第150部



「飛行機はあと1時間ちょっとで着くけど、その後も結構遠いから」
「あと1時間ちょっとなの?そんなに簡単に着くんだ」
「だって、もう離陸してから1時間経ってるんだよ」
「もうそんなに・・・・・・あっと言う間。わぁ、綺麗。雲の絨毯みたい」
菜摘は窓の外に広がった雲の絨毯を見て声を上げた。
「今日は下が曇ってるみたいだから雲の絨毯だね。晴れてれば海が見えるけどね」
「これが素敵。空を飛ぶってこういうことなんだ・・・・。天気も良いし」
「菜摘ちゃん、雲の上を飛んでるんだからここは一年中晴れだよ」
「そうなの?曇ったりしないの」
「雲の上だからね。最も、この高さまで雲が上がってくることだってあるけど、ほとんどは雲の方が下だからこの高さは晴れだね」
「不思議・・・・ねぇ、北海道に行く方法は飛行機だけ?」
「北海道に行くには飛行機しかないなぁ、実質的には。もちろん、北斗星やカシオペアなんて言うブルートレインもあることはあるけど数は少ないからね」
「ねぇ、ところでパパは行きたいところがあったからって言ったでしょ?飛行機に乗ってまで行きたい所ってどんなところなの?どうしてそこにしたの?あ、このコーヒー、美味しい」
「うん、テレビで見たか何かで良いところだなって思ったから一度行ってみたかったって言うのが最大の理由かな?だから菜摘ちゃんと出かけることができたらここにしようって決めてたんだ」
「そんなに良いところなの?」
「たぶんね、行ってみないと分からないけどね」
「ねぇ、どんなところ?もう少し詳しく教えて?」
菜摘は意を決して今まで聞きたくても聞けなかったことを訪ねてみた。もっとも、デザートをのブルーベリーチーズケーキを頬張りながらオレンジジュースを飲んでいるので全然緊張感がない。
「そうだね。小さな山の上にあって、湖が眼下に見下ろせるんだ。とっても綺麗なところ、の筈だよ」
「それはテレビで見たの?」
「うーん、たぶん。もしかしたら雑誌だったかなぁ?良く覚えてないけど。菜摘ちゃん、サミットって知ってる?」
「サミット?何の名前だっけ?聞いたことはあるんだけど・・あ、先進国何とか、だったっけ?」
「先進国首脳会議。それが以前にそこのホテルで開かれたんだ」
「綺麗な場所だから?」
「それもあるし、山の上だから警備しやすいって言うのが最大の理由らしいけどね。もちろん、ちゃんとしたホテルだって言うのも大切なことだけどね」
「それじゃぁ、部屋から湖が見える?」
「たぶん・・・だけど、まぁそれは行ってみないとね」
「でも良かった」
「なにが?」
「パパが行ってみたいって思ってたところにいけるんだもの」
「うん、それは俺も同じだよ」
「でも、着くのが7時半てことは、かなり遠いのね」
「空港から電車に乗り換えて2時間くらいだったかな。最寄り駅にホテルから迎えに来てもらって、車で40分」
「凄いのね。東京の反対までいけちゃう・・・・」
「方向としては、千歳から少し東京側って言うか、南に戻る形だけどね」
「えぇ?戻るのぉ?」
菜摘はちょっと不満そうに言った。
「そう、千歳の方が北にあるんだ」
「どうせ行くなら、もっともっと遠くに行きたいのにぃ」
「十分遠いだろ?飛行機でこんなに乗ってるんだから」
「それはそうだけど・・・・・・。ねぇ、それで明日はどうするの?」
「うん、菜摘ちゃん次第だよ」
「私?」
「そう、菜摘ちゃんの身体次第って事」
その言葉の意味を悟ると、さすがに菜摘もぱっと赤くなった。そして小さな声でつぶやく。
「もう、直ぐオヤジなんだからぁ・・・・・そんなことばっかり・・・・・・・でも・・・・あんまり激しいのは・・・」
