第54部
二人は電車を乗り換え、大森海岸駅から少しだけ歩いて目指す品川水族館に隣接する公園に着いた。二人はどれくらい混んでいるのか想像できず、少しびくびくしながら公園に着いたが、行列は思ったほど長くはなく、少し並んだだけで中に入ることができた。
康司は水族館に来たことはほとんど無かった。昔から両親の休みは平日だったから連れてきて貰うことなど無かったし、物心ついてからはカメラばかりやっていたので基本的にフラッシュ禁止の水族館はカメラとの相性が良くなかったのだ。
二人は最初、東京の磯を展示してあるコーナーへと入ってきた。昌代は余り興味がなかったようだが、康司は明るい室内と水生生物が気に入ったらしい。係員に写真を撮っても良いことを確認すると、早速写真を撮り始めた。
「いきなり撮り始めるなんて、私のこと、忘れてない?それにフラッシュ禁止じゃないの?」
「場所によるみたいだよ。ちゃんと確認したから」
康司は最初、水際の生き物を撮り始めた。昌代も少し呆れたようだが、康司にしてみれば殆ど撮ったことのない被写体が珍しかったようだ。
「ごめん、・・・・・・・」
「・・・・?????どうしたの?」
「う・・・・・昌代さん・・・・こっちを向いて」
思わず昌代は吹き出してしまった。なかなか言えなかったらしい。しかし、考えてみれば初めて名前を呼んでくれた気がする。昌代は機嫌を直すと、表情に機を使ってにっこりと微笑んだ。
「撮ってくれるの?」
「約束だから」
「なんか変な言い方だけど、でも嬉しい」
昌代は何枚か写真を撮って貰ったが、康司のように一眼レフで写真を撮っている人など周りには誰もいないので、なんか自分がモデルになったみたいでとても気持ち良かった。ただ、慣れないメーキャップが写真写りを変にしていなければいいけど、と気になっていた。
「康司さん、一緒に撮って貰おうか?簡単なんでしょ?」
康司はその昌代の言葉が好意から出ていることが直ぐに分かったので気を悪くすることはなかったが、
「ごめん、慣れないと綺麗に撮れないんだ。普通のよりは大きくて重いし」
「そうなのかぁ。ツーショット取れると思ったんだけどな?」
昌代はちょっと悪戯っぽく笑った。
「後で外に出たときに誰かに頼もうか?それで良い?」
「・・・・・・・そうね、室内撮影って難しいんだものね」
昌代は『そうよね。屋外での撮影だったら慣れているものね』と言いそうになって自分でもびっくりした。昌代の中ではまだ康司に隠し撮りされたテニスコートの印象が強く残っており、事ある毎に康司を好きになろうという思いを潰そうとしていた。しかし、昌代は康司に抱かれているときの感覚が忘れられなかった。昌代の中に入ってからの康司は言葉こそ粗っぽかったが、実はとても繊細に昌代を扱っていて乱暴なことなど一度たりともしたことはなかった。昌代が一見乱暴に扱われながらも康司を追いかけていた理由がそこにあった。昌代の元彼は上手く行かなくなると力で抑え付けようとしていた。しかし康司は昌代が感じるまで辛抱強く待つ余裕があった。だからこそ、それに一番先に気が付いた昌代の身体が何度も登り詰めてしまい、康司を求めるようになったのだ。
昌代は思い切って康司の腕を取って歩き出した。
「どうしたんだ?急に??」
「何でもない。女の子にそう言うこと聞くものじゃないわよ」
「それは失礼。あんまり経験がないもので」
「私だって多くないわ」
「俺よりは多いだろ?」
「どうですかね?って、それこそデート中に聞くなんてルール違反よ」
「ルールがあるの?」
「もちろん、何にだってルールはあるわよ。学校だって電車だって水族館だって」
「そうか、気にしたこと無かったよ」
「あなたはいつもそう。でも、ちゃんと守ってる人の方が多いんですからね」
昌代の頭の中ではネガを餌に無理矢理自分の肌を楽しんだ康司の姿がフラッシュバックし始めたが、それを昌代は抑え込んだ。
