第170部



「さぁ友紀ちゃん、着いたよ」
「ありがとう」
そう言って車を降りると、店の入り口に立った。どちらかと言うと古い感じの店だ。
「おじさまが良く来る店なの?」
「ううん、会社で以前に来たことがあるだけなんだ。でも、美味しかったからね」
そう言って晃一は友紀を店に入れた。中はカウンターの他には小さなテーブル席が3つあるだけの小さな店だ。
「どうする?カウンターが良い?それとも、話をするならテーブルにして貰う?」
「カウンターが良い」
友紀は喜んでそう答えると、カウンターに席を取って貰った。
「俺は最初、ちょっと切って貰ってるから友紀ちゃんは好きなものを頼んで良いよ」
「うわぁ、それって初めてかも。良いの?」
「もちろん」
晃一が答えたところで、店の大将が二人の前に笹を敷き、その上にかんぴょうとゴボウとがりを少しずつ載せ、
「それでは、どうしましょうか?」
と聞いてきた。そこで晃一は、
「まず私にはおすすめの所を切って貰えますか?この子にはお好みで」
と言ってビールを頼んだ。友紀は、ちょっと小さな声で、
「切って貰うって?」
と聞いてきた。
「あ、寿司ネタをおつまみに切って下さいって事だよ。言ってみれば一種の刺身だね」
と晃一が答えると、
「そうなんだ・・・・。初めて聞いた」
と感心している。
「それにしても、干瓢をつまみに出すって珍しいですね。ゴボウも」
と大将に聞くと、
「うちは昔からこれなんです。馬鹿の何とかってやつですよ」
と謙遜しているが、
「つまみに出せるくらい自信があるってたいしたものですね。なかなかそこまでできる店は少ないですから」
と晃一が褒め倒すと、
「ありがとうございます」
と大将は素直に頭を下げた。
「さぁ、友紀ちゃんは自分で頼むんだよ。面倒ならおすすめにして貰っても良いけど」
と晃一が言うと、
「ううん、自分でする」
と言って友紀はマグロを注文した。
「回ってないお寿司屋さんなんて、すっごく久しぶり」
友紀はニコニコしている。晃一はビールで喉を潤しながら、
「友紀ちゃんが元気になってくれるならいつでも良いよ」
と微笑んでいる。
友紀はマグロの赤身の次に中トロを頼み、その次にヒラメを頼んだ。高校生だからお酒を飲まないのは当たり前としても、あがりにも手を付けようとしないのでいくら注文してもあっという間に無くなってしまう。そして、赤貝とホタテを頼んだところで友紀の方のネタが尽きてしまった。
「あれ?どうしたの?次は?」
「後は何があるのなかぁって・・・・看板にはいろいろ書いてあるけど・・・・」
「よくわかんないの?」
「そう・・・」
友紀がちょっと恥ずかしそうに言うと、
「そういうときはお店の人に聞くのが一番だよ。他に何がおすすめですかって聞いてごらん」
と晃一が言うので、
「あのぉ、他に何がおすすめですか?」
友紀は恐る恐るという感じで聞いてみた。すると、
「今日はスズキの良いのが入ってます。他には鰯やサンマなんかも良いですよ。仕入れたばっかりですから」
と言われた。
「それじゃ、それをお願いします」
「全部ですか?スズキと鰯とサンマで?」
「はい」
友紀は涼しい顔で答えた。晃一は切って貰ったつまみで生ビールを飲んでいたが、飲み干すともういっぱいビールを頼んだ。
「あれ?おじさま、ビールの次は冷酒じゃ無いの?」
友紀が神戸のことを思い出して聞いてみると、
「今日は暑かったからね。もう一杯ビールを飲むよ。喉が渇いてるから美味しくて」
と答えた。そして、
「東京のお寿司屋さんでサンマとは珍しいですね。趨りでしょうに」
と大将に聞くと、
「そうなんですよ。今日は珍しく趨りなのに良いのがあったんで仕入れてみたんですが、いかがですか?本当はそのままでも行けたんですが、軽く締めてあります」
と晃一には切った鰯とサンマを置いてから逆に聞かれてしまった。
「確かに東京にしては生きが良いから歯ごたえを楽しめるけど、趨りだけに脂はのってないから好みが分かれるところですね。私はもう少ししてからの方が好きですけど、それでも趨りって言うのを楽しむのも楽しいですからね。江戸前の粋ってやつですね」
晃一はそう答えると、
「そう言っていただけると助かります。思い切って仕入れて良かったですよ」
と大将も嬉しそうだ。すると横から友紀が、
「おじさま、今のって凄く大人の会話」
と割り込んできた。
「そうかい?」
「そうそう、子供じゃこんな会話、絶対無理だもん。魚も時期も味も、全部知ってないと答えられないじゃない?」
