第十部
その翌日、約束した日に亮子が康司の部屋に来たとき、康司の部屋は前に亮子が来たときとはうって変わって散らかっていた。写真の雑誌、地図、訳の分からない書き殴りのメモ、康司が撮ったと思われる写真、そんなもの達が部屋中に散らかっていた。亮子は、朝から一生懸命作ったクリームチーズケーキの小さな箱を持ったまま立ち尽くした。
「どうしたの?こんなに散らかして」
「あ、今までやってたから」
「康司さんて、何かやるときはこんなに散らかすの?」
「違うよ。いつもはもっときれいにしてるさ。でも、今回はとにかく時間がないから」
「時間て撮影の?二日もあるのに」
「撮影の時間もそうだけど、準備の時間だよ。あと二日で出発なんだから」
「何の準備?写真を見てたの?今までの?」
何も分からずに尋ねる亮子を見て、康司は呆れてしまった。
「写真のこと、少しは勉強したって言ったじゃない。それなら、プランを作ってることぐらい分かると思うけどなぁ」
「あ、そうか。カメラマンの人って撮影に行く前に計画を作るんだったっけ」
「そうだよ。向こうに行ってから考えると時間がもったいないから、行く前にどんな写真をどうやって撮るか決めておいて、それに合わせて機材を揃えたりするんだ」
康司は、散らかったメモを集めながら亮子に言った。
「康司さん、おやつ、作ってきたんだけど・・・」
「ごめん、もう少ししたら一緒に食べよう。その前に手伝って欲しいことがあるんだ。さっきからアキちゃんが来るのを待ってたんだ」
「それで、私は何をすればいいの?」
亮子はがっかりして机の上にケーキの箱を置くと、康司にあまり気乗りしない感じでそう言った。
「あそこにタンスがあるから着替えを適当に出してバッグに詰めてよ」
「私がするの!!!!そう言うことって自分でするんじゃないの?高校生なんだから」
「確かにもうすぐ卒業だけど、今は頭をそっちに取られたくないんだ。終わったら言ってよ。カメラテストをするから」
康司は相変わらずメモを見ながら、ノートに何かを書き込みながら亮子に言った。
「今、一番難しいところなんだ。イヤかも知れないけど手伝ってよ。海外旅行経験者の方が絶対効率よくできると思って、そのままにしてたんだ」
「海外旅行って言っても、2泊するだけよ。国内の旅行と変わらないわよ。お土産をたくさん買うわけじゃなし。こう言うとこだけは人を頼りにするんだから。何にも特別な事なんて無いのに」
「それさえこっちには分からないんだから。お願い!」
康司はそう言うとメモの中から何かを見つけ、あわててどこかに電話をかけると、
「すいません、安田ですけど、店長さん、・・・・・はい、安田です。あの、53mmのマゼンダの2番、あります?はい、ミノルタです。そうですか、良かった。明日、伺うときに買いますので取っておいて下さい。お願いします」
康司は安心して電話を切ると、まだメモに夢中になった。亮子はしばらく見ていたが、とても話ができる状態ではないと諦め、仕方なく言われたとおりにタンスから康司の着替えを出し始めた。タンスの中は意外に片付いており、着替えを揃えるのは簡単だった。さすがに下着のところでは気後れしたが、これ以上康司に言っても無駄だと分かっていたので、目をつぶってエイッと適当に揃えた。
「終わったよ。ここに揃えてあるから」
「サンキュー。じゃ、窓際で腕とお腹を出して。そっちの日の当たってる方で、太陽の光に向かって」
「何よ、いきなり。何で窓際で・・、人に見られたら!」
「肌の色を今のうちに確認しておかないと、必要なカラーフィルターが足りなくなるかも知れないんだ。一応以前の写真の中でアキちゃんの写ってるやつを使ってあてを付けてあるけど、向こうは光が強いから、もしかしたら予想と違うかも知れないんだ。すぐに終わるから。ほんの数秒でいいんだ」
康司の勢いに押された亮子は、すごすごと窓際に行くと、カメラを構える康司の前で恥ずかしそうに、と言うよりイヤイヤ腕とお腹を見せた。水着でなんて言わなきゃよかった、と少しだけ後悔した。
