第1部
「10センチの距離」
『またか、なんでこんなことになるのか』携帯でニュースを読みながら晃一は心の中で独り言をつぶやいた。混雑しているとは言え、昨日も晃一の使う沿線の駅で老女がホームから落ちたというのだ。いくら混んでいてもホーム際はいくらかスペースはあるし、自分もよくホーム際を歩くこともあるがそれほど危険を感じたことはない。時々、電車が入ってきているのにホーム際を急ぎ足で駆け抜けていく若者はいるが、ものの見事にすり抜けていくのが普通だ。たぶん、老女は誰かに当たるか何かをしてバランスを崩し、ホーム際の狭いスペースでは体勢を整えられずに落ちてしまったのだろう。ニュースの解説にもそれに近いようなことが書いてあった。
晃一は混雑している朝の電車の中で携帯のネットを使って次々とニュースをチェックしながら、新しい情報を仕入れていった。一通りチェックし終わるまでそれほど時間はかからない。ふと、そう言えば最近自宅で新聞を読まなくなったと思った。一人暮らしなので自分が読まなければ新聞など紙くずを買っているようなものだ。『解約するか』と考えてみた。
通勤電車で降りるまでに揺られるのは約40分。近くはないのだが会社の社宅に入っているので気は楽だ。おまけに、快速の始発駅なのでたいていは座って来られる。社宅を出て会社に近いところに部屋を借りるだけの余裕はあるが、転勤で数年毎に引越しをする身としては、苦労して探して高い金を払ってまで10分か20分通勤時間を短くする気にもならない。おかげで今日も満員電車でゆっくり座っていくことになる。
もう慣れてしまったが、満員電車に毎日揺られるのが時間の無駄のような気がして仕方なかった。『この電車に乗ってるほとんどの人はそう思ってるんだろうな』と自信を持って言える。ただ不思議なのは、これだけ毎日ほぼ同じ時刻に電車の同じ場所に乗っていても、顔を覚える人がほとんどいないということだ。ほとんどの人は、完全ではないにしても、同じ時刻に同じような電車の同じような車両に乗っているはずだ。降車駅や乗換駅での階段の場所に近くなるように乗るのが一般的だ。だから、たぶん、視界には入っていないにしても、たとえば電車一両で見れば、かなり毎日同じメンバーが乗っていると思う。しかし、晃一もそれほど真剣に覚えようとしているわけではないので、単に気が付かないだけかもしれない。
そんな晃一はもう四十歳を超えた。会社では課長なので仕事としては毎日かなり忙しい。時々ふと、『このままでいいのだろうか?』と思うことがあるが、気にしても仕方ないし、悩みは増やしても良いことなどない。
そんな晃一の通勤電車に対する認識が変わる出来事が起こったのは、ごく普通の日で、何も特別なことなどない日だった。ただ、天気だけは良かったが。
晃一が出入り口に一番近い場所に座れた日だった。沿線の駅では次々といろんな人が乗ってくる。その中には社会人も学生もいる。次々に乗ってくるし、快速なので駅間が長く、だいたいは5分以上ある。ちょうどその日は晃一の前に一人の女子高生が立っていた。そのときの晃一は、じろじろ見上げるわけにも行かないのでちらっと腰から下を見ただけで『足の長い子だな』くらいにしか思わなかった。そして次の駅でドアが開いて一気に人が乗り込んでくると、その女子高生は足の場所が変わらないのに身体が押されて斜めになってしまった。
かなりつらい体勢なのは一目でわかった。それでもポールにつかまってしっかりと耐えていたが、さらに次の駅に停車する時、女子高生の近くにいた降りる人が無理にその子を押しのけてドアに進んだので完全に体勢が崩れた。押されたことで両手で掴まっていたポールから片手が無理に引き剥がされる。そこからはスローモーションのようだった。彼女の意思に反して身体が晃一の側に崩れてきた。そのまま受け止めようとすれば、下手をすると触っただの何だのと面倒なことになりかねない。あわてて晃一は彼女の横をすり抜けて立ち上がると、替わりに女子高生が晃一が立ち上がって空いた場所にちょうど崩れるようにすっぽりと座ることになった。その子はてっきり誰かの上に崩れ落ちると思ったのが、ちょうど座席にぴったりと座ったのでびっくりしたようだ。慌てて席を晃一に譲ろうとして立ち上がるのを手で制すると、ちょっと晃一のほうを見上げて小さく会釈をして、その女子高生はすぐに下を向いてしまった。
