第175部



菜摘が帰った後、晃一の心は不安定になっていた。先週二人で北海道に行った時までの菜摘は自分のことを愛してくれているのを実感できた。だからこそ、あれだけ激しく求め合っても菜摘の気持ちも身体もしっかりと受け止めてくれたのだ。
しかし、今日の菜摘はまるで別人のようだ。もちろん疲れ切って体調を崩しているというのも無関係では無いのだろうが、それよりも菜摘の心が愛することを恐れているような気がして怖かった。なんというか、もしかしたらまだ菜摘の心の奥底では愛してくれている気持ちがあるのかも知れないが、今はそれよりも愛することにブレーキを掛けており、近づきすぎないように距離を置こうとしているという感じだ。だからもし、菜摘の体調が良かったとして、さっきと同じように裸の菜摘を抱いたとしても菜摘の心が同じなら自分の思うようなセックスは無理だったろうと思った。
気持ちが不安定な時に時間に余裕が無いのはありがたいものだ。晃一は菜摘のことばかり考えそうになるのを部屋の片付けに集中することで棚上げにしようとした。時計を見るともう約束の時間になっている。
やがて、
ピンポーン
と音がした。晃一がドアを開けると一人の少女が立っていた。
「あの・・・はじめまして・・・・」
「あぁ、美菜ちゃんだね。入って入って」
「はい、おじゃまします」
晃一は美菜をリビングに招き、美菜を一人用のソファに座らせて紅茶を出した。
「改めて始めまして。三谷晃一です」
「工藤美菜です」
美菜はペコリと頭を下げた。
「あ、出してから言うのも何だけど、紅茶で良かった?」
「私は何でも良いです」
「ここの場所は直ぐに分かった?」
「菜摘に聞いてたし、道順は簡単だったから・・・」
美菜はかなり緊張しているようで、打ち解けた会話と言うにはほど遠い。実は美菜は先ほどから部屋の中に菜摘の痕跡があるかどうかを探していた。菜摘はさっきまでここにいたはずなのだ。だから何気ない物の位置やゴミまでもが菜摘の存在を語っているのではないかと思っていたのだ。しかし、今のところそれは見つかっていない。
「菜摘ちゃんとは仲が良いの?」
「いえ、そんなに良いというわけじゃ無くて・・・・・・・・・・・同じグループだけど・・」
「それじゃ、麗華ちゃんとかとは仲が良いの?」
「麗華はリーダーだから・・・・・」
「みんな言うね、『麗華はリーダーだから』って。本当にみんなから信頼されてるんだなぁ」
「まぁ・・・・・」
美菜は言葉を濁した。今はそこを突っ込む時では無い。それよりも気になっていることは今のうちに聞いた方が良い。美菜はそう言う性格だった。
「あの、なんてお呼びすれば良いですか?」
「俺のこと?好きにして構わないよ」
「それじゃ、やっぱり『おじさま』かな?」
美菜はそう言った。想像していた容姿とは違うが晃一は町でよく見るオジサンよりは遙かに洗練された感じだし、体型だってさほど悪くない。そして力強い大人の雰囲気に満ちていた。
「うん、変えたかったらいつでも良いよ。俺は美菜ちゃんて呼べば良いかな?」
「そうね」
美菜はぶっきらぼうに言った。高校生同士で『ちゃん』を付けることなど無いので、いかにも自分が子供っぽいと言われているようでちょっとだけむっとした。しかし、いつもの美菜ならそう言うことが一つあっただけで心を閉じてしまい、後は全て表面上の受け答えだけで済ませてしまうのだが、晃一にはそれをさせないだけの何かがあった。
「あ、紅茶が冷めちゃうから飲んでもらえるとありがたいんだけど・・・。それに俺も飲みたいから」
そう言って晃一は紅茶を再度勧めた。美菜は何も言わずに紅茶を手に取ると軽く飲んでみた。美味しいかと聞かれればそうかも知れないが、それだけだった。
「美菜ちゃんは紅茶とコーヒーはどっちが好きなの?」
「どっちでも・・・・・紅茶が多いかも知れないけど・・・」
美菜は『これが大人の挨拶代わりの会話って訳?どうでも良いけど』と思った。
「ウチの紅茶はどう?」
「どうって言われても・・・・・・・・分かんない・・・・」
「そうか」
「何か特別な紅茶なんですか?」