友紀がそう言った所で大将から、
「そうなんです。分かっていただける方に召し上がっていただいて、こっちも嬉しいですよ」
と言われた。まだ時間が早いので他に客はグループがひと組だけのため、ここまでは店の大将と会話を楽しむことができたが、そろそろ6時を回ってくると、店には次々に客が入り始めた。
友紀は握って貰った鰯やサンマを食べているので、
「どう?おいしい??」
と聞くと、
「すっごく美味しい。鰯ってこんなに美味しいって知らなかった。と言うことはきっとサンマも・・・・ちょっと待ってね・・・・・・・・・・うん、これも美味しい。香りが・・・すごく良い香りがするの」
と友紀も大喜びだった。晃一はそんな友紀を見ていると、つい世話を焼きたくなってくる。
「それじゃ、友紀ちゃん、ここにサンマが一切れ残ってるから、お寿司を食べたらこれも一口食べてごらん。お茶を飲んでからね」
「いいの?」
「うん、そろそろお寿司にしようかと思っていたから」
と言うと、
「同じになっても構いませんから、おすすめを握ってもらえますか?ちょっと少なめに」
と言った。
友紀は、言われた通りにお寿司を食べた後にお茶を飲んでから刺身を食べてみたが、
「あれ?味が違う・・・・香りが・・・・」
と首をかしげている。
「ほう、違いが分かったんだ。たいしたものだね」
「ねぇ、どうして?お寿司とお刺身で味が違うの?同じサンマなのに・・・・」
「うん、お寿司のご飯は少し温かいだろ?だから魚の香りが立つんだ。酢飯だから酢と一緒に香りも出るし。だから、本当に魚を楽しむのなら燗酒の方がお寿司には合うんだよ。最も夏だからどうしても冷たいのを飲みたいけどね」
「へぇ、そうだったんだ。それじゃ、お寿司を食べて正解なのね」
「うん、大正解」
「それじゃぁ、もう一つ聞いても良い?同じになっても構いませんからってどういうこと?」
「あぁ、それは、最初におすすめのつまみを切って貰ったろう?だからだよ。それでお寿司もおすすめを頼んだけど、同じおすすめなのにおつまみとお寿司で違うものが出てきたらおかしいだろ?だから同じになっても構いません、ってちゃんと言ったんだ。同じのが出てきたって言うお客もいるからね」
「そうなんだ・・・・・へぇ・・・・・」
友紀はお腹が満たされてきたからか、少し大人しくなった。
そして、店の人が二人から離れていくと少し真面目な顔になり、
「ねぇ、おじさまの部屋に連れてってもらっても良い?」
と聞いてきた。
友紀自身は、ここで晃一に断られたらどうしようと思っていた。元々昨日からそのつもりだったのだが、直前になって言わないと、晃一が菜摘に相談する恐れがある。相談されれば菜摘は断るだろうから、その隙を与えないようにギリギリになっていったのだ。しかし晃一はあっさりと、
「うん、いいよ」
と言ってお勘定とタクシーを頼んだ。
タクシーの中で友紀は、もしかしたら晃一はその気になっているのかも知れないと思った。菜摘と一泊旅行した後に他の子を部屋に入れるなんて、と思ったが、友紀だって晃一と一泊の旅行に行ったのだし、晃一の中では他の子とは違うのかも知れないと思った。そして『菜摘には悪いけど、ちょっとハラハラさせちゃうからね、ごめんね、菜摘。もし、おじさまに本気で迫られたら、私・・・自信無いよ』と心の中で思った。自分でもドキドキしているのが分かる。今でも友紀は、部屋に行っても本気で晃一に抱かれることは無いと思っているが、実際にはどうなるのか分からなかった。いや、本当に自分の心をしっかりと覗いてみたら、きっと晃一に抱かれたがっている自分を発見したのかも知れないが、敢えてそれを自分では心に蓋をして見ないようにしていた。そして、菜摘をちょっとハラハラさせてやろうと思った自分を褒めたい気分だった。
晃一の部屋に入ると、熱気が二人を包んだ。慌てて晃一は、
「あ、直ぐにエアコン入れるね」
と言って先にリビングに入っていった。友紀も続いて上がろうとしたが、ふと玄関のドアを振り返るとチェーンロックをかけた。
それからリビングにいる晃一に、
「ちょっとだけシャワー、浴びさせてね」
と言うと浴室に入って服を脱いだ。勝手は分かっているが、人の家に来たような、自分の家に来たような、なんか不思議な気分だ。友紀は考え事をしながらシャワーを浴びていたので、簡単に済ませるつもりが結構時間がかかってしまった。