菜摘は初めて晃一と夜を過ごすので、自分がどうなるのか全く分からなかった。友達で男子と泊まりに言った子はみんな例外なくクタクタになって帰ってきた。それが何を意味するのかは明らかだが、それほどみんな夢中になると言うことは、二人だけで過ごす夜はたぶん本当に素晴らしいのだろう。今の菜摘にはそれくらいしか予想できなかった。
「激しいのは嫌って事は、そうっとゆっくりが良いって事だね?」
晃一がニヤッと笑って意味深に言うと、
「そう言うことじゃないの。オヤジは嫌い」
と菜摘はプンと横を向いてしまった。延々と焦らされては溜まったものではない。すると、嫌いと言われた晃一の方が今度は凹んでしまった。
「ごめんよ・・・。ちょっと言ってみたかっただけで・・・・そんなに言われると落ち込んじゃうよ」
これには菜摘の方が驚いた。『なんて面倒なの。男の人って』と思ったが、好きなのに変わりはないのでちゃんとフォローに入る。
「私が反応したのなんて気にしなくて良いのに。そんなに落ち込まれたら私の方が困っちゃう」
「え?気にしなくて良いの?」
晃一が笑顔に戻って言うと、
「もう復活?本当に落ち込んでたの?」
菜摘は怒っていると言うより呆れている感じだ。
「もちろん。菜摘ちゃんに嫌われたら、そりゃあ落ち込むさ」
「だから嫌ってないって」
「うん、ありがとう。復活した」
「あーあ、何か疲れちゃうわね。そう、それで話は戻って、明日はどうするのが良いの?」
「だから、どうなるのかは明日になってみないと分からないんだ。でも、菜摘ちゃんに無理はかけないようにするからね」
「うん、ありがと」
そう言うと、菜摘は晃一に抱かれる時のことを思って俯いたまままた顔を赤くした。晃一は菜摘の様子から雰囲気は良いと思ったので、思い切って身体を菜摘に寄せると、一度言いたかったことを菜摘の耳元で口にした。
「早くホテルについて菜摘ちゃんを抱きたいな」
今度は菜摘も怒らなかった。下を向いたまま聞こえないほどの小さな声で、
「私も・・・・・抱いて欲しいの・・・・・」
とだけ言った。
そのまま晃一が軽く菜摘を引き寄せ、身体を思い切り伸ばして顔を近づけると菜摘は素早く振り向いて一瞬だったがチュッとキスをしてくれた。ただ、ファーストクラスの席でそれをするのは距離が遠いだけにかなりきつい。それは菜摘にも分かっているようで、
「後は着いてからね」
と小さな声で言った。
その後、飛行機が着陸態勢に入って高度を落とし始めると少し揺れた。そして雲の絨毯の中に入ると窓の外が真っ白になる。菜摘はぎゅっと座席アームレストを掴んで目をまん丸にしたまま固まって揺れに耐えた。元々大きな目がもっと大きくなっている。
「菜摘ちゃん、揺れるの嫌い?」
「大っ嫌い。ジェットコースターだってダメなんだから。だってこれ、下ってるじゃないの」
「そりゃ離陸する時は上がったんだから、着陸する時は下がるさ。それに菜摘ちゃん、ジェットコースターは苦手なの?それじゃ、今度乗りに行こうか?」
「パパと一緒なら良いけど、それでも嫌い」
菜摘はそう言ったが、どっちかというと会話より飛行機が下の方を向いて飛んでいることの方が気になっていた。理屈では分かっているが、怖いものは怖いのだ。飛行機は前が見えない。
「ふぅ〜ん、俺と一緒なら良いんだ」
「そう、パパと一緒なら良いの。飛行機だって同じ。パパと一緒だから乗れるの」
「菜摘ちゃん、飛行機苦手だったの?」
「今そうなったの。初めてなんだから」
「帰りも乗らなきゃいけないんだよ?」
「分かってるわよ。でも今はそんなこと言わないで。あーまだ着かなのぉ?」
「もう直ぐだよ」
「もう直ぐって?」
「あと10分くらいかな?」
「このまま10分も我慢しなくちゃいけないの?」
