第53部

 翌日、昌代は思いきり気合いを入れて準備してから出かけた。昨夜、ベットに入ってからも目が冴えて眠れなかった。そんな時にはありがちだが、康司のことについていろいろ考えてしまった。ある時は可愛そうだと思い、ある時は自業自得だと思ったりもした。そして、もしかしたら今が康司から離れるときなのではないかと思ったりもした。

しかし、朝、浅い眠りからを覚ましたとき、自分がみっともなく思えてしまった。相手が打ちひしがれて弱っている時に自分の小さな欲に従って更に打ちのめそうとするのは昌代のやり方ではなかった。『そんなことをしたらきっと後悔する。きっと誰も私を見てくれなくなる。だから私は康司さんを力づけてみる』それが昌代の結論だった。

昌代は康司が自分にしたことを決して許してはいなかった。自分の弱みに付け込むやり方は卑劣でしかない。しかし、自分がそれを康司にやり返せば自分も弱みに付け込むことになってしまう。それは破壊でしかない。今の昌代に必要なのは破壊ではなく創造なのだ。自分からそう言う立場で望めば、きっと新しいものが生まれてくる、そう昌代は信じていた。現に康司は昌代に助けを求めてきたではないか。

それに、昌代は康司の力強さが好きだった。あの圧倒的な力強さで昌代の全てを巻き込んでいってしまう強引さが好きだった。やり方は強引なのに、昌代を愛する時の康司は強引に見えて繊細そのものなのも昌代を引きつけている魅力だった。

そして、亮子に対する対抗心もあった。昌代とは対照的な亮子は自分の思いを遂げるためには自分さえも犠牲にしてしまうほどの強い意志を持っているが、外見からは全くそれが分からない。繊細で可愛らしい女の子にしか見えない。昌代がそれに気が付いたのは亮子と一緒にこの高校を受験した頃からだった。

中学の時、亮子は昌代ほど成績が良くなかった。だから、仲が良かったにもかかわらず高校は別になるものだと昌代は思っていた。しかし、亮子は昌代が志望した高校に拘った。担任の先生でなくても亮子の成績で昌代と同じ高校をねらうなど、クラスの誰が見ても不可能でしかなかった。亮子は英語の成績が普通に近かったが、社会などはどん底に近かったし、数学もかなり悪かった。そしてその亮子が3年生の夏から猛勉強を始めたのだ。たぶん、もともと頭は悪くなかったのだろうが、亮子は凄まじい勢いで成績を上げ、私立高校の受験が始まる一月には学年の三分の二を飛び越して昌代と同じ高校を志望する生徒のトップ集団に入った。EランクからAランクまで上がったのだ。その間、亮子は昌代にも誰にも一切勉強を教わったことはなかった。全て自分一人でやってのけたのだ。

受験間近の時、偶然に図書館を出る時に亮子と出会った昌代がいっしょにマックに入って亮子に尋ねたことがある。

『ねぇ、どうしてそんなにあの高校に拘ったの?今の成績だったら、もう一つ上だって狙えるでしょう?』

『ううん、私のやりたいことのためには高校だって良いところに行かないとダメだって事に気が付いたの。それだけよ。それに、行きたいと思った高校を目指して勉強したんだから、たまたま少しくらい成績が良かったからって他の高校にするなんて変だもの』

『でも、今の成績なら上の高校だって受かるでしょう?』

『たぶんね。でも、それは私が行きたいと思った高校じゃないもの』

『凄いのね』

『そんなこと言うなら、サヨの方がずっと凄いわよ。ずっとこの成績をキープしてたんだもの。私に言わせれば、ずっとキープする方がよほど大変よ』

『どれくらい勉強したの?一日八時間くらい?』

その時、亮子はちょっと考えてからにっこり笑って言った。

『んー、いっぱいよ。ね、早く一緒の高校に行きたいね』

そう言って弾けるように笑った亮子の笑顔の向こうにある鋼のような意志を今でも昌代は忘れていない。たぶん、康司はその亮子の意志に巻き込まれ、そして弾かれたのだ。

そんな亮子を知っているのはたぶん今、昌代だけしかいない。だから、康司を包めるのも昌代しかいないはずだった。待ち合わせの場所に向かった昌代は、今日の昌代を康司が気に入ってくれるかどうか心配していた。でも、こう言う時に昌代は燃えるのだ。昌代にはそんな自分が良く分かっていた。

 