美菜は晃一が紅茶の自慢をしたいのかと思い、礼儀と思って聞いてみた。ただ、’その聞き方はとても自然だ。
「うん、まぁ、イギリスの紅茶だから・・・・・でも、別に気にしなければそれはそれで良いし」
「そう」
「紅茶以外にもジュースもコーヒーもあるから、好きな物を言って下さいね。最初に紅茶を飲んでくれたから俺の気は済んだので」
「三谷さん、じゃなくておじさまは紅茶派ですか?」
「一人でカフェに入った時は紅茶を頼んだりもするし、家で飲む時は紅茶だけど、会社ではコーヒーだし、そうだなぁ、仕事ではコーヒーのことが多いかな?」
「ふうん、そうなんだ」
話をしながら美菜はアンテナ全開で晃一のことを理解しようとしていたが、この時は単に優柔不断だと思っただけだった。
一方の晃一も美菜を観察していた。菜摘よりもちょっと背が低くて更にスレンダーな可愛らしい子だった。まるで男子のようなショートカットの髪が小さな顔にとてもよく似合っている。きっと男子にはとてももてるだろうなと思った。ただ、菜摘のように初対面の人には躊躇いを覚えるという感じでは無く、誰にでもはっきりと物を言うタイプなのかも知れないと感じた。
「会社で飲むのは水分補給って意味の方が大きいからね。手軽に飲めるのが一番だから。美菜ちゃんはいつもは何を飲むのかな?」
「決まってません。特に好きな飲み物って言うのも無いし」
そう答えながら美菜は、これではまるで自分も優柔不断みたいだと思った。美菜は受け答えをしながら、晃一の視線が自分のどこに向いているのか気にしていた。もちろんスカートはいつもより上げてあるので太ももの真ん中近くまで見えているが、晃一の視線は全然下に行かない。それに、どうやら胸を見ているわけでも無いようだった。軽く視線を合わせながら、外しているときは、強いて言えば自分の口元辺りだろうか。
『やっぱり学生とは違うのね』美菜は晃一の視線が全然泳がないことに感心したし、ちょっとだけがっかりした。
「そう言えば、菜摘ちゃんも出された物は飲むけど、飲み物は余り決まってないかなぁ、でも紅茶は好きかな・・・・」
晃一は何気なく言っただけだったが、突然ここに菜摘の話が出てきたことで美菜の反応が変わった。『何で私が菜摘のことを聞かなくちゃいけないのよ』とカチンと来たのだ。だからちょっと意地悪い質問をしてみた。
「そうね、最近菜摘はアイスティーとか飲んだりもしてるし。さっきまでいたのよね、ここに」
美菜はざまぁみろと思った。そう言われれば答えようがないはずだと思ったのだ。まさかさっきまで裸で絡み合っていたなどと言えるはずも無いからだ。
しかし、晃一の答えは予想外だった。
「うん、いたことはいたんだけど、なんかとっても体調が悪いみたいで、精も根も尽き果てたって感じでフラフラになってここに来たんだ。だからさっきまで向こうの部屋で静かに寝てもらってたんだ」
「体調が悪かった?」
美菜はちょっと意外だった。さっきは確かに体調が悪そうだったが、まさかそこまでとは思っていなかったのだ。『寝ていたって言ってもアレって訳じゃ無いわね、それじゃ』と思った。
「美菜ちゃんは知らなかったの?」
「さっき、お昼過ぎに菜摘には会ってるけど、そう言えばほとんど話さなかった。顔色も悪かったし」
「そうか、学校に来てたって事は、朝はもう少し体調が良かったのかも知れないね。そしてどんどん悪くなったんだ、きっと。確かに今日来る約束はしてたけど、それなら家に帰って静かにしてれば良かったのにね」
「おじさまに会いたかったんじゃ無いの?」
美菜はちょっとムッとした。そこまで体調が悪いのにちゃんときたと言うことは、会いたいと言うこと以外にあるわけが無い。それに対する言葉としては菜摘が可哀想だと思った。
「それは嬉しいけどね。ま、しばらく横になってたら少し回復してちゃんと歩いて帰れたから良かったけど」
「そうなの。ここに来たのに寝てただけなんだ」
美菜は晃一の話から、今日二人の間には何もなかったのかも知れないと思った。晃一がこのことについて嘘をつく理由がないし、嘘をついても何も良いことなど無いからだ。
「そう、結構しっかり寝てたよ。よっぽど疲れてたみたいだね」
