第72部

「え?」

「いいか、最後の写真だけISO400のフィルムが入ってるんだ。後は100なんだよ」

「ISO???」

「フィルムの感度なんだ。数字が大きいほど暗い場所でも良く写るんだ」

「それなら暗いところで良く写る方が良いじゃないの」

「ところが、暗いところで良く写るフィルムは粒子が粗いんだ」

「粗い?ううん、ザラザラしてるって事?」

「そうだよ。良く分かってるな」

「ふぅん、そうなんだ・・・・・・」

「だから本物の風景とかグラビアの撮影では感度が50とかのフィルムも使われるんだ」

「そうかぁ、フィルムの感度が違うとこんな感じで違いが出るんだ」

「そう、感度の悪いフィルムの方が綺麗に写ってるだろ?」

「そう・・・・かな・・・・・???」

「引き伸ばすとはっきり分かるんだけどね」

「そうなの。でも、これがベストショットなんでしょ?」

「そうだな、それと、えーと、これだとどっちがいい?」

「へぇ、これ、私?」

「誰なんだよ」

その写真は並木を歩いてくる昌代を正面から撮ったもので、昌代が明るく笑いながら片手を上げている。先程の横から撮った写真は歩いている姿を綺麗に撮ってあったが、今度のは昌代の表情が実に生き生きとしている。

「そうね、私だったらやっぱりこっちだな」

そう言って昌代は笑顔の写真の方を取った。

「そうか、やっぱりな。でも、これも良く撮れてるんだけどな」

「そうよ。綺麗に撮れてるし、私だって綺麗に写ってる。それは嬉しいの。でも、今の私が撮って欲しいのはこっちの写真なの」

「分かったよ。それじゃ、これが今日のベストショットだな」

「他にはないの?」

昌代は康司にそう言って更に写真の解説をねだった。康司は丁寧に解説していたので、全部終わってふと気が付くと9時近くになっていた。もともと写真を取り終わってここに来たのが7時頃なのだから、食事をして話をしながら写真を見ていればそれくらいの時間になるのは当たり前なのだが、さすがにこの時間から康司の部屋に行けば着くだけで10時過ぎになってしまう。二人でベッドに入れば真夜中を越えることは確実だった。

「もう、こんな時間になっちゃったね」

昌代が時計を見て少し寂しそうに言った。

「お、もうこんな時間か・・・」

ふと周りを見ると、がらんと静まりかえっており、フードコートの店も後片付けを始めている。二人は誰に言われたわけでもないが、自然に写真を片付けて店を出た。

「なぁ、これから家に来るか?」

「ごめん。この時間だと無理」

「そうか・・・・」

「だって、これからだと帰るの遅くなっちゃうし」

「ちょっとしゃべりすぎたな」

「そんなこと無い。とっても楽しかった。康司さんと二人だけでゆっくり話をしたの、ほんとに久しぶりみたい」

「何言ってんだ。先週も家に来たろ?」

「ごめんなさい。なんか、そんな気がしたの」

確かに康司の部屋に入ると、何かに追い立てられるようにお互いを求め合ったので、身体は満たされても会話は少なかった気がする。最初、昌代は康司が欲しくて仕方なかったが、今はそれほどでもない。きっとたくさん会話して心が満たされているからなのだろう。

「そうか、少しだけでも、無理か?」

康司はまだ未練があるようだ。昌代はちょっと悪戯心を起こし、康司にピッタリとくっついて歩きながら小さな声で言った。

「康司さん、私が欲しい?」

昌代は康司がちょっと怒って否定するものと思ったが、

「・・・そうだな・・・・」

と言ったので少し驚いた。そんなに正直に言われては困ってしまう。

「ごめんなさい。本当にダメなの。もう、門限過ぎてるもの」

「そうか・・・」

「また今度、ね?いいでしょ?きっと部屋に行くから」

「いつになる?」

「えーと、明日は交流会に出るし、明後日は片付けとその纏めだし、木曜日なら」

「そうか、木曜日だな」

康司はそう言うと黙り込んで歩き出した。こう言うとき、昌代としては何もしてあげることができない。何かしてあげたいのだが、昌代だって守らなくてはいけないこと、大切にしなくてはいけないことがある。高校生である以上、康司の側に居てあげたくてもそうできない理由がたくさんあるのだ。特に女の子ともなればなおさらだ。昌代は康司にもそれは分かって欲しかった。