「そうか、やっぱり生徒会の役員は言うことが違うな」
「書記って言ってね」
「そうだったっけ」
「知られてないんだなぁ。あんなにがんばってるのに」
「・・・・・、えーと、生徒会の書記よりも昌代さんの方が素敵だよ」
「何それ?どっちも私でしょ?」
「学校にいるときよりも今日の方が可愛いって事、言いたかったんだけど・・・」
「へぇ、康司さんもお世辞を言うことがあるんだ。新発見です」
やっと弾んできた会話に二人は安心しながら階段を上るとペンギンランドに出た。
「ねぇ、撮って貰いましょう」
「そうだな、外ならシャッターも早いし・・・」
「何ぶつぶつ言いながらキョロキョロしてるの?済みません。シャッター押して貰って良いですか?」
昌代はさっさと近くにいたカップルの男性にお願いしており、康司から奪うようにカメラを撮ると男性に渡した。
「あ、まだだよ。まだ設定が終わってないよ」
康司は慌てて男性からカメラを取り返すと、
「済みません。直ぐにしますから」
と言ってカメラの設定をすませてから再度お願いした。カメラを渡された男性は社会人らしかったが、二人の様子をぽかんと眺めており、横の女性は苦笑いしている。
「ほら、昌代さん、そこに立ってこっち向いて、違う、こうしゃがんで、そしてカメラを見て笑って」
康司は昌代の斜め後ろに立つと身体を屈めて昌代に被さる感じでカメラを見た。シャッターを頼まれた男性は後ろのペンギンランドにいるペンギンたちと絶妙なバランスで構図が決まっていることに驚いた。
写真撮影が終わり、康司達が歩き出すとその男性は慌ててカメラを取り出し、女性を昌代と同じようにしゃがみ込ませてから別の人にカメラを渡していた。
「ねぇ、そんなに美味く撮れたの?」
「どうかな?お昼にでも見てみようか?」
「楽しみだな。結構ブレてたりして」
「そんなこと無いよ。それはない。絶対に」
「あら、他の人が撮ったのに分かるの?そんなこと?」
「もちろんさ。ちゃんとブレ無いように設定してあるんだから」
「ごめんなさい。やっぱり康司さんには敵わないわ」
「カメラについては、だね?」
ふと見ると、目の前のイルカ・アシカスタジアムに観客が次々に入っていたので、二人も何となくそれにつられて入っていった。既に観客席は半分ほど埋まっており、二人はかなり上の方の席に座ることになった。しかし、下の方の席は小さい子供を連れた親子ばかりなので、カップルには還ってその方が良かったかも知れない。
「ねぇ、さっきの写真、見せて?デジカメでしょ?」
「あぁ、いいよ。えーと、これかな?。ほら、最初に撮ったやつからだ。ここを押すと順に写真が出るから」
「うわぁ、綺麗。凄いカメラなのね」
「おいおい、カメラか?俺の腕を褒めようって気はないのか?」
「ウソ、凄く綺麗。これ、後で貰える?」
「いいよ。ちゃんと写真印画紙にプリントしておくよ」
昌代は順に写真を見ていった。どれも綺麗に撮れていた。昌代が自分のカメラで撮るときはピントが合っていたとか、フラッシュが弱かったとか、だいたいそんな感じなのだが、康司の写真はそんな域からかけ離れていた。どれも色と言い構図と言い、雑誌に載っているみたいに綺麗だった。中でもペンギンランドで撮ったものは最高だった。
「うわぁーっ、これ、凄い!こんな風に撮れるんだ。可愛ーいっ」
思わず昌代が声を上げた。昌代が後ろに写っているペンギンとキスしているみたいに見えるのだ。もちろん、それは偶然も作用しているのだろうが、昌代の横顔の後ろに写っているペンギンが昌代と反対を向いており、口の位置が同じになっているので、写真では近くの昌代と遠くのペンギンがキスしているように見えてしまう。
「ねぇ、これ、狙って撮って貰ったの?」
「どうかな?」
康司は予想以上に上手くいったのでニコニコ顔で答えた。