「でも、そういうときに学校の近くにこういう所があるって便利かも」
「そうだね、だから菜摘ちゃんにはいつでも使って良いよって言ってあるんだ。鍵だって持ってるし」
「菜摘、鍵も持ってるの?」
美菜はちょっとだけ興味を持った。
「まぁ、特別な理由があるわけじゃ無くて鍵を二つもらったから一つ渡してあるだけだけどね」
「なあんだ」
「美菜ちゃんは持ってないの?そう言う逃げ込める場所」
「いきなりそう言う話に来るわけ?ちょっと早すぎ」
美菜は気分を害したみたいだった。
「ごめんなさい。でも、今日は相談があるってメールに書いてあったから・・・」
「それはそれよ。いきなり言われてもね」
美菜はそう言ったが、実は自分でも話をいつ切り出すべきか迷っていた。
「そうか、それじゃ、もう少し美菜ちゃんのことを聞いても良い?知っておきたいんだ。きっと相談に役立つから」
「いいわよ」
「いつも一緒にいる仲の良い子って、どんな子?」
「菜摘と友紀みたいなのを言ってるんだとしたら、私にはいないわ」
「そうなんだ。女の子って仲の良い子といつも一緒にいるってイメージだったから」
「そう言う子もいるけど、私はいつも誰かと一緒にいるなんて・・・ちょっと考えたくないわ」
「教えて欲しいんだけどさ、仲の良いこと一緒にいるって言うのは、いつも誰かに相談できるから?」
「それもあるし、誰かと一緒にいれば安心だから」
「安心て言うと?」
「一人だけで何でも解決するのって大変でしょ?自分のことを見てくれてる子がいれば、少なくとも一人で悩まなくても良いし、楽しいことなら一緒に盛り上がれるから、だと思う」
「それで、美菜ちゃんは特に親しい子って要らないんだ」
「前には一緒の子もいたけど、それだと問題が起きるのも2倍になるでしょ?元々自分のことでも精一杯なのに、その子の分も考えなくちゃいけないのって結構大変だし」
「それはそうだね。助けてくれることもあるけど、こっちも助けなきゃいけないって事だからね」
「そう、それで、二人がおんなじくらいならちょうどバランスが取れるんだけど、そうで無いと片方ばっかりになっちゃったりして・・・・」
「そうか、二人の子が同じくらいの頻度で問題に直面するならギブアンドテイクが成り立つけど、片方ばっかりに問題が起きると、もう一方の子は大変だね」
「そう言うこと」
「って事は、美菜ちゃんてあんまり問題の起きない子なんだ」
「そうかも知れないけど、多分、前に一緒にいた子に問題が起きすぎだったんだと思う」
「それでギブアンドテイクが成り立たなくなっちゃったんだ」
「私だって助けて欲しい時はあるのに・・・・・・」
「でも、そう言う状況が続いて一人で居る方が楽って事になったのなら誰も何にも言えないって言うか、問題ないよね」
「それはそうよ。文句なんか言われること無いわ」
「それだと、美菜ちゃんは自分だけで何でも解決しなくちゃいけないけど、それは良いの?」
「まぁね・・・・・友達に時間を取られてばっかりよりは・・・・・・その方が良いの」
美菜はそんな話をしながら、話の方向が自分の考えていた方向とはだいぶ違ってきていることに気が付いた。本当はもっとありきたりの高校生の話題で済ませるはずだったのだ。今の話題の方向は明らかに人生相談みたいになってきている。このままだと自分のことを全部話さなくてはいけなくなるかも知れない。それは美菜にとってかなり怖いことだった。しかし、今の自分の気持ちとしては、どうも話題を変える気にならないのも確かだ。
美菜は何度か話の途中に足を組み替えたりしたが、晃一は全く興味を示そうとしなかった。これは美菜にとって珍しいことだった。今までは同級生と言わず年上と言わず、たいてい美菜の足のラインに興味を示したし、チラチラと見られるのが密かな快感でもあった。だからこそ、美菜は今回この話に乗ったのだ。
しかし、このままではみんなの前で『私は興味を示してもらえなかった』と報告しなくてはいけない。美菜はそう報告した後にみんなが『美菜でもダメなんだ。やっぱりね』と言われるのが怖かった。スレンダーな体型の美菜は、元々胸には全く自信が無いと言うよりコンプレックスが強い。既にバージンはロストしていたが、美菜にとって彼の前でブラジャーを外すのは挿入を許すよりも恥ずかしいことで、最後に脱ぐのはパンツでは無くブラジャーだったし、脱がずに済ませられるなら脱がない場合もあった。だからこそ、美菜は足のラインに自信を持っていたのだ。