「そうだね。着陸姿勢って意外と長いんだよ」
「そんなこと言わないでよ。黙ってれば長いか短いかなんて分からないのにぃ」
その時飛行機が旋回を始めたのでぐぅ〜んと傾いた。菜摘は思わず目をつぶったが、そうすると機体が傾いていくので平衡感覚が変になる。慌てて目を見開いた。今度はゆっくりと水平に戻ると、ガタンと下の方で音がした。
「もう直ぐ着陸だよ。もう直ぐだからね」
「どうしてそんなこと、分かるの?さっき長いって」
「ほら、下の方で音がしたろ?あれは車輪が出る音。車輪が出ればもう直ぐさ。ほら、外を見てごらん。雲の下に出たから綺麗な景色だよ」
そう言われて始めて菜摘は窓の外を見た。確かに綺麗だった。のどかな田園風景が続いており、小さな街も見える。初めての鳥瞰図に菜摘は怖いのも忘れて見入ってしまった。着陸直前になると飛行機は水平になるのでもうそれほど怖くない。
「だんだん地面が近づいてくる・・・・・・・・」
しかし、当然だが最後には綺麗な芝生の広がる飛行場に入って着陸した。ドシンと大きく一度揺れてから逆噴射で急激に減速がかかった。
「ふぅ、着いた・・・・・。ああっ」
逆噴射による原則を予期していなかった菜摘はちょっとびっくりしたが、基本的に地面の上なので安心は安心だ。
飛行機を降りてコンコースを歩いて行く菜摘は、かなりの距離を歩くので驚いた。
「ねぇ、千歳って大きいのね。羽田より大きいの?」
「羽田程じゃないさ。でも千歳だって大きいよ。たぶん、羽田や関空の次くらいに大きいんじゃ無いかな?たくさん旅行客が来るからね」
「北海道の空港ってもっと小さいのかと思ってた」
「ははは、羽田千歳間は世界でも2番目に旅客が多い路線なんだよ」
「そうなの?知らなかった」
「だから飛行場だって大きいのさ。帰りにはもっと驚くよ。いろんなものをいっぱい売ってるから」
「そうなんだ・・・・・帰りに何か買おうかな?」
菜摘は何もかも知らないことばかりで、自分が新しい世界を旅していることを実感していた。『パパと一緒じゃなきゃ、こんなことできないな。素敵。私、北海道にいる・・・・』菜摘は友達の中で何人北海道に来たことがあるだろうか?と思った。
そのまま二人は空港に併設された駅から快速に乗った。
「これ、どこまで行くの?」
「隣の駅まで」
「隣?直ぐに下りるの?」
「そうだよ。特急に乗り換えるんだ」
「それから2時間?」
「そう。着いたら夕暮れ時だね」
「素敵、その言い方。夕暮れ時かぁ」
「黄昏時って言い方もあるけど」
「黄昏時?何かピンとこない。夕暮れ時の方が良い」
「北海道に似合ってる?」
「うん」
二人がそんな話をしている間に特急が来た。二人はグリーン車に乗った。席に座ると菜摘は、
「パパ、素敵な席で嬉しいんだけど、帰りは普通の席にしてもらってもいい???」
と言った。
「うん、満席でなければいつでも変更はできると思うからね」
「だってパパ、いつまで経っても遠いんだもん。それに、全然見えないし」
確かにJR北海道ご自慢のグリーン車だが、頭の周りをぐるっとヘッドレストで囲ってあるので隣に座る人の顔は半分以上見えない。菜摘のように隣の人と一緒に居たいという客に不評なのは当然だろう。
「でも、座席は飛行機程遠くは無いだろ?」
「でも私には普通の席の方が良い。ごめんなさい」
菜摘は飛行機に続いて特急まで二人の席が離れているのを残念がった。
「分かったよ。着いたら駅で変更できるか聞いてみよう」
「ありがと。ねぇ、北海道ってずっとずぅーっと広いのかと思ったけど、何か丘って言うか、林も多くて遠くまで見えないのね。なんか、普通の田舎・・・」
