第52部

 その夜、康司は心の中に悲しみしかないときには涙など出ないことを知った。結局、一睡もしないまま夜を過ごした。明け方になって外が明るくなってきた頃、やっと亮子が自分の意志で康司から離れていったのだろう、と言うことを心の中に置くことができた。そしてその時初めて亮子の笑顔を思い出して泣いてしまった。自分でもどうして涙が出るのか分からなかったが、止め処なく涙が頬を伝っていく。そんな自分を心の隅っこのもう一人の自分が『おい、俺、泣いてるんだぜ。珍しいこともあるもんだ』と冷静に観察していた。しかし、それでは何も変わらない。康司の心が楽になるわけでもない。翌日、分かってはいても携帯を片時も離さずに過ごした。今日は何もすることがない。それで良かったと思った。

部屋でぼうっとしていると、亮子との楽しい時間が思い出されて仕方がない。つい40時間ほど前には亮子が康司の肉棒で貫かれて目の前のベッドで声を上げていたまさにその部屋にいるのだ。ビデオの編集でもしてみようかと思ったが、直ぐに止めてしまった。亮子は写真のネガだけ持って行ったのでビデオは手つかずだったが、とても今から見ることなどできなかった。見ればきっと自分が惨めになる。もし画面の中の亮子を見ていたら、出ないと分かっているのに亮子に電話をかけ続けることになりそうだった。

ふと、昌代と話をしてみたいと思った。しかし、普通午前中、昌代は電話をしてこない。今まではその方が良いと思っていたが、今日だけは昌代から電話が来ないかと思ってしまった。しかし、自分から昌代に電話するのは気持ち的に無理だった。

手元にはそれなりのお金が入っていた。それは康司が今まで貯めてきたお金で、亮子の写真のために思い切って卸したお金だったが、なんか持っているのが辛くなってきた。せめて一万円札だけは消えて貰わないと、財布の中を見る度に悲しくなってしまう。

『よし、街に出てみよう。フィルターでも見てこようか?嫌、このお金はカメラには使いたくない、カメラは亮子に繋がっているから・・。それじゃ、ゲーセンでも行ってみるか』と思った頃、今まで全く眠くなかったくせに、途端に睡魔が襲ってきた。そのまま康司は昼を回って3時過ぎまで寝てしまった。

寝て起きたら辛かったことの心の整理がついた、等というのは大嘘だ。そんなに簡単に心の整理がつくほど康司は恋愛慣れしていなかった。ぼうっとした状態で起きて十秒ほど経つと、寝ている間にはどこかに行っていた辛さが一気に戻ってきた。いや、びっしょりと汗をかいているところを見ると、寝ている間にも泣いたり苦しんだりしていたのかも知れなかった。

それでも冷たいシャワーを一気に浴びてから外に出てみると、意外にも街はいつもと何も変わらない光景だった。『何だ、俺だけかよ。俺、何してるんだろうな・・・』そう思うと、ほんの少しだけ心が軽くなった。

康司は電車に乗ると、学校の方向へと向かっていった。しかし、最寄りの駅までだ。学校まで行く気にはとてもなれなかったが、もしかしたら駅で昌代を見かけるかも知れない、単純にそう思っただけだ。でも、本当はそんなことなど確率から考えて起きるはずがないことを知っている。だから、学校の駅を通り過ぎたらそのまま横浜まで行くつもりで、切符も既にそうなっていた。そして中華街で肉まんを何個食べられるかやってみようと思っていた。『一度、失恋したときのやけ食いって言うのをやってみたかったんだよな』自虐的にそう思いついたのだ。

もともと中華街は康司が中学生の頃、写真の勉強に良く通った街だった。中華街は色彩が鮮やかなので、フィルム現像の腕を磨くには最高の素材なのだ。色鮮やかな町並みを浮き上がらせるような写真を撮れるようになるまでにはかなりの練習が必要で、今でもそうだが、中学の頃からお小遣いはいつもフィルムと印画紙に消えていった。

そんなことを考えながら電車の窓の外を眺めていると、突然、昌代が駅のホームを歩いているのが視界に入った。『え?』康司は想い出の世界から一気に現実に引き戻される。康司の電車が昌代の横を通り過ぎたとき、昌代も気が付いたみたいだった。視界の端に消えていく昌代が鞄から何かを取り出したのが見えた。

