第55部
昌代は写真を撮られることに次第に慣れてくると、少しずつ表情を変えることを覚えていった。誰でも最初は一番いい顔、つまり笑顔で写ろうとするものだが、昌代の場合、すぐに不思議そうな顔、じっと真面目に見つめる顔、とバリエーションを付けるようになった。そして表現が一番難しい顔、つまり大笑いしている顔になるまでそれほどの枚数を必要としなかった。シャッターを切っていた康司は、『さすが生徒会の書記だけあるな。チャンスを全く無駄にしてない。それどころか、とても丁寧に写真に写ろうとしている』と昌代の本質を見抜いた。
昌代が写真に慣れてから階段を下りて入っていった先は品川水族館のメインであるトンネル水槽だった。今ではいくつもの水族館に作られているが、実はここが一番最初なのだ。ここの良いところはエスカレーターで強制的に通り過ぎてしまう八景島などと違ってゆっくり立ち止まって見ることができる点だ。今日は混んでいると言っても親子連れがメインなのでたかが知れている。
「うわぁ、やっぱりきれいね」
「そのまま上を向いてて」
「もちろんよ。ほら、魚のお腹が見えるの。その上に水面があるなんて、テレビでしか見たこと無いもの。水面がキラキラ輝いてクリスタルみたい・・・・」
「クリスタルって見たことあるの?」
「水晶の事?。もちろんあるわ」
「失礼しました」
「ねぇ、こんな場所でも綺麗に撮れるの?」
「もちろん。ただ、肌の色が少し変わるけど」
「ええ?乙女の肌が綺麗に撮れないの?」
「え?だれ?」
昌代はわざと怒って見せた。その後ろを鮫とマグロがスーッと抜けていく。今、二人は間違いなく海の中でデートしていた。
康司は魚をバックにした昌代の写真を何枚も撮った。スナップの技法を使ってあらかじめ撮影条件を決めてカメラにセットしてから昌代にカメラを向けて撮ったので、カメラが二人の間の空間を占拠するのはほんの2,3秒であり、誰の邪魔をすることもなかった。そして人の流れが途絶えると、康司は昌代に露出を合わせてじっくりと撮った。
「ダメよぉ、そんなにレンズを向けられたら恥ずかしい」
昌代は笑いながらシャッター音を聞いた。
メインとなるトンネル水槽を抜けると、そこから先は体験コーナーが続く。自分たちで確認して楽しめるのは良いのだが、カメラを持っている康司にしてみれば、余り良い写真が撮れるわけではないので昌代のお付きの人になりきるしかないのがちょっと面白くない。
しかし、昌代も分かっていたようでその辺りはそこそこに切り上げ、また近くの階段から一回りしてトンネル水槽に戻ったりした。
そして最後は出口手前のシャークホール鮫をたっぷり眺めて外に出た。さすがに昌代も大きな鮫が泳ぎ回る水槽の横でにっこり笑って写るのは無理だったらしく、どんな表情を見せてくれるのか期待していた康司の予想に反して素知らぬ顔で簡単に通り過ぎてしまった。
外に出ると、少し離れた場所にアザラシ館があり、こちらではアザラシが上下に活発に動く様を楽しむことができ、短いがトンネル水槽になっているし、通路の間をアザラシが通り抜けていくので康司はアザラシの向こう側に昌代を入れることができ、まるで一緒に泳いでいるかのような写真を撮って貰うことができた。ここで昌代はかなり真剣にへばり付いてしまったので、写真を一通り撮りおわった康司は手持ち無沙汰で少し暇を持て余してしまった。
水族館を出てきた二人は、もうどこから見てもラブラブのカップルになっていた。
「昌代さん、お腹減った?」
「康司さんは?」
「うん、少し・・・・」
「少しだけ?」
「え?あの・・・うん・・・」
「私、凄く減った」
「そうなの?」
「そうでしょ?だって、もう1時回ってるのよ。康司さん、お腹減らないの?」
「そんな訳じゃなくて・・・・」
しどろもどろになっている康司を見て、昌代は気が付いた。亮子は余りたくさん食べないので、女の子はそう言うものだと康司が思いこんでいたのだ。もちろん、昌代だってそんなにたくさん食べるわけではないが、小柄な亮子に比べれば昌代の方が食べるのは間違いなかった。昌代だって大柄ではないのだが、小柄で可愛らしい女の子にあこがれる気持ちはあった。ちょっと昌代はコンプレックスを感じてしまった。
「うん、康司さんが好きなものでいいわ。マックでもなんでも・・・」
「そう言われても・・・・」
「康司さん、ハイ、がんばって」
「分かったよ。どこに入っても知らないぞ」
そう言って康司が歩き出すと、昌代も大人しく付いていった。
しかし、なんと康司が入ったのは駅近くの中華料理屋だった。昌代ははっきり言ってがっかりした。また中華なのだ。カチンと来た。
「昌代さん、ここでいいかな?」
「うん、いいけど、ちょっと言わせて欲しいの」
その昌代の言い方に康司はビクッとした。
「私、中華料理は好きだけど、こういう時って普通、他のところに入らない?マックだって良いのよ。だって、この前も学校の近くの中華だったわよ?私、中華しか食べないなんて事無いのに」
「うん、わかった・・・」
「それと、やっぱり『昌代さん』て言うの、止めて欲しいな。『昌代』か『サヨ』にして貰えない?」
「え?いいの?」