「そりゃ、北海道だっていろんな所はあるさ。今は千歳から山の方に向かって走ってるから、山ってほどじゃないけど平原ではないね。林も多いさ。見渡す限り広いのは、どっちかって言うと北海道の東の釧路とかの方だと思うよ」
「そうなんだ。ちょっと・・・・」
「ん?がっかりした?」
「そうじゃないんだけど・・・・・・実はちょっとだけ・・・・」
「大丈夫。安心して良いよ。きっと綺麗な景色を見られるから」
「それなら良いけど・・・・・」
菜摘はまだ晃一の言葉が信じられないようだったが、一応安心しておくことにした。しかし、車窓の景色は菜摘を飽きさせることなく次々にいろいろな変化を見せた。晃一はホテルに着いてから菜摘が疲れて寝てしまうのではないかと思ったが、じっと目をつぶっていろと言える状況ではなく、菜摘はキョロキョロとあちこちを真剣に眺めている。
「どう?関東の景色とは違う?」
「うん、全然違う」
「何が一番違うの?」
「木の色、かな?」
「色?」
「うん、こっちの方が明るい緑色が多いみたい。東京の方は杉とかが多くてもっと暗いって言うか、濃い緑だもん」
「ほう、そうか・・・・・。確かに・・・・そうかも知れないね・・・・」
晃一は菜摘の観察眼に感心した。女子ならではの着目なのかも知れない。途中で車内販売のお茶を買ったが、その時にちょっと車内を見渡しただけで、菜摘はほとんど外を見ていた。
だから特急で移動した2時間はあっと言う間に過ぎた。車内にアナウンスが流れると、
「菜摘ちゃん、そろそろ下りるよ」
と言って席を立ち、デッキで停車を待つ。
菜摘は目的地の駅はきっとリゾートだろうと思っていたが、実際に到着した駅は拍子抜けする程小さな駅だった。特急が止まるのでホームは一応長いが、本当に簡素な作りの駅だ。リゾートらしい駅をイメージしていた菜摘にはちょっと意外だった。
晃一は窓口で切符の変更を訪ね、新しい切符に取り替えると菜摘の所にそれを見せに来た。
「ほら、普通の指定に変えたよ」
「ありがとう。ごめんなさい、わがままを言って」
「良いんだよ。もし明日、やっぱりグリーンが良ければ変えるから」
「ううん、パパの隣の方が良い。立派な席は私には要らないの。でもパパはグリーンの方が良かったんでしょ?」
「ううん、菜摘ちゃんが喜んでくれる方がもっともっと大事だから」
「そんなに大事にすると、つけあがっちゃうんだから」
「大丈夫だよ、菜摘ちゃんはそんなことにならないよ」
「知らないわよ。どうなっても」
「楽しみだね、どうなるのか」
そんなことを話しながら改札を出ると、ホテルのバスが迎えに来ていた。温泉地で良く見るような7人乗りのバンなのかと思ったが、小さい観光バスらしい。晃一が運転手に、
「ホームページには40分かかると書いてありましたが、そんなに距離ありましたっけ?」
と聞くと、
「この辺りは道が曲がりくねっているので距離は短くても時間は結構かかるんです。冬なんかはもっと時間がかかります」
と言われた。そう言うものか、と納得する。確かに車は最初は比較的真っ直ぐな道を走っていたが、そのうちだんだんカーブが多くなってきた。そして最後にはカーブだらけの道を上っていく。
菜摘は少し気持ち悪くなったが、何とか気力で持ちこたえた。しかし、車が到着すると確かに晃一が言っていたように夕暮れ時だった。
「うわぁ〜。すっごくきれい」
菜摘は車から降りて背伸びをすると、周りの景色を見て感動した。確かに山の上なので遠くまで一気に見渡せる。どうやらホテルの周りはゴルフコースらしい。
「ねぇ、湖ってどこ?」
「ホテルの入り口の反対側にあるみたいだね。部屋からは見えるんじゃ無いかな?」
「ねぇ、早くお部屋に行ってみましょう」
「そうだね」
晃一は菜摘と一緒にホテルのロビーでチェックインし、部屋に入ってみた。