第139部



それにこの子なら無理はしないという自負はある。
その菜摘は食事が終わって机に戻ると参考書を広げ始めたが、途端に気が緩みそうになり怖くなった。心の隅でもう一人の自分が『これだけ頑張ったんだもん。きっと上手く行く。これ以上ほとんど覚えた参考書を広げても無駄よ』とか、『今日は早く寝ないと。明日のテストの前に十分に睡眠を取らないと実力を出せないわよ』と言っている。
菜摘は怯えた。もし、このまま布団に入ったら、絶対に朝まで起きないことははっきりしていた。しかし、それでは覚えたことを忘れてしまうかも知れない。そこで菜摘は友紀に電話してみた。
「友紀?どうしてる?」
「菜摘?何よ。敵情視察?」
「まぁ、そんなとこかな」
「だいぶ進んだの?」
「まぁ、できることはやったけど」
さらりと言ってのけた菜摘の言葉に、友紀は菜摘がどれだけ頑張ったのかの片鱗を見た気がした。菜摘は普段、絶対にこんな風には言わないのだ。
「そう、私も今回は気合いを入れたわよ」
「それじゃ友紀、何か問題を出してみてよ、英語」
「1問だけよ。手の内を見せるの嫌だから」
「うん」
「それじゃ、とうとう全部覚えました、って言う文章に使うのは何形?1,未来進行完了形、2.現在進行形、3.現在完了形、4.過去進行形。さあ、どれ?」
友紀はちょっと難しい問題だったかなと思った。実はさっき参考書で読んだばっかりなのだ。
「現在完了形ね。強調表現」
菜摘はさらりと答えた。
「どうして分かったのよ」
「もちろん、勉強したからに決まってるでしょ。五十回は書いたわ」
「書いたぁ?」
「そう、書いて覚えたの」
「それじゃ、もう1問、良い?」
「良いけど、手の内を見せたくないんでしょ?」
「そんなこと言ってる場合じゃ無いかも。良い?もう一回」
「うん」
「もし私が鳥ならば・・」
「If I were a birdね」
菜摘は友紀の言葉を遮ってさらっと言ってのけた。仮定法では定型の文章だ。
「なんであんた・・・・・うそ・・・・」
友紀は驚いた。今までの菜摘なら答えられるとは思えない。少し前に習った難しい文法なんて、そう簡単に出ては来ない。きっちりとその時に勉強していれば別だが、参考書を通したくらいでは身につかないはずだ。それに菜摘の英語の成績なんて友紀よりずっとずっと後ろの筈だからだ。
「どう?そっちの方の準備は?」
菜摘が聞くと、友紀は宣言した。
「今日、徹夜してでも成績上げる」
「今から?」
「そうよ。菜摘、何であんたが2問も答えられるのよ。おかしいでしょ?」
「だって勉強したもん」
「あんた、どれだけやったのよ」
「ノートを各教科で2冊近く書いた、かな・・・」
「英数国で?」
「そう。ちょっと足りなかったのもあるけど。でも、英語はちゃんとやったよ」
友紀は驚いた。友紀だってノートを手書きの文字で埋めるのがどれだけ大変かよく分かっている。はっきり言って、呆れた。
「そんなに好きなんだ・・・・・・。よし、私もこんな電話で時間を潰してられないわ。良い?切るわよ?」
「うん、明日ね」
「うん」
電話を切った友紀は菜摘がどれだけ努力したのか思い知らされた。そしてそれは友紀の想像を超えていた。たぶん、今までの菜摘なら勉強したと言っても仮定法なんて答えられるとは思えなかった。一緒に勉強したことがあるから良く知っている。友紀はもしかしたら近いうちに菜摘に成績で抜かれるのでは無いかと怯えた。
実は、友紀は今日彼と一緒に居たのだ。テスト前なのでそれほどの時間では無かったが、それでも一緒にお昼を食べて彼の家に行き、ちょっと話をしてから甘えたしすることもした。その時は全てが上手く行っていると思っていた。しかし、彼の家から帰ってくる時に菜摘との約束を思い出し、菜摘がどれだけ成績を上げるか分からなかったが、下位から注意に成績を上げる方が中位から上位に成績を上げるより簡単だと気が付いて慌てて勉強に気合いを入れたところだった。もちろん、今日までだってきっちりといつも以上のペースでやってきてはいたが、今の菜摘の気合いでは菜摘がかなり成績を上げそうな気がしてきた。
友紀は不味いと思った。ちょっと恋に夢中になりすぎたようだ。心の中の不安を消したくて彼の方ばかり見つめていた。その間に友達が何をしていたのか、正直余り気にしなかった。あんな約束をしたのに。
そしてふと、もし明日のテストで英語の成績が75番以内に縮まったら菜摘に何を言われるのだろうと思った。まだ結果によって誰が何をしなければ行けないのか決めていない。二人の間ではこういうことが良くあった。こう言う場合、負けた相手が買った方に何か奢るのがいつものことなのだが、そうで無いことだってある。