晃一はリビングが冷えてくると、ドアを開けて他の場所の熱気も取ることにした。ここは毎日使う部屋では無いので熱気がこもりやすい。夕方なので廊下も床がかなり暖かい。高効率の強力なエアコンを入れてあるので早く冷えるはずだが、それでも家具や壁や床の持っている熱はかなりのものだ。晃一は友紀が直ぐに戻ってきたらまだ部屋が冷えていないと心配したが、友紀は意外にシャワーに時間をかけたので友紀が戻ってきたのはマンション全体がちょうど涼しくなってきたところだった。
「あ、上がったんだね。さっぱりした?どうぞ・・・」
そう言って晃一は友紀にソファを勧めたが、自分は隣の一人用のソファに座っている。友紀はちょっと意外な顔をしたが、直ぐに気を取り直すと一人でベッドにもなるソファに座った。
『ま、最初はそうよね。いくら何でも最初から二人でくっついて座ったんじゃがっつきすぎだもん』そう思うと友紀は話し始めた。
「昨日、おじさまと話してちょっと分かったことがあるの。私って、ちょっと自分勝手に進めていたなぁって。なんか、自分の思い通りにならないって言って自分で落ち込んでたみたい。だから、家に帰ってから彼に電話してみたの」
「ほう、それは良いことだ。どうだったの?」
「うん、半分当たってたみたい」
「半分か、残りは?」
「それがね・・・・・・」
友紀はちょっと言葉を切って考え込んだ。実際、口に出したくは無い言葉だ。
「あのね・・・・・なんか気持ちが冷めてるみたい・・・・・彼の・・・・」
「どうして?そんなこと昨日まで言ってなかったのに・・・」
「それが、昨日話してて思ったんだけど、彼にとってはどうでも良いみたいなの、今更って感じで」
「どうでも良いことは無いだろう?だって、彼だって上手くいってるってことにしたいんじゃ無いのかなぁ」
「そうでしょ?それは昨日も同じだったの」
「え?どうでも良いのに上手くいってるって事?」
「そういうことなの・・・・よくわかんないけど・・・・」
「わかんないなぁ。彼の言い分を聞かせてもらえる?」
「あのね、昨日、私最初に電話で謝ったの。自分勝手だったかも知れないからごめんなさいって。ちゃんと謝ったのよ」
「それは良いことだね。偉いよ」
「嬉しい。そう言ってくれると心が安まるな・・・・。でもね、彼は『分かった』って言っただけ。それだけなのよ」
「それは素っ気ないって言うか・・・・」
「そうでしょ?彼女に対する対応じゃ無いでしょ?」
「おやおや、また始まった。それって友紀ちゃんが勝手にそう決めてるだけでしょ?」
「あ、そうか。ま、それならちょっとやり直し。とにかく、がっかりしたの」
「それはそうだよね。それで?」
「それでって?」
「彼は何か言ってなかった?それから・・??」
「特には・・・・・・」
「今度はいつ会う予定なの?」
「会うのは毎日だけど・・・・・。二人でゆっくり話せるのは土曜の夕方かな?」
「彼って忙しい人?部活か何かやってるの?」
「うん、ラグビーやってる」
「学校のクラブ?」
「うん」
「だから平日は時間が無いの?」
「そんなに遅くまでやってないけど・・・。一緒に帰ってるから終わるの待ってるけど・・」
「毎日?」
「うん・・・・」
「レギュラーじゃ無いの?」
「違うみたい。前は部活休んで一緒に帰ったりしたし。今は違うけど・・・」
友紀はちょっと寂しそうに言った。
ただ、晃一から見ると友紀の彼はさほど友紀を嫌っているようにも見えない。どちらかと言うと、友紀の思うほどでは無いが、余り気にしていない、べたべたしていないだけ、のような気がするのだ。本気で友紀と別れるつもりなら、こんな中途半端なことはしないのでは無いだろうか?
「それで友紀ちゃんは毎晩彼に連絡してるの?電話かメールで」
「それはそうよ。短いときもあるけど」
「彼からの返事は?」
「メールの時は来たり来なかったり。だから電話することが多いかな?」
「友紀ちゃんがもし、連絡しなかったらどうなると思う?」
「たぶん・・・・・来ないと思う・・・・」
「他の友達に相談してみた?」
「うん、菜摘には・・・・・」
「麗華ちゃんとかには?」
「麗華はダメ。もし相談するならもっとはっきりしてからで無いと」
「それで、菜摘ちゃんはなんて言ってたの?」
「話は聞いてくれてるんだけど、なんて言うか、話を聞いてくれてるだけ・・・そんなこと言っちゃ怒られるかな、とにかく特には・・・・」
友紀は晃一と話をしながら、こうやって相談している自分が心地よいと感じ始めていた。この部屋に来たときは本気で晃一に迫って、できればちょっと甘えてみたい、と思っていたのだが、今はそれよりも正直に相談している自分が気持ち良い。