第30部
こちらに来るときの飛行機のビジネスクラスは確かに豪華だったが、今の康司にはそれよりも少しでも亮子の近くにいられるエコノミーの方が嬉しかった。
エコノミーなら亮子と殆ど身体をくっつけて座ることができるが、ビジネスだとだいぶ間が開いてしまう。今の康司にとっては座席のゆとりより亮子に少しでも近くにいる方が何より嬉しかった。
ただ、水平飛行に移って直ぐに出された朝食を平らげて1時間も経つと、二人とも睡魔が襲ってきて起きていることができなくなった。あれだけ二日間感じさせられ続けた亮子は当然として、康司も意外と疲れていたのが自分自身でも驚いた。
食事自身、ビジネスに比べるとだいぶシンプルだったこともあって、食べている途中から眠くなってしまい、亮子などは半分ほど食べたところでフォークを置いて目をつぶってしまったくらいだった。
康司は目をつぶるとき、亮子が自分の方に身体を傾けて来たのがとても嬉しく、それだけで安心して眠りにつくことができた。
二人が何となく回りがざわついてきた音で目を覚ましたのは着陸の30分前になってからだった。亮子の席は窓際だったので、何となく外を見てみたが、遙か下に海が見えるだけで、特に何も見えなかった。
しかし、亮子は一万メートル下に見える波をしばらくの間じっと見つめていた。
座席の液晶テレビとスクリーンでは着陸前の案内が始まっていた。帰国に際しての注意事項、検疫、税関、そして手荷物の受け取りなど、初めての人間にはかなり速いペースで案内が進んでいく。その案内が終わる頃には、機内のGPS表示が千葉の銚子沖に差し掛かったことを示していた。
「もうすぐだね」
「そう、もう帰って来ちゃったって感じ」
「アキちゃん、何か見える?」
「うん、海岸線が近づいてきてる。たぶん九十九里浜かな?地図で見るのと同じ形してるから。見る?」
「ちょっとだけ」
康司はそう言うと、亮子の上に身体を乗り出して窓の外を見た。確かに滑らかな曲線を描いた海岸線が近づいてきていた。康司もいよいよ帰国だという実感が湧いてくる。あそこに行けば日本語が自由に通じるのだ。
「アキちゃんは、どれが一番楽しかった?」
「そう言う康司さんは何?」
「俺はアキちゃんを撮影できたこと。それが一番だな」
「そんなこというなら、私だって撮してもらったこと、それが一番」
「そうか、それじゃぁありきたりだなぁ。せっかくグァムまで行ってきたのに」
「それじゃ、残念だったことは?」
「潜水艦の中から殆ど写真を撮れなかったこと、かな?」
「そうか、暗かったものね」
こうやって亮子と話していても、康司には気になることが一つあった。このまま日本に着いて、亮子はどうするのだろうか?夕方まで二人でいられるのだろうか?それとも駅で別れてしまうのだろうか?
「それとね・・・」
「え?」
「アキちゃんと昨日の夜、一緒に寝られなかったこと、かな?」
康司は自分でも少し図々しいかな?と思ったが、正直な気持ちだった。
「まぁ、そんなこと」
「そう?俺にとっては大切なことなんだけど」
「フフ、子供みたいね」
亮子はちょっと笑ってから、
「大丈夫、またそうなるかもしれないし」
「ほんと?」
「そうなると、いいね?」
「うん、それじゃぁ、今日成田に着いてからアキちゃんはどうするの?」
「え?」
「だって、帰国してからのこと、聞いてなかったから」
「そうか、そう言えばねぇ・・・」
「一緒に現像に行こうか?」
「でも、荷物持ったままじゃ大変だし・・・疲れてるし・・・」
その時、機内放送が入った。
「皆様、ただいま当機は最終着陸態勢に入りました。新東京国際空港の到着はただ今から十二分後を予定しております。皆様のお座席の背もたれの位置を元に戻し、シートベルトを確実にお締め下さいませ。また、ただ今よりトイレの使用もお控え下さいませ。なお、客室乗務員も安全確認の後、座席に座らせていただきます」
康司は話の腰を折られてちょっと腹が立ったが、着陸となれば仕方がない。ただ、エコノミーなので直ぐ近くの亮子との話は続けることができた。
「今からなら家に帰ってもそんなに遅くないだろ?駅で集まって現像に行こうよ」
「う〜ん、現像かぁ・・・」
「また、アキちゃんの好きなように焼き付けもしてみればいいよ」
「そうねぇ・・・・」
「いや?」
「いやじゃないけどぉ・・・」
「それならいいだろ?」
康司は何とか押し切ろうとしたが、亮子はどうしてもOKしなかった。康司が亮子を口説き落とそうとしている間に、飛行機は成田空港に着陸した。ドンと衝撃が走り、凄い音がして一気にスピードが落ちる。
「皆様、当機はただ今、新東京国際空港に着陸いたしました。現在の時刻は午前7時10分でございます。当機がゲートにて完全に停止するまで、皆様はお座席にてベルト着用のままお待ち下さいませ」
「3時間半も飛行機に乗ったのに、まだ7時なんだ。やっぱり時差って大きいんだね」
「そう、これから空港で一休みしてから帰るとしても、お昼前には着いちゃうわよ。現像に出かけるのは一休みしてからでも良いでしょ?」
「うん、そうしよう」
亮子がやっと承諾したので、康司の心は一気に軽くなった。
飛行機がゲートに到着すると、乗客は一気に立ち上がってハットラックの荷物を下ろし始め、気の早い人はもう準備を整えて通路に立って降機の順番を待っている。しかし、機首のビジネスクラス客から降り始めるのだから、主翼よりも後ろに座っている康司達まで順番が回ってくるのには十分くらいかかる。