『ま、菜摘のことだから可愛らしいことだろうけどね』と自分を安心させようとして、友紀はふと『でももし、おじさま関係のことだったらどうしよう?』と思ってぞっとした。今の菜摘だったら何を頼まれてもおかしくない。友紀は改めて気合いを入れて勉強を再開した。
しかし、明日がテストだと言うのに友紀の頭は全然回らなかった。別に疲れているわけでも無いし勉強が分からないわけでも無いが、彼のことや菜摘のことを交互に考えてしまう。夜中になって菜摘にメールしようかとすら考えてしまった。
『ダメ、もっと集中しないと。これじゃ菜摘にもっと追い上げられちゃう』と自分で自分をしかるのだが、いつもと違って全然勉強に集中できなかった。しかし、それでももともと菜摘より成績が上なだけあって勉強のこつ自体は友紀の方が良く知っている。何とか夜中をかなり過ぎた頃になって一応納得のいくところまで勉強が進んだ。ただ、英語しかしなかったが。
『菜摘は3教科やらなくちゃいけない。だけど私は英語さえ成績を上げれば良いんだ』と思うことで何とか自分の中で折り合いを付けた。『同じ時間勉強すれば絶対私の方がたくさん覚えられる』そう思って自分を励ました。友紀は自分の心の中で、菜摘程スタイルが良くない替わり菜摘より成績が良い、と言うことでバランスを取っていたから、菜摘に成績で負けるわけにはいかなかった。
一方菜摘は、友紀が即興で出した問題をすらりと解けたので俄然やる気が出てきた。勉強するのが初めて面白いと思えた。そして、友紀が勉強のことで慌てたのがおかしかった。初めて友紀に勉強で認めてもらったと思った。
『よし、もうちょっと英語を頑張っておこう』と思うと英語のノートにひたすら文字を書き続けた。ただ、母の話を聞いた後なので今のは偶々だと言うことは分かっていた。もともと友紀と菜摘は成績で言えば百番近く離れているのだから、いくら頑張ったとは言え一週間では効果は知れている。菜摘は4時過ぎまでがんばってから寝たが、寝る時に一通のメールを晃一に出しておいた。これが最後の菜摘のお守りだった。もちろん、返事を貰える時間では無いので送信したら直ぐに寝てしまったが、晃一がメールに答えてくれるであろう事だけは信じていた。
そして二人はそれぞれの思いで勉強して翌日試験を受けた。さすがに試験となると参考書で必死に勉強してきた友紀やノートにただひたすら覚えることを書き続けた菜摘にとっては難しい問題の連続だった。特に英語は二人とも特別な想いがあっただけに、緊張もしたし全力でがんばりもしたが、どちらかと言うと試験が終わった後に元気だったのは友紀の方だった。
元気だった、と言っても相対的なもので二人とも落ち込んでいることに変わりは無いのだが、菜摘の落ち込みは大きかった。そして、単に言葉や文章を丸覚えするだけでは試験対策としては不十分なことを痛感させられた。単語については問題無かった。ただ配点はたったの10点だ。文章を指示に会わせて書き換える文法の問題も覚えた知識をフルに使えば何とか格好は付いた。マークシート方式だったのでなんとかなったのだ。しかし、単語を並べ替えて文章に仕上げる問題で躓き始め、単文の読解で文法の応用になれていないことを思い知らされ、長文読解に至っては半分も書いてあることが分からなかった。
それでも菜摘は何とか答えを探そうとした。ただ、菜摘は気が付いていなかったがひっかけの選択肢を次々に選んでしまっていた。しっかりと文章全体を把握していないと、字面だけの選択肢に簡単に引っかかってしまう。それでも全力で英語の問題を解いた。時間が終わった時、菜摘はこれほど英語が難しいと思ったことは無かった。ただ、唯一の救いは以前よりは確実に良く解けたという実感と、絶対に正解だという実感を持てた回答がいくつもあったことだった。それは以前の菜摘にはほとんど無かったことだ。
3教科の試験だったのでお昼で終わりだ。菜摘は正直、友紀に会いたくなかったが、こう言う時に限って帰りが一緒になってしまう。お互いを見つけてしまうと、そこから離れるのも不自然なので二人は寄り添って歩き始めた。
最初二人は黙って歩いていたが、話の口火は友紀が切った。
「・・・ねぇ、何か言いなさいよ」
「うん、ねぇ、どうだった・・???」
「あんなもんよ。たぶん・・・・そんなに変わんないと思う、いつもと。そっちは?」
「うん・・・・・難しかった。あんなにわかんない問題ばっかりだなんて」
「それ、英語?」
「うん」
