第56部
すると、康司はショッピングセンターの前を通り過ぎ、直ぐ向こうの道路沿いの右側に立っている大きなガラスだらけのビルに入っていった。昌代は康司が何をしたいのか分からなかったので、ビルの入り口で思い切って追いついて言った。そこはちょっとしたショッピングモールになっていた。
「ねぇ、何するの?」
「ちょっと忘れ物を・・・・・」
ショッピングモールに入って『何するの?』と聞く昌代も変だが、康司の答はもっと変だ。こんな所に忘れ物などあるはずがない。昌代は一瞬、康司にバカにされたのかと勘違いした。
「この上だよ」
そう言って康司が昌代を連れて行ったのはビルに囲まれたアトリウムの上の方にある3階のギャラリーだった。そこでは日本画の展示会か何かをやっていたが、どうやら素人の絵らしく入場は無料で、人影もほとんど無かった。
「康司さん?これを見るの?」
昌代が不思議そうに尋ねると、康司は昌代をグイッと引っ張ってコーナーに引き込むと、
「忘れ物って言ったろ?」
と言っていきなり昌代にキスをしてきた。
「ちょっと!何?いきなり・・・・んんっ・・・」
昌代はびっくりしたが、康司はかなり強引で、しっかりと昌代の口を捉えて放さなかった。最初はもがいていた昌代が直ぐに抵抗を止めた。周りに誰もいないのは分かっていたし、自分でも不思議だったが何よりも安心したのだ。そして『これなんだ。だから康司さんが好きなんだ』と心の中で思った。そして昌代は手を康司の首に回した。そしてお互いを確認するように唇と舌を使って気持ちを伝え合った。
二人はそのまま1分近くキスをしていた。
やっと唇を離した時、昌代は急に恥ずかしくなって下を向いてしまった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない・・・・」
昌代は心臓がドキドキしており、息も荒くなっていた。とにかくちょっと一息入れないと大変な感じだ。
「悲しくなったの?」
「ううん・・・ちがう・・・・」
「怒った?」
「ちがうの。そうじゃなくて・・なんか、嬉しい・・・」
「良かった。それじゃ、も一回」
「んぐっ!」
康司はもう一度短いキスをした。昌代は心臓が破裂しそうなまま応じたが、気持ち的にとてもゆっくりキスできる状態ではなかったので、直ぐに康司をそっと押しのけた。
「だめよ。こんなところじゃ」
「そんなこと言って、さっき手を回してきたのは誰?」
「もう!バカ、どうしてそんなこと言うの?」
「怒った?」
「怒ってないわよ。怒ってないけど」
「けど?」
「もう良いわ。行きましょう」
「もう行くの?」
「やりたいことやったんだから、もう良いでしょ?」
「昌代って、結構大胆なこと言うな」
「大胆なことしたのは誰よ」
「それは俺だけど」
二人はエスカレーターで降りながら気持ちが解れていくのを感じていた。
「ちょっと休んでも良い?」
「うん、いいけど????」
「マックでお茶してかない?とにかく座らせて」
そう言うと昌代はエスカレーターの下にあったマックに入り、さっさとウーロン茶とアップルパイを二つ買って席に座った。幸い店は空いていた。昌代は静かにお茶を飲んで息を落ち着かせた。まだ心臓がドキドキしている。昌代だってキスになれていないわけではないが、今回は余りにも唐突すぎた。今頃になって顔が火照ってきたのが自分でも良く分かった。
昌代の様子を見ていた康司が、
「どうしたの?だいじょうぶ?」
と聞くと、
「うん、大丈夫。だけど、誰かのおかげで心臓が破裂するかと思ったわ」
と言った。
「どうして?ちょっとキスしただけなのに?」
そう言っている康司も顔が赤くなっている。昌代はまずウーロン茶をゆっくり飲んでから康司の顔を見た。
「あのね、教えて欲しいんだけど」
「なに?」
「どうしてあのギャラリーに行ったの?」
「わかってるだろ?」
「何であそこを知ってたの?」
「あそこは公共施設なんで、時々アマチュアカメラマンの写真の展示会なんかが開かれるんだ。カメラ仲間に誘われたこともあるけど、展示する時はお金を出さないといけないから出さなかったんだ」
「そう・・・」
「納得した?」
「って、そんな訳ないでしょ。何であそこでなの?」
「だから、あそこがたいていガラガラなのを知ってた・・・」
「違う違う。どうして中華料理屋を出て次にしたのがあれなの?」
昌代の口の中にはまだ康司の舌の生々しい感覚が残っていた。