『まぁ、お礼を言ってほしいわけじゃないけど・・・』とは思ったが、席を譲ったにしてはあっけない幕切れだった。そして晃一がいつも使う駅で降りる時、その女子高生も降りると見えて席を立った。しかし、後は人ごみに紛れてわからなくなってしまった。
良くは見えなかったが、どうやら可愛らしい子のようだった。晃一が降りる駅には高校がいくつかあるらしく、この駅ではいつもかなりの高校生が降りていく。どこに歩いていくのか今まで気にしたこともなかったが、改札を出た晃一は初めて高校生の流れの先を見てみた。しかし、駅の出口は同じでも、晃一とは流れていく方向がまったく違っており、その女子高生がどこに行ったのかはまったくわからなかった。
その日の夕方、仕事が終わった晃一は駅の改札の手前で立ち止まり、ふと思い立って缶コーヒーを飲みながら人の流れを再び観察してみた。すると、通りの向こう側から高校生の列が流れてくるのがわかった。制服が同じだから、たぶんあの子もあちらから帰ってくるのだろう。
『まぁ、縁があればそのうちにもう一度くらい会うこともあるだろう』そう思って帰宅の途についた晃一は、いつものコンビニでつまみと弁当を買って自分の部屋に帰っていった。
その日を境に、晃一は電車の中をより注意深く見るようになった。別に特に目的があったわけではないが、強いて言えば自分の『同じ時間の同じ車両には同じ人間が乗っていることが多いはずだ』と言う自説を証明できるかどうか確かめ始めた、と言うところだ。すると、時折あの女子高生が近くに乗っているのを見かけた。すると俄然面白くなってくる。そしてしばらく経った頃、だいたい一週間に一度の割合であの女子高生が晃一の近くに立っていることを発見した。『やっぱり誰もが毎日同じことをしてるんだ』それがわかっただけでもかなり自己満足に浸れた。
そして、会社で自説を披露すると、ほとんどの人は半信半疑ながらも、
「確かに大体、と言う事ならそうかもしれないなぁ」
と同意してくれた。
次の偶然はそれから間もなくのことだった。晃一が帰るために駅の改札に着いた時はかなりの雨が降っていた。晃一はいつも折り畳み傘なので、『防水が少し弱ってきたから最近雨の切れが悪くなってるなぁ、交換するかな』と思って駅の手前のデパートのアーケードで傘を折りたたんだ時、駅のほうからあの女子高生が雨の中を走ってきた。晃一は少し遠回りだがこのままアーケード伝いに駅に行けばよいが、その女子高生は急いでいるのかアーケードには入らずに真っ直ぐ高校のほうに行くと見え、無理に雨の中を走ってくる。『このまま濡れるんじゃかわいそうだな』と思った晃一は、思い切ってその子の前に立ちはだかると、無理やり自分の傘を差し出して、
「持って行きなさい。返さなくて良いから」
と言って傘を押し付けると雨に濡れないように急いで駅へと向かった。雨が強かったので駅の改札まで振り返らなかったが、改札に着いて改めて今来た方向を見てみると、もうその女子高生の姿は見えなかった。たぶん、傘を使ってくれたのだろうと思った。もともと傘に未練があったわけではないし、人に役に立ってくれた、それも可愛らしい女子高生となれば悪い気などするはずもなく、その日は部屋でテレビを見ながら『夕方だったのに、どうして高校の方に向かっていたんだろう?忘れ物でもしたのかな?』などと考えながら酒が進んだ。
それから数日した日、朝の通勤電車の中で晃一が座っていると、近くにあの女子高生が立っていた。時折ちらちらと晃一のほうを見ているようだが、人ごみがきつくてそれ以上のことがわからない。そしてそのまま降りる駅に着いてしまい、見えなくなってしまった。
『もしかしたら夕方には会えるかもしれない。待っていてくれれば』などと思ったのは甘い考えで、その日の夕方、高校生の帰宅に合わせて早めに会社を出た晃一は、どこでもあの子を見かけることもなく、あっけなくいつもより早めに自分の部屋に着いてしまった。『まぁ、そんなにうまく行くわけないわなぁ。でも、そう思えただけでも楽しかったから良いか』と諦めてみれば楽しい時間が過ごせたというものだ。