「一生懸命『昌代さん』て言ってくれるのは分かるけど、どうも私が慣れてないの。丁寧なのは良いんだけど。ごめんなさい。だから、ね?」
「うん、分かった。それじゃ、『昌代』って呼ぶから中華を食べようよ」
「ええ?交換条件なの?私の名前と?」
「さっきからどうしても中華飯が食べたくて、お願い」
康司はなんとか軽い雰囲気のまま食事にしたかった。。
「えぇえ、いいですよ。中華飯には負けるわけね、私って・・・」
「そんなんじゃないけど・・・・」
「良かった。実は腹ぺこなんだ」
「そうなんだ。ちゃんとそう言えばいいのに」
「だって、そんなこと言っちゃ悪いかと思って」
康司は昌代が念入りにドレスアップしてくれたのに直ぐにお腹が減った、と言うと昌代に悪いかも知れないと思ったのだ。もしかしたら、もっと二人で歩いたり、写真を撮ったりしてからの方が良いかと気を使ったのだが、昌代はそれを誤解した。
「私だってお腹くらい減るわよ。でも、そんなに大食いって訳じゃありませんからね」
「ごめん。そんなこと思ってないよ」
「そんなことって何よ?」
「いや、昌代、が大食いだなんて思ったこともない・・・・」
康司をじっと見ている昌代の雰囲気がどんどん悪くなっていくことに気づき、気持ちを切り替えようとした。
「それじゃ私、野菜ラーメンにする」
「ラーメンと来たか・・・・」
「いい?」
「もちろん。すみませーん、中華飯大盛りと野菜ラーメン下さい」
「康司さんの分は自動的に大盛りになるのね」
「まさよさ・・・・、昌代も大盛りにするの」
「そんなことするわけ無いでしょ」
「なんだ。大盛り、付き合うのかと思ったのに」
康司は茶目っ気を出してそう言ったのだが、この場合は最悪の選択だった。
「私が?ねぇ、私ってそんなに大食いに見えるの?」
「そう言う訳じゃなくてさ・・・」
「康司さん、・・・・・・・・」
「ん?」
昌代は思わず『どうせ私はアキみたいに小食じゃないわよ』と言いそうになって慌てて言葉を変えた。
「康司さん、これって一応、二人だけの時間なのよ、今日は。分かってる?」
「もちろん。だからカメラだって良いのを準備してきたし、フィルターだって新しいの買ってきたし・・・・」
なんか雰囲気が怪しくなってきた。さっきまでは笑いながら文句を言っていた昌代の表情がマジになってきている。
「カメラの準備だけでしょ?」
「そんなこと言われても・・・」
「良い写真が撮れればそれで良いの?」
「そんなこと無いよ。良い写真を撮れば昌代さんが喜ぶかと・・・」
「私、今日写真を撮って貰うためだけに水族館に来たんじゃないのに」
「だって、電話で写真を撮って欲しいって・・・・」
「楽しい想い出の写真が撮って貰えればいいって思ったから」
このままでは泥沼にはまってしまう。康司は音を上げた。
「ごめん、上手く言えないよ。・・・ごめん」
康司の様子を見て、昌代も自分が変なところでムキになっていることに気が付いた。
「康司さんは悪くないわよ。私が変に絡んだのかも・・・・」
「ううん、なんか、悪いことした・・・気がする・・・ごめん」
「とにかく食べましょ。まずお腹に入れないと」
二人は手早く届いたものを食べた。康司はさっきあれほど食べたかった中華飯なのに全然美味しいと思わなかったし、昌代に至っては麺類を頼んだことを後悔していた。少なくとも最初のデートで食べるものではない。
康司が黙々と食べたので、康司が食べ終わっても熱い麺をすすっている昌代は半分ほどしか食べられなかった。康司の目の前で麺をすするのは結構恥ずかしかった。そして『何よ。私はアキほど可愛くないかも知れないけど、そんなこと最初から分かってたことじゃないの。私にもう少しだけ気を使ってくれたって・・・』と心の中でぶつぶつ言っていた。
昌代が不満そうなのは康司に痛いほど伝わってきた。どこかで何かを間違えたらしく、昌代はとにかく不機嫌なのだが、必死にそれを抑え込もうとしている。康司は打開策を探したが、どうすればいいのか分からなかった。このまま写真撮影をしても結果は見えている。
昌代が食べ終わる頃、康司は昌代のコップに水を足してみたが、昌代は何も言わなかった。しかし、昌代の心の中では『康司さんが気を使ってくれてるじゃないの。いい加減に機嫌を直しなさいよ』ともう一人の自分が言っているのだが、『そんな簡単に機嫌が直るくらいなら苦労しないわよ』と思った。
昌代が食べ終わってから康司はお金を払って出た。昌代はお金を出そうとしたが、
「俺が奢るよ」
と康司は受け取ろうとしなかった。
昌代は更に気まずくなった。『何とかならないの?』そうもう一人の自分が言っている。
店を出ると康司は歩き出した。昌代はどうして良いか分からずに後ろから付いていく。そんな昌代に気づいているのか康司はどんどん歩いていき、来る時に降りた京急大森の駅を通り過ぎてまだまっすぐ歩いていった。
あまりに康司がどんどん歩いていくので昌代は心配になって、
「ねぇ、駅は過ぎちゃったわよ」
と言ったが、康司は振り返らずに、
「分かってるよ。もう少しだから」
と言って更に歩いた。昌代はなんか今日のデートはもうお終いだな、と言う気がしてきた。雰囲気が悪いままずっと過ごすよりも、日を改めて最スタートした方が良いかもしれない、と思ったりした。