旅慣れた亮子は大人しく座席に座ったまま機内誌に目を通して時々ちらっと前の方を見る程度だが、康司は気が急いてしまい、通路に立って前の方をキョロキョロと見ていた。
やがて順番が来る頃、亮子は立ち上がって康司の下ろしてくれた荷物を持ち、すっと通路を歩いて行った。康司の方が荷物が多いので、今度も亮子の後ろを着いていくのが大変だった。
出国検査と違い、入国検査は簡単なものだったし、税関も二人が殆ど何も買い物をしていないので簡単に通り抜けた。ただ、まだ朝で開いているゲートが少なかったので待ち時間は少しあった。
それでも、到着ロビーに出た時間はまだ8時で、荷物を持って出発ロビーへと行っても殆どの店は閉まっていた。仕方なく二人は2階のエスカレーター近くの小さな喫茶店に入った。
それでも、こうして日本語の通じる店に入ると、しみじみ日本に帰ってきたのだという実感が湧いてくる。
「康司さん、ありがとう。疲れたでしょ?」
「ううん、アキちゃんこそお疲れ様。たぶん、俺よりもずっと大変だったと思うよ」
二人はお互いの苦労を認め合い、感謝の気持ちを伝えた。それは、二人が二人だけの時間から離れていくのだと、お互いにうすうすは気が付いていた。
「康司さん、二人で喫茶店に入ったこと、覚えてる?」
「新宿で?」
「そう、あのときにね。私、本気で康司さんに撮って貰おうって思ったの」
「本気で?」
「うん、それまではね、決めてはいたんだけど心の中でしっくりしていなかったの。でも、あの日の夕日がとっても綺麗で、それを康司さんが自由に操っていたから、本当に撮ってもらおうって」
「自由になんて扱ってないよ」
「私にはそう思えたの。私の中を光が通り抜けていくなんて不思議だった。そんなこと、考えたこともなかった」
「アキちゃんは色が白いから」
「あ、そうそう、だいぶ焼けてる?」
「ちょっと待って」
康司はカメラバッグからカメラを出すと、亮子の肌と唇の色を比べた。
「うん、これくらい違うと日焼けしたのがはっきり分かるね」
「グァムに行ってきたって?」
「それはない。たぶん、キャンプに行ったってこれくらいは焼けるよ」
「肩、痛くなる?」
「少しなるかもしれないけど、そんなに酷くはないから安心して良いよ。一生懸命ガードしたご褒美だね」
「一日でローション1本まるまる使ったのよ。高かったのに・・」
「日焼けしないなんて無理だよ。日焼けしすぎてヤケドで入院する人だっているんだから」
二人はまだ朝の早い時間だったので、空いている喫茶店でのんびりと話をしていた。康司はあれだけ何度も愛した亮子が目の前で可愛らしい姿を見せていることを喜び、ベッドや砂浜で見せた激しい姿を思い出して心の底から満足していた。
今は亮子を見ているだけで、その服の下に息づいている形の良い膨らみや細い腰まで思い出すことができるのだ。
「アキちゃん、お腹、減ってない?」
「え?・・・・分かった?」
「そうじゃないかと思ってたんだ。飛行機の中で殆ど食べな
かったし、ジュースだって殆ど飲まなかっただろ?大丈夫か
なって思ったんだ」
「何か頼んじゃおうか?」
「そうだね。上のロビーはまだ開いてないから、ここで頼ん
じゃおうよ」
そして亮子が頼んだのはケーキで、康司が頼んだのはサンドイッチだった。
「アキちゃん、ケーキなんかで良いの?」
「ケーキってカロリーはサンドイッチよりあるの。今はなんか甘いものが食べたくなったの」
「そうか、でもケーキなんかじゃあっという間になくなっちゃうよ」
「サンドイッチの方が、パサパサしてて中身が少なくて、もったいない感じ」
「大丈夫だよ。コーヒーと一緒に食べれば膨らむし。それにまだ水だってお代わりしてないんだから」
「ええ?あはははははははは」
亮子は康司の言い方があまりに真剣なのが可笑しくて笑ってしまった。
「何笑うんだよ。良いじゃないか、どうやって食べたって」
「そうね、そうだけど、あははは、ごめん、でも、ははは」
亮子が笑うので康司は少し面白くなかったが、亮子の笑顔を見るのはとても嬉しかった。康司はわざと亮子の目の前でサンドイッチをコーヒーで流し込み、水もお代わりして見せた。亮子はその間、ずっとクスクス笑っていた。
亮子もまだ日本に着いたばかりで興奮していたのでそれほど疲れも気にならなかったし、何よりも緊張する必要がないのがありがたかった。そして康司に写真を撮ってもらえたことを心から喜んでいた。
そして今、亮子の心は康司よりも康司の撮った写真に向いていた。
「ねぇ、康司さん。撮ったフィルム、持ってる?」
「もちろんあるよ」
「それじゃぁ、それ、私が持ってても良い?」
「え?だって、後で二人でラボに行って現像と焼き付けをやるんでしょ?」
「そうだけど、家に帰って部屋に入ったときにそのフィルムを持っていたいの。そしてそれを枕元に置いて一眠りしたいの。大切にするから。持って帰っても良いでしょ?お願い」
康司はしばらく考え込んだ。しかし、フィルムは康司が用意したものだが、今回の旅行は亮子が用意してくれたものだ。
「分かった。今出すよ、ちょっと待ってて」
そう言うと康司はカメラバッグからフィルムをごっそりと取りだした。
「大切にしてね。後で現像しようね」
「うん、ありがとう。大切にするわ」
亮子はそう言うと、本当に大切そうに、パトローネを一つずつバッグに仕舞った。