結局、二人はそれから殆ど話もせずに電車に乗った。昌代は電車を乗り換える度に別れの時間が近づいてくるのが寂しくて、思わず康司に話しかけた。

「ねぇ、康司さん、怒ってる?」

「なにを?」

「私が今日一緒に行けないこと」

「怒ってなんか無いさ。ただ、気が抜けただけ」

昌代はそんな風に自分の弱さを平気で見せる康司に、逆に愛されている実感を感じた。

「ちょっとお茶していくくらいなら」

「いいよ。きっともっと一緒にいたくなるから。中途半端だろ?」

「ごめんなさい」

康司は昌代の言葉など耳に入らないかのように、ぽつりと聞いた。

「写真、気に入ったか?」

「うん、凄く。ねぇ、あの写真でどこかに応募してみたら?」

「写真雑誌にか?」

「写真のコンテストとかに。ねぇ、凄く綺麗に撮れてたもの」

「でも、コンテスト用に撮ったんじゃないしなぁ」

「そんなの関係ないわよ。ねぇ、応募してみて?」

昌代は少しでも康司を元気づけたくて言っただけなのだが、康司は少しずつ真剣に考え始めたようだ。

「後で家でネガをもう一度調べてみるよ。自動現像じゃ味わい無いしなぁ」

「それじゃ、もし気に入ったら応募してみて?」

「そうだな、気に入ったのがあればな」

「ねぇ、どこに出すのがいいの?」

「スナップ系の写真を扱ってる雑誌だな。カパ辺りか・・・」

「それって凄いの?」

「凄くなんかないさ。でも、有名だし発行部数は多いよ」

「出したこと、あるの?」

「中学の時にな」

「どうだった?」

「佳作に入ったよ」

「凄い。だって、今の康司さんはその頃よりずっと上手くなってるんでしょ?」

「そりゃそうだけど、みんなそうなんだよ。だからレベルは分かんない」

『だって、アキの写真が載るくらいだから・・・』と言いかけて昌代は慌てて黙り込んだ。何か話しかけたくて仕方ないのに、無理に話を繋ごうとしてとんでもないことを言いかけている。それでも昌代の心は康司を求めていた。なんか、このまま別れると康司がふっと居なくなってしまいそうな、そんな気がする。『親に電話して外泊しちゃおうか?』普段の昌代なら考えるはずのないことを考えてみる。少しの間ぼうっとしていると康司が降りる駅に着いた。

「でも、なんか良い写真が出せないか、考えてみるよ。じゃあな」

康司はそう言うと電車を降りていった。昌代は本当に康司の後に付いていこうとしてドアを一度は通り抜けた。その気配を見て康司が振り向く。

「ん?」

「ううん、何でもない。バイバイ。またね」

はっとして立ち止まり、慌てて気持ちを込めて手を振り、昌代はまた電車に乗った。振り向こうとした途端ドアが閉まる。

「あ!」

昌代は思わずドアのガラスにへばり付いた。もう康司は改札に向かって歩き始めていた。『何なんだろう?この寂しさは?いつでもまた会えるのに?』自分自身でも不思議なのだが、寂しくて仕方がない。気が付くと目に涙が浮かんでいた。『私、そんなに康司さんのことが好きなんだな・・・・』ちょっと不思議な気がする。

翌日、昌代は目を覚ました途端、携帯のメールをチェックした。『あった!』康司からの返事が入っている。まだ読まない内から一気に心が落ち着いた。『良かった、なんか昨日の私、普通じゃなかったんだ』そう思って朝の支度に取りかかった。

康司はごく普通に寝坊すると、ごく普通に自分で出かける支度をした。昨日は昌代を抱けなかったので少し残念だが、ほんの少し我慢すればいいだけだ。今の自分はあの橘昌代を好きなだけ抱けるのだ。それをたぶん、まだ学校の誰も知らない。自分から自慢する気もないが、今まで遠かった女の子が一気に自分の一番近くに来るというのは不思議な気がする。ただ、学校が始まると昌代との関係がどうなるのか少し気になった。

康司は家を出て駅へと向かっていった。今日はまず知り合いのカメラ屋に行って交換レンズの分解掃除について話をしてこなくてはいけない。もともと殆ど気になる程度ではなかったのだが、この前昌代と海沿いで写真をたくさん撮った後の掃除が十分ではなかったらしい。まだ画像に影を落とすほどではないが、レンズをよく見ると奥の方に明らかにカビと思われるものが付いていた。いくら康司がハイアマチュアとはいえ、交換レンズを自分で分解することはできない。第一、工具がない。康司はその打ち合わせが終わったら、そのカメラ屋で一番仲の良い人に昨日撮った写真を見てもらってコンテストに出せるかどうか相談してみるつもりだった。

康司が家を出た同じ頃、昌代は学校にいったん集まってから近くの高校の生徒会との交流会に出かけていった。本音を言えば交流会などは殆ど無駄な集まりだと思っている。よほど他校のやり方を取り入れたいと熱心な生徒会長でもいれば別だが、どこでも自分たちのやり方は守りたいし、他校のやり方を見ても単に感心するだけだ。

おまけにどう見ても目立つ昌代に対する目つきがどこに行っても気になる。どうも無理に自分に意見を振ってくるなぁ、と思うことだってあるし、交流会が終わってから誘われることだってある。しかし、昌代は生徒会を恋愛の道具に使うつもりなど入学した時から無いので、丁寧に断るのに苦労するのがうっとうしかった。

それに、交流会が終わった後は面倒なことが多い。今日だってまだお昼前だが終わるのは夕方で、それまでぎっしりとプログラムが詰まっており、終わった後は生徒会で近くのファミレスに行って簡単な打ち上げをするのが定例になっている。そして明日は交流会で話をしたことの纏めをやらなくてはいけない。それを綺麗にファイルに纏め上げて記録として残さなくてはいけないのだ。

『それでも、明後日になれば康司さんに会いに行ける』昌代は誰にも決して打ち明けることのない心の奥底に締まってある楽しみを胸に、いつものように、明るく楽しく元気よく、生徒会での書記として発言を記録し、確認し、発表していた。

昌代が交流会でうんざりしている頃、電気屋で寄り道をした康司はやっと駅に着いた。行きつけのカメラ屋は少し離れた街にある。電車に乗る前にパンとジュースでも買っておこうとかと思って視線を動かしたその先に、亮子が立っていた。

一瞬、足取りが止まる。亮子もじっと康司を見ている。康司は視線だけでなく、ほんの少しの間完全に凍り付いたように亮子を見つめていた。

亮子は康司の方へ歩いてきた。表情は以前のように明るくはない。

「アキちゃん・・・・・」

「康司さん・・・・・」

二人はまるで偶然出会ったかのように、何を口に出していいのか迷いながら立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

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