第59部

 「どうしたの?」

康司が唇を離しながらそっと囁いた。

「ううん、ちょっと・・・・寂しかったのかな?分かんないけど・・・」

「寂しくなくなった?」

「秘密なの・・・」

昌代の答を康司は昌代の照れだと解釈した。しかし、昌代の本心はもう少し複雑だった。安心したのは事実だった。少しだけ心もときめいた。しかし、心の中ではがっかりした部分もあったのだ。もっと全てを忘れて夢中になれる感覚が欲しかった。もっと康司に抱きしめられて自分から康司を抱き返す情熱が欲しかった。写真を撮ってもらいながら今一歩無邪気になれないのは、心の迷いが吹っ切れないからだった。

「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。行きましょ?」

昌代の様子が康司にはどうしても分からなかった。いきなりキスを求めてきたかと思えば不安そうに遠くを見たりする。康司は女心には不慣れだったが、カメラマンの性質として、被写体の視線には敏感だった。中学生の時に公園で遊ぶ子供の写真を撮り始め、視線の先には必ず何かがある、と言うことに気が付いたときに写真の腕がグンと上がった。今でも被写体の視線は常に気になる。その点、亮子はとても分かり易かった。亮子は常に康司を見ていた。亮子の可愛らしい視線の中に自分が写っていると思うといつも意欲が湧いてきたものだ。しかし、昌代は亮子と全然違った。

「どう?この辺りで何枚か撮ってみようか?」

「うん。静かで素敵なところだね」

昌代は木立の中に入っていくと、木を見上げたり木の根本をぐるっと回ってみたりして康司が写真を撮るのを肌で感じていた。その昌代を撮りながら、康司は一つ見つけたことがあった。『そうか、昌代の良さは手足が素直に伸びていることなんだ』それはごく写真的な言い方だったかも知れない。しかし、昌代は公園の中で自由に手足を伸ばして動き回っていた。広いところに出て、素直に身体を伸ばせる人は意外に少ない。たいていは自分の安全圏の中に還って閉じこもろうとして手足が縮こまるのが普通だからだ。その点、昌代の身体はいつもスッと伸びきっていた。だから写真を撮ると綺麗に写るのだ。

「ねぇ、さっきのお堀の方へ行って良い?」

「いいよ」

「なんか、こっちに来ると、あっちの明るい方にどうしても意識が行っちゃって」

「それなら、右の方から回っていこう。浮島があるよ」

そう言って二人はゆっくりと歩き始めた。

「ねぇ、さっきから少し撮影のペース、落ちてない?」

「そう?わかった?」

「私、さっき、あんなこと、したから?」

「違うよ。全然違う。もっと写真の撮影テクニックのことなんだ」

「私、分かんないもの・・・・・・・」

「いいよ。気にしなくて」

「ねえ、私にも撮らせて!」

「え?昌代が?」

「大切に撮るから、ね?良いでしょ?お願い」

昌代は康司に向けてカメラを渡すように手を伸ばしてきた。確かに一眼レフとはいえ、ピント自体はオートフォーカスだし、露出だって自動だから昌代でもシャッターを押せばそこそこの写真は撮れるだろう。でも・・・・、康司は少し迷った。

「だめ?」

昌代がちょっと心配そうに聞いてくる。康司は心を決めた。

「いいよ。やってみて」

「わあ、楽しみ。このままシャッターを押すの?」

「それじゃ、基本中の基本だけ教えるね」

「教えて教えて」

「まず、左手の脇を締めて掌を上に向けて、そう。カメラをこうやって持つの。そうだよ。それを自分の顔へと持ってきて、右手をその上から被せる。そして人差し指をシャッターに。そう」

「左手は?」

「左手の親指と人差し指でレンズの外側を回すんだ。覗いてごらん」

「うわぁ、綺麗。こんなに綺麗だなんて」

昌代は簡単な使い方だけ教わると、康司にレンズを向けた。

「え?俺を撮るの?」

「そうですよ。どう?撮られる気分は?」

「なんか、変な気持ち・・・・。って、恥ずかしいよ」

「そうでしょ?私の気持ち、少しは分かった?」

「それを言いたかったの?それならもう分かったから返して」

「ダーメ、これから写真を撮るの。こっちを向いて」

「俺、そんなこと、言わなかったぞ。子供の入学写真じゃないんだから」

康司は昌代に付き合っていられない、とばかりに木の根に腰を下ろすと昌代とは違う方向を見た。

昌代は生まれて初めて、レンズの中での魔法を見た。ファインダーの中の康司が横顔を見せている所を風が吹き抜けていく。夏とは言え、この公園には一年中ある程度の落ち葉はある。それが風に舞いながら康司の横をすり抜けていく。

「綺麗・・・」

思わず昌代はつぶやいた。本当にため息が出るほど綺麗な一瞬だった。昌代の目はファインダーの中の康司に釘付けになった。

「どうしたの?」

康司は昌代がじっとカメラを向けたまま動かないので少し不安に思った。

「もう少し、このまま・・・・・」

「良い写真が撮れた?」

「え?あ、写真を撮るんだった」

「何してるんだい、全く」

「もう少しこのままでいて、お願い」

昌代はシャッターを押し忘れていたことに気が付いた。しかし、それからは少しだけ風は吹いたが、昌代の心に焼き付いたような風は吹かなかった。何度かシャッターを押しては見たが、思ったようなものではないことが最初から分かっていた。