「それじゃ、誰かに相談したいときってどうするの?」
晃一は相変わらず美菜の足に興味を示さず、じっと美菜の顔を見つめている。
「たいてい自分で何とかするから、それで良いの」
「そうか、誰かと一緒にって思っても、今度はそのこのことも助けなきゃって思うと、やっぱり一人でいいやってなるんだ」
「そうね、菜摘と友紀はいつも相談してるみたいだけど、私には無理よ。それって変なの?」
「まさか、それは人それぞれ。だって、美菜ちゃんが言ったように、どっちにも良いことと悪いことがあるんだから、どっちを選ぶかは自由であるべきだよ。それに、いつも一緒に居る子が居なくて誰にも相談しない子って美菜ちゃんだけじゃ無いだろ?」
「そう?誰か知ってる?そんな子」
晃一は一瞬迷ったが、直ぐに答えた。
「麗華ちゃんとか」
「あぁ、そうか」
「麗華ちゃんはリーダーだから、誰かに相談したくてもできないでしょ?メンバーの誰か一人の意見ばっかり聞いたって事になったら面倒になるから」
「それはそうね」
「だから彼女はいつも自分一人だけで決めてるみたいだよ」
「気が付かなかった。麗華はリーダーだから、自分の問題なんてほとんど言わないし。たいていメンバーの誰かのことばっかりだから」
「自分のことをみんなに相談しても良いと思うんだけどね・・・・。誰にだって悩みはあるんだから。でも、やっぱりメンバーの子には弱みを見せたくないのかも知れないね」
「そうか、おじさまと麗華が話をしたって聞いたけど、麗華の相談だったのね?恋のこと?」
「それは内緒。ま、麗華ちゃんの高校生活全般て言うか、友達関係全般みたいな話だったから」
「ふうん、麗華も相談してたんだ・・・・・・。それで元気になったんだ・・・」
「そうなの?元気になったの?」
「おじさまは学校のこと知らないから。少し前に麗華がとっても元気なくて落ち込んでいたことがあったんだけど、少ししたらすっごく元気になったの。私たちには『心配掛けたね』くらいしか言わなかったけど、そうか、おじさまに相談して解決してたんだ・・・・。おじさまと話をしたって言ってたから菜摘のことで相談に乗ってたのかと思ってた」
「リーダーだから責任感の強いしっかりした子だけど、よく話してみると素直な気の弱いところもある普通の子だったよ」
「麗華の気が弱い?本当?」
「もちろん誰にだって弱いところはあるものさ。それを必死に守ったり隠したりするから逆に反対の性格に見られたりすることも多いけどね。気の弱いところを隠そうと必死に頑張るから気が強く見られるって事、結構あるんだよ」
「ふうん、そう言う物なんだ・・・・・」
「美菜ちゃんだって、きっとそういう所ってあるんじゃ無いのかな?」
「おじさまもあるの?」
「もちろんあるよ。俺は元々勉強が苦手で頭の回転も速くないから、なかなか友達の輪の中で上手にやっていけなくて、だからその分知識を多くしていつでも話題について行けるように心がけてるんだ。考えてみれば中学くらいからずっとそうだよ」
「そうなんだ。勉強が苦手で頭も悪いから知識を増やす・・か・・・・・。それならおじさまも逆に思われるわね。知識が豊富だから勉強ができる人って」
「そう言う物なんじゃ無いのかな?」
そこまで話したとき、晃一は美菜の紅茶が空になっていることに気が付いた。
「あ、紅茶、入れるね。直ぐだから」
そう言って席を立ってキッチンに向かった。
美菜は考えた。このままではみんなの前で残念な報告をして、それでお終いだ。いくら足を組み替えても視線一つずらそうとしない。それはそれで仕方ないし、無理に誘惑してみても、それは美菜がしたことになってしまって晃一がしたことにはならない。もちろん、嘘をついてまでみんなの期待する報告をする気は無かった。嘘は少し話せば直ぐにばれるし、菜摘の相手ともなれば尚更だ。
しかし、このまま適当に話をしてお終いにするのも残念な気がした。