第104部

 「マァちゃんは『康司さん』なの?」

「そうよ、男の人はね。うふふっ」

昌代はうれしそうに康司の腕に抱きつくと、頬をすりすりしてきた。康司には昌代の態度が理解できなかったが、実は昌代は安心したのだ。康司が亮子に取られることは無い、と思った。言ってみれば女の感だが、確信に近いものがあった。康司は亮子と一緒に過ごしたし亮子の役にも立ったので舞い上がっているようだが、言ってみれば亮子と康司の関係は亮子が全てを仕切っていると言えた。そして亮子は写真を売り込むために康司を一度は捨てた。そして都合が悪くなったので康司を復活させて仕事をさせただけなのだ。用事が終わればまた捨てられる可能性が高そうだ、そんな気がするのだ。確かに亮子は可愛いから言い寄られれば康司など一発だろう。しかし、亮子自身に長続きさせる気が無ければすぐにでも康司は昌代の元に帰ってくる。そう思ったから昌代はうれしくなってコーヒーショップを出たのだ。

昌代のそんな感を康司は全く理解していなかったから、どうして昌代が急に恋人モードになったのか分からなかった。正直に話せば怒るか、がっかりするか、落ち込むか、そんなところだろうと思った。今は亮子がいるのでそれでもいいと思った。だから正直に話したのだ。しかし、昌代は途中まで聞くとそれ以上は聞こうとせずにニコニコになった。いったい昌代は何に喜んでいるのか、康司には不思議で仕方なかった。

「ねぇ、昌代、じゃ無かった、マァちゃん、どこまで行くの?」

「羽田空港」

「飛行機に乗るの?」

「まさか、そんなお金、無いわよ」

「それじゃ、御土産屋さんか何か覗くの?」

「それもあるけど・・・・、飛行機が見てみたくて」

「実物を?」

「そう、将来のためにね」

「CAになりたいの?」

「まさか」

「それじゃ、パイロット?」

「そうかもね?」

「女性パイロットになるんだ」

「ちょっと大きい声で言わないでよ。恥ずかしいじゃないの」

「すごいね。さすが生徒会だけあるな」

「高校の生徒会がみんなパイロットになったら、日本中に飛行機が溢れるわ」

「でもすごいね。パイロットなんて」

「康司さんのカメラマンの方が凄いと思うけど?」

「そんなこと無いって。年収だって最低だぜ。食っていけるかどうか」

「どれくらいなの?」

「たぶん、最初は150万円くらいだって」

「一月で言うと十万円ちょっとか・・・・・、厳しいね」

「お腹が減ったらマァちゃんのところに食べに行くよ」

「まぁ、ずうずうしい。ちゃんとお金は取りますからね」

「あ、切符代払わなきゃ」

「470円」

「高いね」

「それくらい払ってよ。今日の康司さん、元気ないなぁ。もしかして、アキに振られたかな?」

「何言ってんだよ。マァちゃんだって」

「私だって何よ」

「もしかしたら俺に振られるかもしれないぞ」

そこで始めて昌代は少しだけ悲しい顔をしたが、

「それなら仕方ない。でも、康司さんはそんなことしないわ。私の知ってる康司さんなら」

と言ったまま黙って窓の外の景色を見始めてしまった。

程なくモノレールは二人で初めてゆっくり一日デートした浜離宮の横を通り抜け、大井競馬場へと向かっていった。昌代は二人で楽しく写真を取った記憶をたどりながら冷めていた心が少しずつ暖かくなるのを感じ、あの時の心の傷を思い出しながら自分の中で康司の存在がとても大きいことを改めて感じていた。

やがて空港に着くと、昌代は真っ直ぐに展望デッキに向かった。

「康司さん、今日はカメラ、何を持ってるの?」

「うん?普通のデジカメだけど」

「この前撮影してくれた奴?」

「うん、同じだよ」

「じゃぁ、また撮ってくれる?」

「うん、いいよ。ただ・・・・・」

「どうしたの?」

「ここは風がちょっとあるからマァちゃんの髪が綺麗に写らないかも知れないけど」

「ううん、それは良いの。飛行機の写真を撮って欲しいだけだから」

「それなら事前にそう言って貰わないと。超望遠レンズなんて持ってきてないよ」

「それって、どうしても必要なの?」

「うん、元々今日出かける時は、写真は撮ってもマァちゃんだろうと思ったから、遠くを撮影するレンズは持ってきてないんだ。だから標準のポートレート用の他には中望遠レンズしか無いんだよ。それだと遠くの飛行機をアップってわけにはいかないよ。それに、その場合なら三脚だって欲しいし」