『電話が来る!』そう思って身構えた。今はまだ昌代と話をしたくない。今はまだ自分と対話するだけで精一杯なのだ。普通に話ができる自信がなかった。携帯のスイッチを切ろうかとも思った。しかし、マナーモードになっているので嫌なら出なければ良いだけだ。そう思いながらも携帯を握りしめていた。

結局、昌代から電話は来なかった。その代わりにメールが来た。

『康司さん、今横浜に向かっているんじゃない?電車のドアの横に立ってるでしょ?さっき私の横を通り過ぎていったんだけど、気が付いてくれた? 昌代』考えてみれば昌代らしい連絡の仕方だった。康司が電車の中にいたのでメールにしたらしい。康司はホッとすると同時に、なんとなく明日になったら昌代の前に出られる気がした。

ただ、今はまだ昌代とメールができるほど心の余裕がなかった。昌代には悪いと思ったが、『横浜まで行ってくる。明日、だな』それだけ送るのが精一杯だった。

その時昌代は、午前中に生徒会に顔を出し、用事が終わってから友達がいつもたむろしている古い喫茶店に向かっていた途中で、康司を見てから慌てて追いかけようとして反対方向のホームに辿り着いてからメールしたのだが、康司のメールを見て追いかけるのを止めてしまった。ドア越しに見かけた康司の様子が少しおかしかったのと、メールの内容が余りにも変だったので近づけなかったのだ。

良く分からなかったが昌代の感が、今、康司には近づくな、と言っていた。亮子と一緒にいる感じでもなかったし、何か疲れているみたいだった。だから少し気にはしていたが、明日になれば会えるのだから、と思い返して家路についた。

康司は中華街に入り、雑踏に身を置くと何となく賑やかな雰囲気に心を癒される感じがした。撮り慣れた景色だが、少し来ないとどこかが直ぐに変わっていく。全体としてはいつも同じなのに、小さいところは変わり続けて絶対に立ち止まらない、それが中華街だ。

康司は中学の時から目を付けていた関帝廟と市場通りの交差点の近くの一軒の店に行った。あの頃はお昼に2個、肉まんを食べたらそれでお小遣いは無くなった。その2個も一気に食べると直ぐにお腹が減るので11時と2時に分けて食べたものだった。それで5時過ぎに帰るまで何とか我慢できた。その頃は山盛りにした肉まんを食べられたらどんなに幸せだろう、と思ったものだった。

結局、康司は肉まんを8個半食べた。思ったよりも食べられないものだ。店先のブースで肉まんを売っていたお兄さんは追加を頼む度に笑いながら渡してくれたが、どうやらこんなバカは康司だけではないらしく、

「ほう、たいていは5個くらいでギブアップするんだけどなぁ。まだいけるの?ほうら、今度はどうかな?」

と呆れ返りながらも蒸籠から次々と肉まんを取り出してくれた。空腹を満たしている時間はある程度幸福になれる。今日はお金を気にせずに食べてみようというのだからなおさらだ。康司は肉まんを買う度に店のお兄さんと簡単な会話をしたが、少しずつそれも慣れてきた。

「ねぇ、もう7個目だけど、最高は何個食べた人がいるの?」

「最高?そりゃ聞くだけ無駄さ」

「どうして?」

「いくらお腹が空いてても20個以上食べるなんて普通の人には無理だろ?」

「に、にじゅっこ?」

「注目されようと思えば最低20個から上だな。30個以上食べたって話もあるんだ。ま、たいていは5個か6個だから、7個は珍しい方だよ」

「そんなにしょっちゅういろんな人が挑戦に来るの?」

「まぁ、夏休みはさすがに少ないけど、冬なんて毎週誰か来るよ」

「じゃぁ俺、今週の一番?」

「今週?あぁ、そうかもな」

「何か出ないの?」

「出ないよ」

「今週の一番なのに?」

「6,7個食べるだけで何か出してたら店がつぶれるよ」

「そうかぁ、残念」

「でも、美味いだろ?」

「もちろん、中学の時から肉まんはここでしか食べないんだ。ちょっと高いけど、味が抜群だからね」

「良く分かってるじゃないか。そりゃ1個200円にしようと思えばできるよ。材料を落とせば良いんだから。でも、それじゃ一生懸命作って売る意味無いだろ?やっぱり喜んで貰わないと張り合いが無いもんな。だからウチは絶対1個300円なんだ」