しかし、とうとう晃一の思いの通じる日がやってきた。その日、いつもの時間に会社を出て駅に着いた晃一は、あの女子高生が改札の近くでもう一人のこと一緒に話し込んでいるのを見つけた。しかし、さすがに声をかけるわけにも行かず、そのまま近くを通り過ぎようとした。
「あの、すみません」
透き通った可愛らしい声がして、あの女子高生が晃一に声をかけてきた。
「え?俺?」
「もしかして、あの、この傘・・・・」
そう言ってきれいに折りたたんだ晃一の折り畳み傘を差し出した。
「あぁ、あれか。返さなくても良かったのに」
「やっぱり、でも・・・、ありがとうございました」
そう言ってぺこりと頭を下げると、その子はもう一人の子と一緒に改札へと入っていった。手元にはあの傘が残っていた。その傘をしげしげと眺め、改札の向こうへと消えていく後姿を見送る。『いい子だな。ちゃんと返してくれるなんて。知らない顔をしていれば誰にもわからないのに』そう思うと嬉しくなった。一瞬だけ、後を追いかけようとも思ったが、すぐに止めた。そんなことをしたら今の楽しい気持ちが消えてしまうような気がしたからだ。だから晃一はそのまま改札に入らず、温かくなった心を抱いて駅前の中華料理屋で一人で一杯やってから家路に着いた。その日は寝るまで心が温かかった。寝る前にもう一度だけ、『もしあの時すぐに後を追いかけていたら』と考えてみた。しかし、あの子を見つけてそばに行ったとしても、何か会話が始まるとは思えなかった。もうお礼は言った後なのだ。それでも後をのこのこ付いて行ったら、下手をするとストーカーと間違われるかも知れない。『やっぱりあのままにしておいてよかったな』と納得して眠りに着いた。
その晃一の判断は間違っていなかった。それから時々だが、あの女子高生が朝の電車で近くに来たとき、小さく会釈をしてくれるようになったからだ。それだけでもやはり嬉しい。もともと通勤電車に知り合いなどいないのだから、一緒に朝の時間を共有してくれる相手が居ると分かっただけでも嬉しいのだ。それから二人は視線が合ったときには小さく挨拶をするようになった。
それからは少しその子を見つける確率が高くなったようだ。朝の電車では週に2回くらいは見るようになったし、夕方の帰りの駅やホームでもときおり見かけるようになった。別に挨拶すると言っても小さく会釈する程度で特に何の話をするわけでもなかったが、心が温かくなるのは確かだったし、『もしかして次も』と期待してしまうのも確かだった。しかし、そう思っていても、晃一の方から積極的に話しかけることはしなかった。どうしてなのか晃一自身にもはっきり分からなかったが、たぶん、急に話しかけて嫌われてしまい、次から会釈してもらえなくなったら悲しいから、なのかも知れなかった。
ただ、このまま小さく会釈するだけの関係がいつまでも続くとは思えなかった。たぶん、少しずつ会う回数が減っていって、そのうちにまた見つけることもなくなるのだろう、人との関係などそんなものだ、と心の中でもう一人の自分が言っている。そうかと言って、晃一から話しかけるにしても、何と話しかければよいのか分からなかった。それからは少女と会釈を交わす度に晃一の心は少しずつ追い詰められていった。
だから、それから数日した帰宅途中、駅までの間で急に雨が強く降ってきたとき、直ぐに心の中に『この雨であの子は濡れないよな?』と思ったのはごく自然な心の流れだった。この日は気温が急に下がり、この時期とは思えないくらい冷たい雨だった。晃一自身はいつも折り畳み傘を鞄の中に入れているので急に降ってきても慌てる必要はない。そして駅の近くまで来ると、晃一の視線は自然にあの子の通学路の方向に注がれた。『あの子は大丈夫だよな。この前あんなことがあったんだから、傘くらい準備してるよな』と思ってみるが、正直な話、もう一度役に立ってあげたいという想いが心に満ちてくる。だから、真っ直ぐ歩いて改札に入ればいくらも時間がかからないのに、わざと駅に向かう交差点でタバコを吹かしてみたのも晃一の気持ちが正直に表れていた。