それを聞いて友紀はちょっと不思議に思った。友紀のイメージでは菜摘はもっと英語ができると思っていたのだ。
「問い5の長文読解はどうだった?」
「全然わかんなかった」
「そう・・・・」
「友紀は?」
「うん、だいたいは分かったよ。ボートを売るセールスマンの話でしょ?」
「うん・・・・そう・・・・・・」
菜摘のいかにも自信無さそうな答え方に友紀は本当に分からなかったのだと言うことを知った。
「ねぇ、単語はどうだった?」
「それは全部できた」
「そう。私、一つ分からなかったし、一つは自信ない」
「でも、10点だからね・・・・。長文は20点だもの」
「うん・・・・・半分ちょっとかな?問い5に関しては・・・」
「そんなにできたんだ・・・・・」
菜摘は母の言った言葉が改めて思い出された。ただ、今の菜摘にはこれ以上どうしようも無いのも事実なのだ。
「うん・・・・て言えばカッコいいけどね・・・・。実際はどうだか・・・」
ここで菜摘は思い切って聞いてみた。
「どう?上がりそう?」
「さっきも言ったでしょ、たぶんだいたい同じくらいだと思う、いつもと。菜摘は?」
「少しは上がると思う。でも、少し・・・・」
「それでも、いつもよりたくさんできたって事よね?それなら良いじゃないの」
「うん・・・・それはそうなんだけど・・・・・・・」
「少し成績が上がるだけじゃ気に入らないの?私の成績、上がるとしても少しだよ?」
「うん、そうじゃなくてさ・・・・・」
「何よ」
菜摘は寝る前に送ったメールを後悔していた。友紀の問題に正解したのが偶々だと分かっていたのに晃一にメールを送ってしまったからだ。
「あのね・・・・・・パパにメールしたの・・・・・寝る前に」
「何時に寝たのよ」
「4時過ぎ・・・・」
「すごいね、私なんか2時が限界だったのに・・・・」
友紀は昼間にしたことを棚に上げて言った。
「でもね、今日会いに行くって書いちゃったの。気持ちが緩みそうだったから」
「そこまでする?あんたのことだから、全力で頑張ってしっかりと問題を解いて、気持ちをすっきりしてから会いに行けるようにって事でしょ?」
「そう・・・・なの・・・・・・」
「あんたさ、それほど思ってるのならさっさと行った方が良いんじゃないの?私とここでこんな話なんかしてないでさ」
「だって・・・・・・・・・」
「思った程解けなかったから?」
菜摘はこくんと頷いた。
「数学と国語はどうだったのよ」
「数学の方はね、方程式を解く方については何度も書いて覚えたからできた。でも、問い4から5,6は全然できなかった」
「あぁ、あのxの方程式の変数aとbが実は3次元方程式になってるってやつね」
「そう、3次元方程式にするところまでは何とかできたの。でも、問い5の後のグラフに書くところからわかんなくなっちゃって・・・・」
「それじゃぁ、その方程式を解く問い6は全然だね」
「一つも書けなかった・・・・・」
「それでも前よりは書けたんでしょ?それなら会いに行けば良いのに」
「でも、成績も上げずに行っちゃったら、きっと甘えるばっかりで勉強なんかしなくて良いって思っちゃいそうで・・・・。それじゃパパが悲しむ・・・・」
「そこまで分かってるなら心配ないでしょ?」
「分かってても・・・・・怖くて・・・・・・」
「何言ってんのよ、自分でメール送っといて」
「会うの、断ろうかな・・・・・」
「菜摘、そんな勝手なことするの?自分でメール送っておいて?それって酷くない?」
「そうよね・・・・・・勝手すぎるね・・・」
「分かってんならさっさと行きなさいよ」
「ねぇ、結果が出るのは水曜だっけ?」
「そう、各教科で渡されるの」
「それまで待ってもらおうかなぁ・・????」
「いい加減にしなさい。菜摘、あんた自分のことしか考えてないじゃないの」
「え?」
「4時にメール送られて、会いに来ると思ったらキャンセルされるおじさまの方はどうなるのよ」
「・・・・・・・・・・まだ見てない・・・・」
「え?返事もらってないの?」
「来てるけど呼んでない・・・・怖くて・・・・・」
「見せなさい」
そう友紀が言うと、菜摘は怖々という感じで携帯を友紀に差し出した。その様子から友紀は、菜摘がどれだけ落胆しているのかを知った。
「あ、これね?」
「あ、見ないで。いや、ちゃんと見て」
「どっちなのよ」
「お願い、声に出さないで読んで」
「分かった。・・・・・・・・・ふうん・・・・・・て、菜摘、おじさま」
「いやっ、言わないで。待って、言わないで」
「それじゃどうするのよ。返事も読まずに放り出すつもり?」
友紀に言われて菜摘は、最早逃げ場が無いことを悟った。