第50部

 亮子は康司に心を込めてキスをすると、

「それじゃ、帰るね」

と言って部屋を出て行った。

「送るよ。駅まで」

康司はそう言って追いかけた。しかし、駅までの道のりで二人は当たり障りのないことしか話さなかった。いや、話せなかったといった方が良い。ここまで親密になってしまうと、どうしても日本に帰ってきてからの亮子の不思議な行動が二人の間に蟠りとして立ちはだかる。

亮子はこれから康司と距離を置くことを話すわけにはいかないと思うし、康司はどうしてグァムではあれだけ愛し合ったのに、日本に帰った途端に目の前から消えてしまったのか、そして再び突然現れたのか、それが気になって仕方がない。しかし、康司は何となく聞いてはいけないような気がして話せなかったし、亮子は康司がその事に触れるのを恐れていた。

もし、康司が『どうして帰ってから何の連絡もくれなかったの?』と聞いたら、亮子はまたウソをつかなくてはいけない。亮子は心も体も満たされている今だけは康司の前でウソをつきたくなかった。だから、康司がその話題に触れないように祈りながら駅までの道を康司と二人で歩いていった。

「それじゃ、またね」

駅に着くと亮子は朗らかな笑顔でそう言った。

「うん、それと、写真を焼くのはいつにするの?」

「いつならいい?」

「明日でも良いよ」

「最初に連れて行ってくれたところにいくの?」

「うん、そうだよ」

「それじゃ、明日10時に秋葉の駅の電気街口で待ってる」

「うん、わかった」

「じゃあね。お休みなさい」

亮子はそう言うと手を振って帰って行った。

その晩、康司は亮子からの電話を待っていたが、かかってきたのは昌代からだった。

「どうしたの?」

康司の口調はどうしてもぞんざいなものになってしまう。昌代が嫌いなわけではないし、わざとそんな口調で話しているつもりもないのだが、亮子のことを考えていたときだったので、どうしても自分の口から出る言葉はぶっきらぼうになってしまうのだ。

「ううん、どうしてるかな、と思って・・・・」

昌代の言葉には明らかに戸惑いが感じられた。『何してたの?』と聞ければいいのだが、今の康司なら何気なく亮子を抱いていたことを話すかも知れない。だから昌代はそれ以上聞けなかった。さっき康司の携帯を鳴らした時、つい電源が入っていないと思いこんでしまったが、考えてみればいつもよりも少ないコールで留守電に切り替わっていた。と言うことは、康司が自分で留守電にしたと言うことなのだ。もうそうなれば理由は一つしかない。亮子と一緒にいたことは絶対確実なのだ。

「・・・・どうした?」

「ううん、なにも・・・・」

「聞かないのか?何してたんだって・・?」

「それは・・・・別に・・・・」

「そうか、それなら良いけど」

康司が自分から話すかと思って心臓が縮み上がったが、昌代は康司がそれ以上話そうとしないので話題を変えることにした。分かってはいても、康司の口から聞きたくはなかった。今の昌代は康司が好きなのだ。グイグイ引っ張って行かれる強さに身を任せる安心感を知ってしまった今、たとえ康司が亮子と会っていようと、昌代には康司が必要だった。それに、心の中では康司は自分に戻って来るという確信みたいなものがあった。だから昌代は康司にアプローチをかけ続けた。

「ねぇ、水族館に行かない?」

「いつ?」

「いつがいい?」

「そうだな・・・、どうしようかな・・・・、明日と明後日はだめだから、その次、金曜日かな」

「分かった。金曜日ね」

「もしかしてダメになったらごめんな」

「そんな・・・・大丈夫よ。たぶん・・・・」

「どうしてだ?」

「分かんないけど、たぶん・・・。そう思うの。なんか・・・」

昌代は特に何の根拠もなく、ただ康司との約束が実現して欲しいと思って言っただけなのだが、康司はちょっとハッとしたような感じで、

「そうか・・・・・、そうかもな・・・・」

と言った。

「ねぇ、どこの水族館にする?」

「どこでも良いよ・・・」

そう何気なく言い放った康司は、電話の向こうで昌代が息を飲む様子が伝わってきたので慌てて付け足した。

「どこか行きたいとことか、ある?」

「ううん、特別なのはないけど、・・・・」

康司のフォローが功を奏したと見え、昌代の口調がはっきりと明るくなった。

「でも、八景島とか・・・・・」

「俺、金無いよ」

それは正直なところだった。このところ、亮子との写真関係にお小遣いの大半をつぎ込んでいるし、更に貯金も崩している状態なので、昌代とのデートに使う金は全然無かった。明日はまた亮子と一緒に写真を焼かなくてはいけないが、それだけで一万円近くかかりそうだった。