『でも、もう一度雨の日に改札から雨の中に出て来るっていうのも考えにくいよな。それじゃ学習効果ゼロって事だからな』などと思って自分の未練を断ち切ろうと駅に向かって歩き出そうとしたとき、今まで見ていた逆の高校の方向から一人の少女が傘も差さずに走ってくるのが見えた。『こう言う場合はどうすれば良いんだ?あの子じゃなかったらどうする?ここで傘を渡しても既にびしょびしょになってるし意味ないよな。でも、あれってあの子じゃないか?よく似てる。あぁあ、びしょびしょになって。やっぱりあの子だ。本当か?嘘だろ?』確かにあの子だった。間違いない。それからの晃一は自分でも驚いた行動を取った。
少女の前に立って手を取ると、ぐっしょりと濡れた髪から雨が顔の上を流れている。
「どうしたの?だいじょうぶ?」
晃一がそう聞いたが、その少女は、
「だいじょうぶだから・・・・」
と弱々しく答えただけだった。見ると唇は紫色になっている。『凍えてるな。このままじゃ風邪を引く』そう思った晃一は、そのまま少女の手を引いて目の前の洋食屋に入った。
「大丈夫ですから、ちょっと濡れただけだから」
手を引かれながら少女はそう言ったが、それ以上嫌がったり抵抗したりはしなかった。店に入ると、店の人が雨をしたたらせた高校生に驚いている。
「ごめんなさい。暖かい物をお願いします。ちょっと濡れちゃったものだから」
と言うと、晃一よりも少し年上と思われる女性が、
「まぁ、それは大変」
と言っておしぼりを何枚か持ってきてくれた。少女はそのおしぼりで髪を拭いたが、横で見ていても、それは明らかに今更、と言う感じでしかなかった。
「あの、暖かい物は・・・・」
ともう一度店の女性に言うと、
「まだマスターが来ないからスープとグラタンくらいしかないけど・・・・、それで良いですか?」
と言うので取り敢えずそれを頼んだ。そして、こうして目の前に座っているだけじゃなく、何か他にしてあげられることはないか、頭を全力で回転させて対応策を探した。すると、通ってきた途中の店のウィンドーにジャージのブルゾンが掛かっていたのを思い出した。慌てて、
「直ぐに戻ってくるからここにいるんだよ。直ぐにスープとグラタンが来るからね。良いね。待っててね」
と言い残し、店を出るとその店に向かった。ウィンドーに飾ってあるくらいだから新型か何かなのだろう。売り物なら買えばいい。チラッと財布の中を思い出したが問題は無さそうだ。
ただ、店でウィンドーの商品を買うのは意外と時間がかかった。ディスプレイに出した商品は新型だけに店の人が慣れておらず、商品を探すのに時間がかかってしまったのだ。そして、やっと商品を奥から探してきた店員が、
「お一つでよろしかったでしょうか?」
と聞いてきたので、思わず、
「二つ下さい」
と答えてしまった。『まぁ、二つあれば予備になるから』とあまりにも普通のことを考えて自分への言い訳にした。すると、何故か店員の顔色が変わり、もう一度奥へと引っ込んでしまった。早く少女の所に戻りたいのに、と焦れていると店員が戻ってきて、
「申し訳ありません。今はLとMと一つずつしかありません」
と言ってきた。『それなら聞かなきゃ良いのに』とは思ったが、自分でも何故か、
「それで結構です。包んで下さい」
と言ってしまった。あの少女の外観からして、たぶんSサイズくらいのような気がしたが、乗りかかった船だ、などと訳の分からない言い訳を自分にした。
そして1万5千円を払って店を出ると、先程の洋食屋に戻った。カラン、音を立てて店に入ると、少女が振り返り、明らかに安堵したような笑顔を浮かべた。
「はい、これを着てごらん」
そう言って包みをテーブルの上に差し出した。包みの様子から衣類であるのは直ぐに分かったらしい。
「え?・・・・今ですか?」
「そう、その上から来ても良いし、濡れた服を着替えたければ店の奥を借りて着替えても良いと思うけど、何か着ないと本当に風邪を引くよ」
「大丈夫です。ここは暖かいから」
「自分で鏡を見てごらん。唇が紫だよ。本当に風邪を引かないと思うの?」
と晃一が言うと、少女は鞄から手鏡を撮りだして自分の唇を確かめた。
「ね?大げさに言ってるんじゃないって事が分かったでしょ?」
「はい」
「それじゃ、とりあえずこれを着なさい」
そう言って晃一は包みを解くと、一つを少女の肩に掛けた。少女は特に嫌がらない。
「手を通してごらん。暖かくなるよ」
晃一の言葉は少女の心に届いたらしい。
「はい」
そう言うと少女は制服の上にジャージを着た。すると、ちょうどスープが出てきた。スープの上に大きなパンが浮いている。