「知ってるよ。タケノコだってチャーシューだってみんな美味しいからね」

「よく知ってるじゃないか。そう言って貰えると嬉しいよ」

「それじゃ、よく知ってるファンになんか頂戴!」

そこまで話をしたとき、今まで嬉しそうに話をしていたお兄さんは急にちょっと顔をしかめた。康司は『悪いこと言っちゃったな』と思った。

「さっき俺がお昼に食べた分の残りだけど、半分、口付けてないから持って行けよ」

お兄さんはそう言うと蒸籠の陰から半分の肉まんを取り出した。

「あの・・ご、ごめん・・・・あの・・・」

「良いよ。持って行けよ」

そう言って店のお兄さんは渡してくれたが、その顔にはもう人なつっこい笑顔は消えていた。康司はその時、何かルールを破ってしまったような気がした。もう、かなりお腹一杯だったが、店のお兄さんに悪いと思って一気に食べると財布を取り出して、

「半分だけ食べたらもう一個欲しくなった。もう一個」

と言って300円出すと、

「無理しなくても良いのに」

と言って少しだけ笑いながらもう一個取り出してくれた。

さすがにそれからしばらくの間、康司はお腹一杯で歩くのも大変だった。あまりにお腹が苦しいので、少しの間亮子のことを忘れたくらいだった。だから、帰りの電車に乗るまではかなり普段通りの自分でいられたと思った。

帰りの電車は運良く座れたので昌代にメールしておこう、と思い立ち、メールを打ち始めた瞬間から再び何か心の中に溜まりだした。康司は心の中で何かが戦っていることを感じながら、ゆっくりと、しかしずっとメールを書いていた。

その夜、康司がいくら待っても昌代からの電話は来なかった。普段、暇な時には友達同士で回しているビデオを見てからオナニーで時間をつぶすこともあるのだが、さすがにそんな気は全く起こらず、仕方なくShareで落とした海賊版のビデオを見て時間を潰した。ただ、運良く海賊版の割には意外に面白かったのだけが救いだった。

同じ頃、昌代は康司のメールを見て驚いていた。内容は別に大したことではなかった。端的に言えば横浜の中華街に行って散歩して肉まんを食べた、ただそれだけが書いてあったのだが、問題はそのメールの長さだった。友達の女の子でも長いメールを出す子はいたが、たぶん、康司が使っているAuのメールの限界くらいの長さの筈で、読むだけでかなり長くかかった。もしかしたら十分くらいかかったのではないだろうか?それほどの長さだった。

問題は、どうして康司がこんなメールを送ってきたか、だ。こんな意味不明のメール、送る必要など無かったはずだ。特に昌代に何かを言いたいわけではないのははっきりしている。このメールを読んだ時、昌代は康司に初めて『ちょっと重いな』と思った。昌代から誘って以来の康司は昌代が一生懸命追いかけて、やっと昌代の心が引っかかるような、そんな掴み難い相手だった。しかし、このメールは明らかに昌代に康司が寄りかかろうとしている。康司がそんな風になる理由は一つしか考えられなかった。

しかし、一昨日二人は一緒に夜遅くまでいたはずだった。その間に何が起こったかは考えたくなかったが、亮子が康司の気持ちを受け止めていたとすれば分かり切ったことだった。そんな二人が突然破局を迎えることなんてあるだろうか?その夜、昌代が康司に電話をしなかったのは、それが心に引っかかっていて、康司の心の状態が見えなかったからだった。康司はもともと表裏のない分かり易い相手だ。昌代が康司に惹かれている理由の一つがそれだった。

しかし、今変に電話して康司を傷つけたくはなかったし、逆に亮子との間にもし何も変化が無かったとしたら自分が傷付きそうで、気になってはいたが電話できなかった。

 

 

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