「ほうら、心配したとおりだ。アキちゃんは肌が透き通ってるんだ」
康司はカメラをのぞきながらスイッチをいじってそう言った。Tシャツを捲り上げている亮子はそんなことどうでも良いから早く終わって欲しかったが、ふと康司が誉めているのではなく、心配そうな口調で言っているのが気になって聞いてみた。
「それって、良くないことなの?日焼けするから?私、あんまり焼けないわよ。日焼け止めもしっかり持っていくし」
「違うよ。肌が透き通ってるってことは、肌の色だけじゃなくて中の血管とかの色も見えるってこと。だから、光が当たると肌の外側の色より赤っぽく見えるんだよ。やっぱり確認して良かった。フィルターの番手を変えなきゃ。それと、腕も肘だけじゃなくて内側も見せて。献血するみたいに、そう、やっぱりそうだ。決まり!ありがと。もういいよ。あ、ごめん、恥ずかしかった?」
「何よ今さら!大丈夫です。お腹なら大会の時に写真も撮ってもらいましたから」
「あの写真が元になってるんだけど、やっぱりちゃんと光に当てないとダメだね。今のうちに分かって良かったよ。それじゃ、アキちゃんの作ってきてくれたおやつを食べよう。なに?ケーキ?」
二人はそれからやっと亮子の作ってきたケーキを食べた。康司は美味しいと言ってパクパク食べてくれたが、どうも亮子の想像したのと雰囲気が違っていた。どちらかというと康司の部屋に来たというより、写真スタジオに差し入れを持って尋ねてきたみたいで、すぐにもどこからか『ハーイ。それでは再開しますから準備してくださーい』と言う声がかかってきそうで、どうもゆっくり落ち着いて食べるという雰囲気ではない。美味しいと食べている康司も、実際はあわてて詰め込んでいるという方が近かった。『このケーキ、美味しいね。ちょっと酸っぱいけど。ケーキ作るの上手だね。よく作るの?』『ウウン、久しぶりなの。だって、今まではそんな気にならなかったから』なんて言う会話を想像していた亮子にはがっかりだった。『せっかくこんなに上手にできたのに。ちょっとレモン汁を入れすぎたけど。3時間もかかったんだから』亮子は頭の中でそんなことをブツブツ言いながら一生懸命作った大切なケーキが康司の口にどんどん飛び込んでいくのを眺めていた。
やっと食べ終わった頃、康司に店の開店直前の親から電話がかかってきた。康司は電話を切ると、一気に沈んだ声で辛そうに言った。
「ごめん。これから店まで行かなくちゃいけなくなったよ。ごめん。お得意さんからもらった塩辛が冷蔵庫に入ってるから、すぐに届けてくれって言うんだ。やっと面倒なところが終わって、アキちゃんと話ができると思ったのに・・・・。本当にごめん。すぐに出ないと間に合わないんだ」
「そう、わかった。私の方もわがままだったみたい。康司さんが忙しいのに、ちょっとわがままを聞いて欲しくて、楽しみにして来ちゃった。仕方ないね。途中まで一緒に行っても良い?」
「もちろんだよ。ごめんね」
亮子の声の調子から、康司はどれだけ亮子ががっかりしているか、良く分かった。康司にしても、これから亮子とデートに出かけられると楽しみにしていたし、無理に元気を出して話している声の様子から亮子の気持ちは良く分かった。康司は何度も亮子に謝った。それでも、亮子の家と康司の両親の店は途中まで同じ方向なので、二人は駅まで歩きながら少しは話をすることができた。しかし、なかなか話が弾まず、駅で反対方向になる亮子と別れた時、宏一は亮子ががっかりしているのと怒っているのが半々なのだろうと思い、夜に戻ったら一番に電話することにした。
その日の夜、康司が電話をすると1回のコールで亮子が出た。その日、珍しく亮子は真剣な声で、康司に話しかけてきた。
