような行き先を切り替えるようなものは何もなく、単に線路が曲がっているだけだった。それなのに自分の乗っている電車が左に行くと同時に下ってきた電車は右に曲がり、何の不思議もないかのように自然にすれ違っていく。

結局最後まで未来にはぶつからない理由が分からなかった。それを康司に告げようとしたが、ケーブルカーを降りる時のどさくさで未来は言いそびれてしまったし、康司も同じと見えて未来には聞かなかった。

そして早雲山から新型ロープウェーに乗った未来は新型車両を見て、

「うわぁ、可愛い」

と大喜びだった。時々スキー場のCMなんかで見るロープウェーよりももっと丸っこくて鹿みたいな2本の角があって可愛らしい。全員着席制なので座っていればよいのだが、未来はガラス張りの素晴らしい景色に大はしゃぎだった。

ただ、残念なことに新型ロープウェーは次の駅までで、それからは普通のいかにもロープウェーという感じの旧型車両に乗り換えなくてはいけなかった。それに、一緒に同じ車両に乗り込んできたおばさん達が未来達をじろじろ眺めるので気分が悪かった。

終点の桃源台駅に着いた時、康司は、

「どうする?海賊船に乗ってみる?」

と聞いたのだが、未来は、

「ううん、いいや、乗らなくても」

と答えた。

「どうしたの?疲れた?」

「ううん、そうじゃないけど・・・・」

未来は何か疲れているみたいだった。時間はもう3時に近かったので、康司は宿に入ることにしてタクシーに乗った。二人の宿は芦の湖畔をしばらく走った小学校の裏にあり、少し小高い場所にあった。

未来は、箱根の温泉と言えばテレビで宣伝しているような大きなホテルのような場所だと思っていたのだが、実際に着いた場所は普通の旅館と言った感じのところで、見上げるような大きな建物と、ずーっと続く廊下を想像していた未来には、『え?これだけ?』と言うくらい小さな所に思えた。しかし、二人が案内された部屋は次の間付きで部屋が二つあって、奥の大きな部屋からは芦ノ湖が眼前に見渡せたし、仲居さんからは部屋専用の露天岩風呂があると聞いてもっと驚いた。そして、部屋の中央にある大きな座卓の他に、窓際には掘り炬燵になる場所があって、勉強するには最適の場所に思えた。

「うっわー、凄い素敵」

「気に入ってくれた?」

康司は荷物を置きながらにこにこ顔の未来を見て安心した。これなら良い雰囲気になりそうだと安心する。そうそうに勉強道具を取り出す未来を見ながら一服していた康司は、未来に自習するように言って自分は大浴場に向かうことにした。取り残されることになる未来は寂しそうに頷いたが、直ぐに戻ってくるからと言って階下の風呂に向かう。

大浴場と言っても、もともとゆったりとした造りの客室が僅か6室しかない高級旅館で、おまけにその内の4室は専用の露天風呂を持っている。だから大浴場も混み合うはずもなく、時間もまだ早いので風呂には誰もいない。康司はゆっくりと時間をかけて汗を流すことができた。これから未来にとって生涯忘れない儀式が始まるのだ。最高の思い出にできるように、できるだけのことはしてやらなくてはいけない。康司は気合いを入れるとお湯を一気に被った。

ゆったりと気持ちの良い湯に浸かりながら康司は未来のことを考えていた。これから数時間の間に起こることは未来が一生忘れることのない思い出になる。大切にしなければと思いながらも、既に十分すぎる時間を未来に費やしながら、未だに開発を終えていない事へのプレッシャーも痛いほど感じていた。この旅行から帰ると未来は今までと大きく違った環境で勉強しなくてはいけない。透き通った湯を身体に浴びながら、康司には未来の笑顔ばかりが見えていた。

やがて浴衣に着替えた康司が戻ってくると、未来は立て続けに分からない所を聞いてきた。確かに未来の苦手な部分ばかりだったが、未来は少し甘えるような感じだったので、隣に座った未来を軽く引き寄せる。

「・・い・・や・・・」

未来は少し横を向いて嫌がったようだったが、それはどちらかというと戸惑っているという感じで、拒絶しているというのとは違う。そのまま康司は未来を自分の膝の上に引き寄せて横抱きすると、左手で小さな首を支えながらうなじを愛撫し、右手で可愛らしい胸の膨らみを撫で始めた。

「だめ、もっと勉強するの」

「分からない所は教えたでしょ。もうだいぶ勉強したよ」

「もっとする」

「11時に未来ちゃんに会ってからずっと勉強してるでしょ。もう4時だから5時間も勉強してるんだよ」

「もう5時間も勉強したの?」

「そうだよ」

「そうか・・・あと3時間しかないんだ・・・・」

未来は最初この旅行を話を聞いた時、8時間教えてもらえると聞いて大喜びしたのに、あっという間に5時間経ったことに驚いて、少しがっかりした。今では今回の旅行は未来にとって大切な時間だった。未来の心の中ではまるで宝石のように大切なキラキラ光るものだった。今日、家を出る時までは憂鬱で仕方がなかったのに、今はこの空間が未来を虜にしている。誰がなんと言おうと、今は二人だけの時間なのだから。