康司は待ち合わせの出口に寄りかかって昌代を待っていた。

「待った?」

「ううん、今来たとこさ」

「良かった。それじゃ、行きましょう」

二人は無言で切符を買い、電車に乗り込んだ。品川まで乗り換えて一時間弱かかる。電車の中はそれほど込んでいなかったが、昌代は康司にかなり近づいていた。

「こんなに近くじゃ暑い?」

「ん?そんなことない」

「よかった」

二人はやっと小声で話し始めた。

「ねぇ、今日の格好、変?」

そう言われて初めて康司は気が付いた。今日の昌代はかなり可愛らしい格好をしていた。昌代は今までぱりっとしたブレザー系の服を着ることが多く、こんな可愛らしい格好を見たことがなかった。まるで亮子のようだ。そこまで考えて康司はハッとした。『アキちゃんにふられたのがバレてるのか?亮子から聞いたのか?いや、そんなはずはない。じゃ、どうしてだ?亮子に対抗してるのか?』康司は昌代にとって見ればバレバレになっていることも知らず、不思議で仕方なかった。確かに、昨日昌代に送ったメールは拙かったな、と思った。しかし、それは昌代に何の意味もないような長文のメールを送りつけてしまったことに対して拙いと思っただけで、まさかそれが昌代に亮子に振られたことを白状しているメールだとは気が付かなかった。確かにメールのどこを見ても亮子のあの字もないが、文章全体の調子は『どん底』を表していることに気が付いていなかった。

「こんな格好、あんまりしたこと無いから・・・・、変・・?・・だよね・・・」

「それ・・・もしかしてアキちゃんと張り合ってるのか?」

康司は遠慮無くそう言い放った。その言葉は昌代の心に刺さりそうになったが、昌代は気合いで乗り切った。

「康司さん、こんな格好の方が好きかと思って・・・・。ごめんなさい。変だよね。駅で着替える」

そこまで言われてやっと康司も気が付いた。昌代は康司の好みに合わせようとしたのだ。だから亮子のような服装にしたらしい。目の前でおどおどしている昌代に申し訳なかった。

やっと康司の心のエンジンに火が入った。じっとそのまま昌代を見下ろしていた康司だったが、二駅ほど過ぎた時、昌代の耳元でそっと囁いた。

「ありがとう。この格好も似合ってるよ。ごめんね。ちょっと悲しいことがあって、しっかり見えてなかったんだ」

昌代は康司が素直に亮子にふられたことを白状してくれたことが嬉しかった。

「悲しいことがあったの?そう、・・・・それじゃ、今日は楽しく過ごしましょうね」

「そうだな」

「写真、撮ってくれるんでしょ?」

「そうだよ。ほら、ちゃんと一眼レフ持ってきた」

康司は肩から掛けた小型のカメラを昌代に見せた。

「それと、私のこと、何て呼ぶんだっけ?」

「それは・・あの・・・・・・・・・・・・・」

「なんて?」

「昌代さん・・・・です・・・・」

「はい、良くできました」

昌代はにっこりと笑って康司の腕を取った。やっと二人の間に心が通い始めた。昌代は、康司が思ったよりも恋愛に不器用なのでちょっと安心した。たぶん、昌代の方がこういう経験は豊富らしかった。しかし、それは今の昌代にとって康司の魅力が減るようなことではなかった。

康司は最初、余りしっかりと昌代を見ていなかったのだが、やっと今になって昌代の服がかなり透けて見えることに気が付いた。短くて広がったミニスカートは別として、ノースリーブのサマーセーターの向こうには肌が見えるし、ストライプの入ったブラジャーも分かる。可愛らしい服装にしただけでなく、少しだけ刺激的な服装にしてきたのは、康司の目線を意識してのことなのは間違いなかった。

「ねぇ、写真についてお願いがあるんだけど」

「なに?」

「私に今日撮った写真、全部くれる?」

「いいよ」

康司が即答したので昌代は少し驚いた。たぶん康司はなかなか写真を渡してくれないのではないか、と思っていたのだ。

「ネガもくれる?」

昌代は別にネガなど欲しくはなかった。これは康司をちょっと困らせてみたくて言ってみただけだ。でも、もしかしたらテニスコートで撮られた写真のネガのことが頭をよぎったのかも知れなかった。

「デジカメだからUSBメモリーになるけど、良いか?」

「え?フィルムじゃないの?」

「あぁ、今日のは違う。小さいからこれにしたんだ」

「そう・・・・」

「USBメモリーにするか?」

「ううん、それなら良い。欲しいときに貰うから」

「そうか」

「それと、もう一つあるの」

「私だけじゃなくて、水槽の魚の写真とか取れる?」

「水族館は撮影禁止だろ?」

「へへへ、ちゃんと調べてきました。一部撮影禁止なだけなの」

「さすがだな」

「でも、その一部ってどの程度なんだ?もしかして水槽全部か?」

「それは・・・・」

「ま、そんなとこだろうな」

「うん・・・・ごめん、わからない・・・」

「大丈夫。今のデジカメの実力を見せてやるよ」

「すごいの?」

「一眼レフでもコンパクトカメラ並みの機能がついているから、たいていのところなら綺麗に撮れるよ。ミュージアムモードとかにすればストロボは光らないし、何枚もいろんな写真を自動で撮って、最高の一枚だけ残してくれるから」

「良く分からないけど、綺麗に撮ってくれるのね」

昌代は写真のことはまるで分からなかったが、康司が安心しているところを見ると大丈夫なのだろう、と思った。

 

 

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