「あのね、康司さん、私は今の高校2年になるまでキスしたこと無かったの。今まで好きになった人はいたわよ。でもね、そう言う人とはキスなんてしない。友達を見ていると思うんだけど、単に好きになってしばらくしてイヤになって別れてって、近づいては離れてって言うのを繰り返してるじゃない?そう言う、単に自分の前を通り過ぎていくだけの人とは手も握りたくないの。そう言うのは『好き』でも康司さんのとは何か違うの。私の中ではそう言う人と康司さんとは別なの。だから、康司さんがワンダーゾーンで手を握ってもいい?って聞いてきたとき、本当はちょっとびっくりしたけど、もしかしたらって思って、ちょっと怖かったけどOKしたの。そしたらね、何か暖かくて安心して、とっても嬉しかった」
「そうだったんだ。あの時の笑顔、撮っておけなくて残念なんだ、今でも」
康司の頭の中にはあのときのはじけるような亮子の笑顔がはっきりとよみがえってきた。
「そして、この前家に帰ってきて、康司さんと夜、電話で話して気が付いたら、ほら、公園では一秒か二秒だったでしょ?何か、もっとしっかり自分の中に残しておきたくて。何か巧く言えないな。私の言いたいこと、分かる?」
「うん、はっきりじゃないけどだいたい分かる」
「ちょっとわがまま言って、甘えたかったのかも知れない。だから、気にしないで。康司さんの気持ちを疑ってる訳じゃないの」
「今日はちょっとドタバタしてたから、ゆっくり話できなくて、ごめん」
「ううん、いいの。そうやって、ちゃんと謝ってくれるところ、好き。大人っぽくて」
「え?ありがと・・・照れるな・・・」
「そう言うところは可愛いわね」
「はいはい、分かりました」
「ごめんなさい。明日、会えるわよね?」
「うん、遅れないでね」
「わかってる」
「他に何か聞きたいこと、ある?旅行が始まったら機材とかはもう変えられないから、何か希望があるんなら今のうちに言って欲しいんだけど」
「う〜ん、そうねぇ・・・。希望じゃないんだけど・・・」
「なあに?」
「デジカメとかは持っていかないの?」
「デジカメ?」
「ほら、何百万画素とかって宣伝してるじゃない。康司さんはデジカメは持っていないもんね」
「デジカメの写真が欲しいの?」
「そう言うわけじゃないんだけど、もしかしたらそう言うのもあった方が良いななぁって想ったから」
「デジカメは持っていかないよ。でも、欲しければ後で作ってあげるから」
「そんなことできるの?」
「もちろん、簡単だよ。アキちゃん、デジカメは確かに何百万画素って宣伝してるけど、写真のフィルムは画素数で言えば一千万画素以上なんだ。普通の写真の方がずっと細かいんだよ」
「そうなの?」
「それに、階調数って言って、デジカメだと一つのがその色の強さを12ビットでしか表現できないんだけど、フィルムは16ビット以上なんだ。ずっと微妙な違いを表現できるんだ。だから最初にフィルムで撮影しておけば、後からデジカメの写真に変換するのは簡単なんだ。画質は落ちるけどね」
「そうだったんだ」
「だから心配しなくて良いよ。言い写真が撮れれば、その後は何とでもできるから。最初に良い写真を撮るのが一番大切なんだ」
「分かった。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」
「ううん、そんなの謝る事じゃないよ。気にしてたんなら今のうちに言っておいて良かったよ」
「聞いてみて良かった。ありがとう」
「それじゃ、明日だね」
「うん、お休みなさい」
二人はいよいよ出発が近くなってきたことを実感し、お互いが相手を大切に思っていることが分かって安心できた。あと三回寝たら、出発だ。
結局その翌日はドタバタして撮影機材の確認ができずに過ぎてしまった。だからそのまた翌日、つまり出発の前日になって亮子と会ったとき、康司はレンタルした機材を受け取りに行きたかったし、亮子は旅行で使う日用品の買い出しの必要があり、結局そのまま別れてお互いのことをしないと間に合わないと言うことになった。亮子はお互いに合っても二人の時間が取れないことに少しイライラしていたし、康司は撮影の準備がギリギリなので焦っていた。夜、電話で結果の報告をし合ったが、二人とも自分の荷物の整理でドタバタしていてゆっくり話しもできなかった。それでも、必要なものの確認だけはしっかりとやって、待ち合わせに遅れないように念を押してから電話を切った。お互い、相手を心から求めていたが、その気持ちは募っていくばかりで当日を迎えることになった。