「どう?撮れた?」

「代わって」

「え?」

「今度は私がそこに座るから交代」

昌代はそう言ってカメラを渡すと、康司と同じような姿勢で座った。

康司は少し自分の位置を修正していたが、直ぐに立て続けに3枚写真を撮った。昌代には不思議だった。シャッター音がしたとき、そんなに強い風は吹いていなかったのだ。

「見せて」

そう言って昌代は康司の所に来ると、ベンチに座って自分の撮った写真と康司の撮った写真を見せてもらった。そして何度か交互にお互いの写真を見比べた。もちろん、差は歴然としていた。

「教えて。解説して欲しいの」

「良いかい、昌代はズームを使って構図を決めてから全然動かしてないだろ?だからこういう感じになってるんだ。でも、構図はとっても良いよ。俺が写ってるのが変な気分だけど」

「うん」

確かに、昌代の写真は康司が綺麗にフレームの中に収まっていた。美術の得意な昌代ならではの構図設定と言えた。それは絵画のように止まった時間を写していた。しかし、康司の写真は連続して時間を切り取っていた。最初の写真こそは余り昌代のと変わらなかったが、もっと昌代自体が生き生きと写っていた。そして、一度目のシャッター音に気づいて振り向いたときの昌代の驚きと、そこに風が少し吹き抜けて髪が軽く顔に絡む様子が大胆なズームで生き生きと写されていた。

「昌代、何かを待ってたの?」

「そうなの。最初、カメラを構えて直ぐに落ち葉が舞いながら康司さんの横を吹き抜けていって、それがとっても綺麗だったから風を待ってたのに」

「俺も経験があるよ。でも、二度と無かったろ?」

「そうなの」

「スナップの時は待ってても二度と同じ瞬間は来ないよ」

「そうね・・・・。意地悪なんだ・・・・」

「そんなこと言うなよ。自然に対して失礼だぞ」

「康司さんには参りました」

一台のカメラを二人で覗いていたのだからいつの間にか二人はピッタリとくっついて座っていた。ふと同時にお互いを見つめると、びっくりするくらいの近さでお互いの顔がある。康司は昌代の肩に手を回すと、そっと昌代の顎を康司に向けて上げた。

「ちょ、ちょっと・・・」

昌代は最初、周りを気にしたが、誰もいないことが分かると素直に目をつぶってきた。

「ん、んっ・・・・」

康司は少しだけ舌を入れてきたが、昌代は可愛らしく少しだけ応じた。身体が一瞬にして熱くなる。しかし、康司が更に舌を入れてきたのでゆっくりと康司を押しのけた。これ以上するとブレーキが効かなくなりそうな気がした。

「もう、何するの・・いきなり・・・だめ、こんなとこじゃ・・・」

そう言っている昌代は恥ずかしそうだった。そして、昌代はさっきは見つからなかったのに心の中で探していたものが沸き上がってくるのを感じていた。康司に頼りたくなる切ない思いで胸の中がいっぱいになっていた。『これだ』昌代はそう確信した。自分が逆立ちしても届かないことのできる人、自分をごく普通の女の子に見てくれる人、昌代が求めていたのは正にそんな人なのだ。そして康司の強引さも好きだった。

「良いだろ?キスぐらい」

康司はそう言ってもう一度唇を近づけてきた。昌代は軽く応じようとしたが、視線の先に歩いてくる人を見つけると、

「ダメ、人が来るの」

と言って顔を背けた。

「ケチ」

康司はちょっとだけ拗ねて見せたが、人通りの多い公園の中で迫っても仕方がない。

「それじゃ、撮影を続けようか」

と言って立ち上がった。すると昌代は、

「後でもう一回さっきの場所に行きたいの。良い?」

と聞いてきた。康司はその意味が分からなかったが、

「良いよ。どうせ入り口はあそこなんだから、あそこに戻るし」

と気楽に答えると、昌代を連れて中島の御茶屋と呼ばれる池の浮島に作られた茶屋を通って海の方へと歩いていった。

浜離宮の中で康司が一番好きな場所、それが横堀と呼ばれる海水を入れて作った堀の周りだった。康司はそこに着くと、昌代から離れてカメラを構えた。昌代は正直に言って、もうこれ以上写真を撮っても仕方がないと思った。自分は探していたものを見つけたのだから、後は康司と一緒にいたかった。その昌代の気持ちが康司の覗いているファインダーに直ぐに表れた。

康司が昌代を遠景で捉えようと離れると、昌代の動きがぎこちないものになり、昌代に近づいてアップを撮るときは笑顔で甘えたような可愛らしい表情になる。康司はそれを不思議に思いながら何度も近づいたり離れたりして写真を撮り続けた。もともと昌代はスタイルが良いので、少し離れた所から撮るとバックの木と調和して素晴らしい写真になるはずだった。

しかし、康司自身、今日はアップで撮った方が良い写真になると思いながら撮影を続けた。

二人が写真を撮りながら築地川の河口の方まで来ると、昌代は桟橋を指さして聞いてきた。

「ねえ、あれはなあに?」

「あれ?水上バスの乗り場だよ」

「どこに行けるの?」

「えっと、日の出桟橋だったかな?」

「乗っても良い?」

「え?良いけど、乗っちゃうとさっきの場所に行けないよ?」

「そっか・・・・。どうしようかな?ねぇ、乗っても良い?」

「うん、良いよ。せっかくだから乗っていこうか?」

「うわぁ、楽しみ」

「だけど、そんなに都合良く水上バスが来るかなぁ?」

そう言いながら二人は桟橋まで来たが、運良く十分ほど待てば来ることが分かった。

 

 

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