「だって、口では上手く説明できないって言うか、・・・・何を言っても悪い方向に行っちゃうから、だから・・・・あれが一番正直な気持ちを伝えられるかなって思ってさ・・・・」
昌代は康司を問い詰めているつもりだったのに、いつの間にか聞いている方がもっと恥ずかしくなってきた。康司が恥ずかしそうにぼそぼそと言っていることを誰かに聞かれないかと心配でキョロキョロしていた。
「それで?」
「え?」
「やりたいことをやったんでしょ?それで、どうだったの?」
「え?だって・・・それは・・・・・」
「聞かせて」
昌代は精一杯に強がって見せたが、康司の口から康司が昌代のことを思い始めていると言う言葉を聞いてみたかったのだ。ただ、聞けばもっと顔が赤くなりそうだったが。
「それは・・・やっぱり良かったなって・・・・。昌代・・が今の俺には必要かなって・・・落ち込んでたから・・・・分かってるんだろ?俺の状態・・・・」
「状態?」
「アキちゃんが消えちゃったんだ・・・・」
突然話が予期しない方向へと進んでいった。
「・・・・・やっぱりね・・・・」
「気づいてたんだろ?」
「なんとなく・・・・」
本当は何となくじゃなかったが、そう言うことにしておいた。男にはたぶん理解できないだろうから。
「嬉しかったんだ。俺に気を使って可愛らしくしてきてくれたこと」
康司は『何で俺はこんなことしゃべってるんだ』と思いながら話し続けた。
「俺は昌代のそう言う優しさが嬉しかったんだ。だから何とか喜んで欲しかったんだけど、どうも下手みたいで・・・・上手くできなくて・・・・・怒らせちゃって・・・・ごめん。本当にごめんな」
康司の言葉を聞きながら、その言葉の向こうにはついこの前自分が味わったようなどうにもならない悲しい思いが横たわっていることを感じていた。
「本当に、あれしか思い付かなかったんだ・・・・。怒るかなって思ったんだけど・・・・でも・・」
「康司さん」
「え?」
「私の方なの・・・」
「何が?」
「私の方がお礼を言わなきゃって思ったてたのに・・・・」
「私も振られたの」
「えっ?振られたの?そんなことって・・・・」
「どうして?私が振られたら可笑しい?」
「そんなこと無いけど、昌代が振られるなんて・・・・」
「私だって、私の写真が男子の間で回されてることぐらい知ってるわよ。でも、それは写真の私。本当の私じゃない。写真の私はしゃべらないでしょ?でも私だって喧嘩もするし、すれ違いも起こすもの」
「でも、昌代はこんなに優しいのに・・・・」
康司は顔を真っ赤にして微かな声で言った。
「康司さん、嬉しいな。私の前でそうやって言葉にして言ってくれたのは康司さんが初めてよ」
「なんか、私って変な男にばっかり引っかかるのよね」
「え?変な?」
「私ってコクられた事って一度もないの」
「・・・・」
「いつも私から」
「・・・・・・」
「今回だってそんな感じでしょ?」
「そう・・・・」
「最初康司さんは大嫌いだったし、憎かった。私にあんなことして」
さすがに康司は目を伏せてしまった。
「でも、なんか暖かいの。それだけ」
「『なんか暖かい』か、それ・・・だけ・・・・」
「最初はね」
「今は?」
「すっごく暖かい」
「夏だしね」
「バカ」
「アキが参っちゃうのも分かるな」
「え?」
「確かにアキは康司さんに夢中だった。あの時は」
「あの時?」
「そう、夏休み前だったかな?アキにネガを探して欲しいって言ったことがあるの」
「そう・・・」
康司は今ここでネガの話が出たことにギクッとした。できれば避けたい話題だった。でも、出てしまったのなら仕方がない。康司は覚悟を決めた。
「その時、アキは確かに康司さんに夢中だった」
康司にとって今となっては聞くだけ悲しいことだったが、昌代は淡々と話した。
「そう、私がアキに『二人で学校を抜け出して出かけるなんてどういう事』って聞いたら『私から近づいたの』って言ったの。それで、『あいつに熱を上げてるの?』って聞いたら、『熱なんか上げてないわ。私の計画に必要なだけ』って言ったのよ」
「そうか・・・・・・・・覚えてるよ。俺の部屋でネガを探していたことがあるから」
「そう、それでもちゃんと探してくれたんだ」
「ほんの少しだけだったけどね」
昌代はどうして今になってこんなことを言う気になったのか、自分で考えてみた。今頃そんな話をしても仕方ないように思える。しかし、何となく今の康司は自分の側にいてくれる安心できる存在になっている、そんな気がしていることに気が付いた。