当日の朝、二人は品川駅で待ち合わせた。康司は重い機材を担いでいたので、もし遅れると大変だと思い、早起きをして家を出てきた。だから、駅に着いたのはまだ7時前だった。さすがにこの時間だと人通りも少ない。朝食を抜いてきたのでパンを買いたかったが、まだ駅のキオスクは開いていなかった。
結局、昌代を抱いた日は機材の確認ができずに過ぎてしまった。だから出発の前日になって亮子と会ったとき、康司は機材を受け取りに行きたかったし、亮子は旅行で使う日用品の買い出しの必要があり、結局そのまま別れてお互いのことをしないと間に合わないと言うことになった。夜、電話で結果の報告をし合ったが、二人ともドタバタしていてゆっくり話しもできなかった。それでも、必要なものの確認だけはしっかりとやって、待ち合わせに遅れないように念を押してから電話を切った。
7時を5分過ぎた頃、亮子が現れた。
「遅れてごめんなさい、さ、行きましょう」
亮子は大きめだがダッフルバッグ一つの軽装だ。しかし、細身の身体の亮子が持っていると、荷物の方が大きく見える。しかし、言われなければこれから海外旅行に行くとは誰も思わないだろう。
「康司さん、これ全部カメラ関係なの?凄いわね」
康司の荷物はディバッグ一つで、それ以外に大きなアルミ製のカメラケースを二つ抱えていた。
「こんなに凄いなんて、緊張しちゃうわ」
「大丈夫。カメラケースなんて隙間ばっかりさ」
そう言いながらも康司はかなり重そうにケースを担ぎ上げ、亮子の後からノロノロと歩き始めた。私鉄から山手線に乗り換え、東京駅まで出てから成田エクスプレスに乗り換える。指定席を見つけて荷物を降ろすと康司はやっと落ち着いたようで、
「一度こんな特急に乗ってみたかったんだ」
「こんな?でも普通の特急でしょ?」
「成田エクスプレスって海外旅行に行く人専用、みたいなイメージあるじゃない」
「そう言えば、成田空港に行く用事がないと乗らないもんね」
「そう言うこと。あ、お腹空いてきたな。朝食、まだなんだ」
「じゃあ、パンでも買おうか。お昼は飛行機の中だからきっと大したものは出ないし、エネルギーを蓄えないとね」
そう言うと、車内販売でパンとコーヒーを買い、二人で食べた。二人ともお腹がふくれると、やっと気持ちが落ち着いてきた。
「いよいよなのね」
「うん。何か撮影旅行に行くなんて信じられないよ」
「そう、本当にこんな日が来るなんて」
亮子は自分たちの指定席の券をじっと見つめながらそう言った。
「アキちゃん」「康司さん」
二人は同時に名前を呼んだ。
「え、なに?アキちゃん?」
「あ、あのね、向こうに着いたら・・・甘えてもいい?」
「うん、いいよ。アキちゃんのおかげで行けるんだから」
康司は少し亮子の言葉の意味が分からずに、あいまいな答えをした。
「違うの。康司さんがいるから行けるの。私は単に準備をしただけ」
「それがすごいと思うけどなぁ」
「で、康司さんは何なの?」
「向こうに着いたら・・・」
亮子は康司の言葉をじっと待った。
「言葉が分からないからいろいろ迷惑をかけるかも知れないけど、でも撮影だけはしっかりやるから・・・・」
亮子は『楽しい想い出を作ろうね』とでも言ってくれるかと期待した。
「その他のことはいろいろ協力してね。スケジュールが結構厳しいから」
「なあに、それ?私に通訳件雑用を頼んでるの?ハイハイ、やりますよ」
亮子はそう言うとプッとふくれてしまった。康司は、『言い方が不味かったかなぁ』と思っていたが、言い方の問題ではないと言うことには全く気が付いていなかった。それでも列車が空港第2ターミナルに到着すると、康司は大きな荷物を抱えながらも亮子の荷物を持とうと気を遣ってくれたし、ここは初めてのくせに案内板を食い入るように眺めて亮子に道を教えようとした。そんな康司の気持ちが嬉しくて、出発ロビーに付いた頃には亮子の機嫌は最高、とまでは行かなかったが、かなり良くなっていた。