「きっと、あの写真を撮ってくれた人がシャッターチャンスを逃さなかったんだよ」
「ウソ、そうなるように設定したんでしょ?」
「まぁ、ある程度は・・・・、だけどね」
「でも、良くあんなに直ぐに設定できたわね。だって、ほんの数秒しかなかったはずよ」
「カメラ好きなら歩いている場所の周りにどんなものがあるか、その位置関係はいつも頭の中に入れておくんだ。だから写真を撮ってって言われても直ぐにズームや露出の設定ができるのさ」
「ねぇ、本当にこの写真を狙ったの?」
「あの場所に着いたときにぐるっと見渡したからペンギンとの位置関係は分かっていたんだ。だから後数秒、あのペンギンがあのままでいてくれれば良かったんだ」
「凄い・・・・・」
昌代は康司のカメラのすごさに驚いた。確かに高校の廊下に康司が貼りだしている写真は人気があったが、ここまで凄いとは思っていなかった。
「スナップばっかり撮っていた時期があって、その時からいつも数秒後を予想するようになったんだ。一種の癖だね」
「ねぇ、もっと凄い写真を撮ってくれる?」
「どうなるか分からないけど、がんばってみるよ」
その時になって昌代は康司に少し不自然な雰囲気を感じた。何となく、だが、いつもの力強さが感じられず、妙に雰囲気が優しい。それも無理して明るくしている雰囲気なのだ。『そうか、康司さんは立ち直ろうとがんばっているのね』本当のところは知らなかったが、昌代はそう思うことにした。そう思っていても康司の優しさは昌代にとって嬉しいことに変わりはない。
昌代は思いきって康司の手を取ると、
「ありがとう。楽しく過ごせそうね」
と言って康司に肩を寄せた。昌代は少しずつだが二人の存在が同じ方向に向かって歩き出しているような気がした。イルカショーが始まると場内が一気に歓声に包まれたが、康司は殆ど写真を撮ろうとせず、肩に顔を寄せている昌代をそっと優しい目で見下ろしていた。
康司にしてみれば、亮子にふられたのがバレているのに優しくしてくれる昌代が不思議だった。そして、どうして自分みたいな男子に近づこうとするのか理由が分からなかった。それでも今は、そんな理由を詮索するよりも今を楽しんだ方が良いと思うようになってきた。正直に言えば、今でも亮子が好きではあったが、康司の目の前から消えた亮子を待ち続けていても仕方がない。それよりも今は昌代にたくさん笑顔を作って欲しいと思うようになっていた。心の隅で、『俺って浮気性かな?』と自虐的に思った。
ショーが終わると二人は少しの間待って、混雑が終わってから席を立った。次のコーナーに行くとき、康司はそっと昌代の腰に手を回した。まだ仕草も心もぎこちなかったが、それが精一杯の昌代への意思表示だった。昌代は足のペースが会わずにぎくしゃくしたが、それでも精一杯康司に合わせて歩くように『いっちに、いっちに』と心の中で声を掛けていた。心の中で声を出して歩かないとペースが逢わないくらい、まだ昌代だって心がぎくしゃくしていた。
次のコーナーに行くと、小さな魚がたくさん泳いでいる水槽があった。昌代はまるでパンフレットの写真を撮るように笑顔で水槽の魚を群れを眺めていたので、康司はプロのカメラマンのつもりで何枚か写真を撮った。しかし、バックの水槽を大きく撮ろうと思っても他の客が多くてなかなか上手くいかなかった。それでも、昌代をアップで撮った何枚かは魚と昌代と綺麗に写っていて満足できた。
水槽の中を撮るのは意外に難しい。水槽の中は見た通りに写らないからだ。たいていは見た目より暗く写ってしまう。それを避けるためには水槽の正面から撮るしかないのだが、それだと構図が単調になってしまう。しかし康司は水族館に来るというので偏光フィルターをカメラに付けていた。これだと斜めの角度でも水の中が明るく写る。康司は心の中で偏光フィルターを忘れなくて良かったと思った。