「そう・・・・・そうよね・・・・」

明るい言葉の後の悲しそうな言葉だったので、昌代の残念そうな声は康司の心を揺さぶった。

「でも、近くなら・・・・、そう、品川の水族館くらいなら・・・」

「いいの?」

「うん」

「本当?イヤじゃない?」

「そんなこと無いよ」

「うん、・・・・わかった。・・・・ふ・・・・」

「どうしたんだ?泣いてるのか?」

「ううん、まさか、そんなこと、大丈夫。泣いてなんか無い」

昌代は心を切り替えたらしく、最後ははっきりと大きな声でそう言った。

「ごめんな・・・」

「どうして?」

「なんか、不機嫌だったろ、俺」

「ううん、そんなこと、ないよ」

「全部は出せないけど、何か奢るよ」

「康司さんが?奢ってくれるの?わ、嬉しい」

涙目で笑っているのが分かるような弱々しい笑い声だった。

「それと、写真、撮っても良いか?」

「私を?康司さんが撮ってくれるの?」

「うん・・・・もし・・・良かったら・・・だけど・・・・」

「もちろん。それじゃ、気合い入れて行くね」

「気合いって・・・・・」

「康司さん、私、これでも女の子だよ。知ってる?」

「え?」

「女の子って、出かける前はいろいろ大変だって事」

「そう・・・かな?」

「私のこと、女の子って思ってないの?」

昌代の機嫌がだいぶ直ったらしく、少し甘えた調子でそう言った。それは、今まで康司に見せたことのない昌代の一面だった。康司も少し意外に感じた。違和感があるわけではなく、昌代のイメージがきっちりしたものだったので、少し驚いたのだ。

「それくらい知ってたよ。ぼんやりとだけど」

「ぼんやりぃ〜?もぅ!」

「いや、もう少しはっきりと・・・・」

「少しだけ?康司さん、ベッドの中で何見てたの?」

昌代はごく普通にそう言ってのけた。あまりに自然にそう言ったので、康司の方が言葉を失ってしまった。

「えっ、それは・・・・・、綺麗だなっとか・・・その・・・」

「ふふふ・・・」

ベッドの上では強引さと繊細さを見せる康司だが、会話ではまるで小学生並みだ。昌代はこの会話を楽しんでいる自分を発見して、とても心が安らいだ。

康司にも会話を通して昌代の心が寄りかかってくるのが伝わっていた。自分を頼りにしてくれる女の子がいるというのは嬉しいものだ。康司はまた少し昌代のことが好きになった。

「上手く言えなくて・・・」

「良いの良いの。ちょっといじめちゃったかな?ごめんなさい」

昌代の柔らかい言葉が康司の心に優しく響いた。

「ね、聞いても良い?」

康司は『今まで何してたの?』と聞かれるのかと思って身構えた。

「なに?」

「康司さん、私のこと、何て呼んでくれる?」

そう言われて康司は気が付いた。今まで殆ど名前を呼んだことがないのだ。昌代にしてみれば気になって仕方がなかったに違いない。

「ごめんな。何て呼ぼうか?」

「康司さんの好きなので良い・・・・・、でも」

「ん?なんだ?」

「呼び捨てにされるよりは可愛らしい名前が良いな」

「昌代ちゃん、とか、そんな感じ?うーん」

「ちゃんでもなんでもいいの。呼び捨てでなければ」

「そうか・・・・・」

康司は考え込んでしまった。もともと昌代は身体の関係が先にできたので、康司の気持ちとしては無理矢理ものにした、と言うイメージがある。だから、愛情一杯の愛称などはどうしてもしっくり来ないのだ。でも、昌代の言いたいことも分かった。そろそろそう言う関係を普通の関係にしたいのだ。呼び名はその象徴なのだ。今のままだと康司は必ず名前を呼び捨てにするだろう。

「あのな、・・・・・・・昌代さん、じゃダメか?」

「・・・・・・・・・・・良いわ。呼び捨てじゃないもの」

「ごめん。なるべく早く何とかするから、ごめん・・・・」

康司がそう言ったと言うことは、少なくとも昌代との少し先を見ていると言うことだ。その気持ちが昌代の心に温かく染み込んでいった。

「ううん、こっちこそごめんなさい。でも、そう言ってくれて嬉しいの。楽しみにしてるね」

亮子との会話が弾んできて、康司は明後日を亮子のためにリザーブしたことを少しだけ後悔していた。昌代と二人でいるときは亮子とは別の意味で楽しいのだ。

時間や場所を最後に打ち合わせて電話を切ってから、康司は一つ気が付いた。亮子と昌代の違いだ。亮子は可愛いし、バージンをくれたが、出会いから全てが亮子のリードで進んでいる。個々の細かいところでは康司がリードするときもあるが、まず亮子がデートに誘い、グァムに誘い、身体を許し、写真を撮らせた。デートの場面や撮影、セックスなどは康司がリードしていたが、全体を決めるのはいつも亮子だ。そして康司はそんな亮子の不思議な部分、と言うか、秘密めいた部分を探り当てるのが楽しいのだ。デートやベッドの中ではリードしていると思っているのに、いつの間にか亮子の予定通りに全てが進んでいる。そんな不思議な魅力が亮子にはあった。

それに対して昌代は頭が良くて見るからに美人で、近寄りがたい感じがあるのに、実は康司がやりたいことを全て許してくれる存在だ。気持ち的には康司に尽くしてくれる、そんな感じがする。だから康司はいつでも好きなように、わがままに振る舞うことができるのだ。今になって考えると、康司のベッドの上で触られながらネガを探していた時でも結局昌代は康司の好きなようにさせてくれた。昌代ほどのプライドがあれば、大人を巻き込むことだってできたはずだし、写真をばらまかれても耐える気になかったかも知れない。それくらい強い女の子なのに、康司の腕の中でははかなく傷付きやすい感じがする。そこが昌代の魅力だった。

 

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