「慌てて頼んじゃったけど、食べてくれないかな?」
「・・・・・いいんですか?」
「もちろん」
「はい、いただきます」
そう言うと少女はペコリと頭を下げてスプーンを手に取った。
「あ、そうだ。済みません、俺にはコーヒーを下さい」
と店の女性に言ってから、
「ごめんなさい。急にこんなところに連れてきて、びっくりしたでしょう?」
と頭を下げた。
「ううん、わたしこそ。ありがとうございます」
スープをすすった少女はちょっとびっくりしたように首を振った。
「えーと、名前もまだだったね。俺は三谷晃一。会社員だよ」
そう言って名刺を差し出した。
「あの、私は石原菜摘です」
「高校生?」
「はい、県立第一高校の2年です」
「そうか、2年生なんだ」
「はい・・・・・・。あの、あの時もありがとうございました」
「いや、それはもう傘だって返して貰ったしお礼もしてもらったから・・・・・・。それより、何是この雨の中を走ってきたの?」
「学校を出たときは降ってなかったんです。だから大丈夫だと思って」
「誰かの傘に入れて貰えば良かったのに」
「ちょうど知ってる人もいなくて。それに、途中から私しかいなかったから」
「そうか。それにしても無茶するね」
「ごめんなさい」
「俺に謝る必要なんて無いさ」
「あの、これ、今度返しますから」
「返して貰わなくても良いよ。俺は着ないから。それは石原さんのために買ったんだからね」
「でも・・・・・・・・」
菜摘はとりあえず来ているジャージをどうしたものか困っている様子だった。『洗濯をして返します』などと言われたら、返された晃一が困ってしまう。そこで晃一は話題を変えることにした。
「ねぇ、少しは暖まってきた?」
「・・・・・・・・たぶん・・・・・」
スープを半分ほど飲んだが、まだ菜摘は凍えているらしく唇の色も紫のままだ。しかし、次に来たグラタンを食べ始めた頃から菜摘の唇は次第に赤味を取り戻してきた。
その頃になって晃一は改めて菜摘を観察してみた。身長は160センチくらいでスラリとした美人系だ。セミロングの髪は濡れているので良く分からないが、先端が少しカールしているようだ。ジャージの上から見ただけでもスタイルはかなり良さそうだ。
「どうかしましたか?」
菜摘が視線に気付いて声を掛けてきた。
「ううん、取り敢えずジャージだけ買ってきたけど、靴下とか買ってこようか?」
「そんな、大丈夫です」
「友達とか呼ぶ?」
「いいえ、呼ぶと大げさになるからこのまま帰ります」
「何か急いでいたの?」
「今日は友達と約束があったんですけど、もう良いです。この格好じゃ行けないから」
そう言って菜摘は鞄の中身が濡れていないか確かめていたが、一冊の本を取り出して濡れ具合を確認し始めた。
「それ、英語?英語のテキストは大丈夫?」
「はい、何とか・・、ちょっと濡れたけど」
「結構書き込みしてるね」
「はい、最近のは難しいから」
「テキストとか見るのなんて久しぶりだなぁ」
晃一は何気なく、高校のテキストに興味を持っただけだったが、菜摘はグラタンのスプーンを置くと鞄のテキストを取りだして見せてくれた。
「へぇ、高校生ってこんなのを勉強してるんだ」
そう言って晃一がテキストをパラパラとめくっていると、
「今は・・・・・ここです。ここをやってます」
と言って菜摘が勉強中の所を指差して教えてくれた。いくつか単語の所に日本語を書き込んである。それを見ただけで、かなり苦労しているのが分かった。
「ふぅん、リオのカーニバルの話か。でも、何て言うか、読んでて面白くはないね」
「わかるんですか?」
「あぁ、読めるかって言うこと?分かるよ」
「凄い。私、全然分からなくて」
「だって、旅行記風にできてて、最初に自己紹介があって、それからリオのカーニバルに行きたいって思ってアメリカから飛行機でリオデジャネイロに来たんだろ?ホテルで荷物を下ろしてから直ぐに予約した席で見たって書いてあるよね」
「そうなんだ。旅行記なんだ」
「そうだろ?雰囲気的に」
「英語、話せるんですか?」
「うん、仕事ではよく使うから」
「英語で仕事してるんですか?凄い・・・」
「凄くなんかないよ。それに、普通は英語なんて電話で話すくらいで、会社の中はずっと英語で話してる訳じゃないから。あ、これ、ありがとう」
そう言って晃一はテキストを返した。