「うわぁ凄い、こんな大きくて広いところ、初めてだよ」
せいぜい大きな体育館、くらいの建物を想像していた康司は天井を見上げて目を丸くしている。
「私が荷物、少し持とうか?」
「嬉しいな。それじゃ、これお願い」
康司は自分のディバッグを亮子に渡した。
「これじゃなくて、そっちの方を持つ!」
亮子はカメラケースを指差したが、康司が、
「これは無理だよ。モデルの体が不調になったら大変だから」
と言って渡さない。それでも亮子が強情を張るので、仕方なく試しに亮子が持ち上げてみたが、確かにずっしり重かった。結局亮子はディバッグを持った。
「それじゃ、チェックインしようか」
「うん、どうするの?」
康司は飛行機に乗ったことなど無かったので、亮子がツアコン見たいなものだった。
「確か、旅行会社のカウンターを探すんだったよね」
「あ、そうなんだけど、昨日言うの忘れたわね。私が電話して、直接私達がチェックインすることにしたの。旅行会社の人は家族で旅行するときには何度も会って顔を知ってるから、会いたくなかったし。だから、昨日、買い物に行ったついでに航空券を受け取ってきたの」
「そう?そんなことしていいの?」
「うん、いいって。さ、行きましょう」
亮子は警備員が入り口にロープを張って立っている制限区域に向かって歩いていく。康司は、いつ怒られるのではないかとビクビクしていたので、亮子がエックス線の機械に荷物を入れてさっさと入ると、中から、
「康司さん、早く入ってきて。カウンターはこっちよ」
とせかすまで康司はウロウロしていた。
それでも康司もカメラバッグを係員に渡して中に入り、亮子と受付カウンターに並ぶ。カウンターは空いていたのですぐに順番がきた。亮子が二人分のパスポートと航空券を渡すと、何やらカウンターの人と話し始めた。康司は標準ズーム付きのカメラを取り出すとカウンターの亮子に向けてシャッターを切る。カシャ、カシャ、カシャ、小気味よい音がすると亮子がファインダーの中で振り向いた。
「康司さん、こっちに来て」
話が終わったらしく亮子が呼ぶので康司がカウンターに行くと、係員が一気に話し始めた。
「本日はご利用いただき、誠にありがとうございます。ご予約いただきましたチケットはエコノミークラスですが、東空トラベルさんよりアップグレードチケットが出てておりますのでビジネスクラスにアップグレードさせていただきます。こちらが搭乗券で、こちらはラウンジの利用券になります。お荷物はこのカメラケース二つでしょうか」
「は、はい、その他に彼女の持っているディバッグ・・・」
恐る恐る康司がそう言ったが、係員はそんなことには一切かまわず、
「それではこの二つをグァムまでお預かりいたします。こちらがクレイムタグになりますのでチケットホルダーに貼らせていただきます。もし、到着地で荷物を受け取る際に何かありましたら係員にこのタグをお見せ下さい。ラウンジは出国検査を通りまして左側、シャトルの乗り場の手前左にございます。本日は日本航空をご利用いただき、誠にありがとうございました」
係員はそこまで言うと、丁寧に頭を下げた。康司にしてみれば、係員に一気に喋りまくられ、おまけに知らない言葉ばかりが出てきて何のことか分からないままにカウンターから放り出された感じだった。しかし、亮子はニコニコ顔で康司の腕を取り、
「さ、まだ出発まで2時間半もあるわよ。少し歩きましょう」
と言うと、制限区域を出てショッピングモールの方に歩き始めた。荷物を預けたので二人とも小さな荷物だけになり身軽だ。
「ねぇ、アップグレードとかって何のこと?ジャンボの二階席に行くってこと?」
「え?ああ、ビジネスクラスにしてくれたってこと」
「でも、仕事じゃないよ」
「要するにグリーン席みたいなものよ。父の会社が使ってる旅行会社が気を遣っていい席に変えてくれたみたい」
「へぇ、グリーン席ね。高そうだね」