「そうなんだ。全然だめ?」

「そんなことはないけど、せいぜい飛行機が出たり入ったりするのを撮影する程度だね」

「それで良いの。もし取れるなら離陸する時の写真も撮って欲しいけど」

「離陸する時が良いの?着陸じゃなくて?」

「うん。離陸する時の方がカッコいいなって思って」

「わかった。やってみるよ」

「ありがとう」

「でも、良くこんな広いところ、迷わずにここまで来れたね。俺なんかどこを歩いてるか全然分かんなかったよ」

「前に一人で来たこともあるんだ。誰にも内緒でね」

「凄いな、マァちゃんは本当に飛行機が好きなんだ」

「飛行機が好きなんじゃなくてパイロットになろうと思ってるだけ」

「それって、大変なんだろう?航空大学とか行こうとしてるの?」

「違う違う。まずは普通の大学に入って、良い成績で卒業しなくちゃいけないの。もちろん、航空大学に行く手もあるんだけど、航空会社のパイロットって言うのは、一般教養が十分に備わっていないといけないから、大手の航空会社は4年制の大学を出ないといけないの」

「大学を卒業してから試験を受けるんだ」

「そう、とっても難しい試験をね」

「それじゃ、まず良い大学に行って、それから良い成績で卒業しなくちゃいけないんだ」

「そう、目標としては最高でしょ?」

「凄いね、でも、マァちゃんて理系だったっけ?」

「ううん、取り敢えず文系になってるから、このまま大学に入ってから転科しようと思ってるの。今理系に移るよりは得意な科目で大学に入った方が良いし」

「大学に入ってから学部を変わるって事?そんなことできるの?」

「もちろん制限はあるけど、ちゃんと選択科目に理系の物を入れて良い成績とってれば買われるって聞いたんだ」

「飛行機に乗りたいんならCAになればいいのに」

「いやよあんなの」

「どうして?」

「・・・だって・・・・・・、言ってみれば肉体労働だし、給料安いし・・・格好悪いでしょ。少なくともパイロットよりは」

「そうかぁ」

「私は責任の重い仕事をやってみたいの。それが一番かな」

「そうか、それでパイロットなんだ」

「今はコンピューターがほとんどやってくれるらしいけど、それでもパイロットが自分を含めて全員の命を預かってるって凄いと思わない?」

「さすが生徒会だな」

「どこまでできるか分からないけど、やってみたいんだ。・・・・でも、誰にも内緒よ」

「マァちゃんて頭良いと思ってたけど、きっと凄い偏差値なんだな」

「パイロットはあんまり偏差値とか関係ないらしいの。もちろん成績は良くなくちゃいけないんだけど、大学の成績が良くても航空会社に入る時のパイロット候補生の試験が良くなくちゃ意味ないし、候補生になっても実技だって良くなくちゃ意味ないし、とにかく調べれば調べるほど全部が良くなくちゃだめなの」

「偏差値が良いだけじゃダメなんだ」

「勉強ができても、実際に飛行機を上手に飛ばせなきゃ意味ないから」

「それって、どれくらい難しいんだ?」

「たぶん・・・・パイロットになれるのは年間全部で百人くらいだって聞いたから・・・・」

「俺、良く分かんないけど、弁護士とか言うのと同じくらいか?」

「そうね、もっと少ないかも」

「俺には考えられないな。俺は好きな写真を撮っていられればそれで充分。何年もずっと勉強ばっかりなんて絶対無理だ」

「そう?勉強するって楽しくない?」

「信じられない」

「そう?知ってることが増えていくって楽しいわよ」

「生徒会の奴って言うのはそう言う連中なんだな。俺とは根本的に何かが違うみたいだ」

「みんな普通の人よ」

「その『普通』が違うんだな」

「そうかな?でも、違うんだとしたら、それが康司さんを好きな理由かも」

「あー、なんか訳が分かんない。どうしてマァちゃんみたいな凄い女の子が俺と一緒に居るんだ?」

「わかんないの?」

「・・うん」

「それじゃ、ちょっと目をつぶって」

「ん?こう?」

康司が目をつぶると、昌代はチュッとキスをした。

「え?」

「わかった?」

「キス?これが?なに?」

「分かんなければいいわ。私には分かってるから」

「なんだかよくわかんないや」

「それじゃ、まずあの飛行機の写真を撮って」

「あ、良いよ。ちょっと待って」

そう言うと康司はデジカメ一眼のレンズを交換し、最大望遠で何枚か写真を取り始めた。

「今日は天気は良いから撮影には比較的向いてるんだけど、白っぽいコンクリートの上の白い飛行機って言うのはコントラスト処理が難しいな。どうしても色のバランスが崩れやすいなぁ」

康司はそう言いながらもカメラを調整してちょうどスポットに入ってくる飛行機に向かって何枚か写真を撮った。

「飛行機の周りの人も写ってる?」

「あぁ、もちろん入ってる。こうやって見ると、結構うじゃうじゃ居るんだな」

「みんな飛行機の安全を支える大切な人なんだ。それを指揮してるのがパイロット」

「あ、確かに・・・・、へぇ、地面の上の人が飛行機の車輪にコードを繋いで何か話してる。パイロットと話してるのかな」

「きっと仕事の打ち合わせね」

 

 

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