「知らない。でも、只でいい席にしてくれるって言うんだから」
「そうだね。ラッキーってとこかな?」
「康司さん、何かスナックでも買っていく?飛行機の食事って少ないわよ」
「そりゃ大変!コンビニでも寄っていこうか?」
「成田にそんなものある訳ないじゃない。えーと、食料品を売っているのは・・・、??あ、あれ?ローソンがある。ウソ??」
ショッピングモールの案内表示を見ていた亮子は、驚きながらも康司をコンビニへ連れていった。康司も、こんな所にコンビニがあるとは思っていなかったらしく、不思議そうに見回していたが、店内は普通のローソンそのものだ。康司はおにぎりとバナナロールを買い、亮子は二人分のお茶とムースを買った。二人にはこう言うところの方がよっぽど落ち着く。
二人は近くの屋外の見学デッキに出ると、飛行機を見ながらのんびりとそれを食べた。外はエアコンがないので意外に出ている人は少なく、ほとんど人影は見えない。ふたりは並んであちこち眺めながらフェンス越しに飛行機を眺めていた。康司は食べながらも、時々亮子に向けてシャッターを切った。亮子は、
「いやぁ、食べてるとこまで撮さないで」
と自然な笑顔でフィルムに収まる。すると、康司は突然、
「あ!あの飛行機!」
「え?なに?どこ?」
康司が指差す方向の飛行機を亮子が探している一瞬の隙をついて、亮子の手のバナナロールに康司がパク付いた。
「アーッ!私の食べたー!」
「ちょっと一口、美味しいね」
「康司さん、卑怯な手を使うんだ。そう言うことすると・・・」
康司は亮子がどう出てくるかと身構えた。
「康司さん、口にクリーム付いてる。ちょっと目をつぶって」
「え?クリーム??」
「早く、私が康司さんの言う方向を見たんだから、康司さんも言われた通り目をつぶるの」
康司は仕方なく目をつぶった。『残りのバナナロールをぐちゃっと口の中に押し込まれたらどうしよう、いや、顔に押しつけられたら・・・』そんなことを康司は思ったが、康司の唇には全然違うものが振れてきた。
「!!!!」
康司がびっくりするのが亮子の唇にも伝わってきた。そのまま数秒、じっと立ち尽くす。
「アキちゃんて、いつも驚かすんだから」
唇を離すと、康司は亮子の耳元で小さな声でささやいた。
「じゃあ、次はおどろかせないで、ね?」
そう言うと、亮子はゆっくり康司の方を向いて再び目をつぶった。
康司がゆっくりキスをすると、亮子の目に少しだけ涙が浮かんだ。その涙を見たとき、康司は亮子が康司に甘えたいと言った意味が少し分かったような気がした。腕の中の亮子は不安で仕方ないようで、康司に支えて欲しがっている気がした。
唇を離すと、康司は、
「不安なの?」
と聞いた。亮子はニッコリ笑って、
「うん、少し・・だいぶ・・かな」
「いつもアキちゃんにしてもらってばっかりだね。ごめん」
「ううん、いいの、それは。でも、私が相談したときは話を聞いてね」
「わかった。・・・・アキちゃん、いい旅行になるといいね」
「うん、絶対そうしようね」
亮子は康司の胸に抱かれたまま、『やっとこれで旅に出られる』と思っていた。
ちょっとの間、二人はそうしていたが、康司はゆっくりと亮子を離すと、
「こんなにたくさんの飛行機は初めて見たよ。アキちゃんは良く来るの?」と聞いてきた。
「それ程でもない。今までに5回くらいかな」
「5回も!慣れてるはずだ。そう言えば、ラウンジとか言っていたのは何?どっかに応接セットでもあるの?ラウンジって応接室のことだったと思うんだけど?確か、英語のテキストでは・・?」
「よくわかんない。そんなもんかな。確かにソファとかあるし。行ってみる?」
「そうしよう。面白そうだし」
「そうね。まだ時間はたっぷりあるものね」
二人は近くの店の人にラウンジのチケットを見せて、場所を教えて欲しいと聞いたが、その店員は分からないのでロビーで聞いて欲しいと言う。仕方なくロビーに降りて、通りがかった空港係員に聞くと、チケットカウンターの係員の言ったとおり、出国検査を済ませてシャトル乗り場の左にあるという。