第176部



『よし、やり直しだ』
美菜はそう思うと、キッチンでお湯を沸かして紅茶を準備している晃一の所に行った。
「おじさま、今日はこれで帰ります」
「え?もう帰っちゃうの?もう少ししたら食事に誘おうと思ってたのに」
「でも、明日もう一度来ても良いですか?」
「明日?いつ?」
「午後2時・・???」
「そうか・・・、会うのは良いけど、できればお昼を一緒に食べない?」
「ごめんなさい。ウチは日曜のお昼はみんな一緒なんです」
「それなら2時で良いよ」
「ごめんなさい・・・・・」
「でも、どうして?菜摘ちゃんみたいに気分が悪くなったの?」
「ううん、全然違います。そんなことじゃないです・・・・・」
美菜は何故かちょっと恥ずかしそうにしている。晃一は何か美菜の雰囲気が変わったような気がしたが、気にしても仕方ないのでそのままにした。
「それじゃ、また明日来ます」
「うん、気をつけてね」
美菜は晃一の部屋から出てくると、もう一度改めて考えてみた。みんなには残念だったと報告するのは仕方ない。ま、上手に軽く済ませれば何とかなるだろう。しかし、それだけで良いのだろうか?何となく、だが、今までの会話から本気で相談してみるのもありかも知れないと感じていた。
もしかしたら、今まで絶対に誰にも言わなかったことでも晃一になら相談できるかも知れないのだ。こういうチャンスはなかなか来ないものだ。それは美菜自身がよく分かっていた。ただ、そうすると当然菜摘の同意を貰う必要がある。それが気になっていた。そこで美菜は菜摘にメールを送ることにした。
美菜が帰ってしばらくしてから、晃一は夕食に出ようと思って支度をしているときに菜摘からメールが入っていることに気が付いた。美菜のことは中間報告の段階ではあるが、菜摘の心配を解すのに役立つだろうと思ったのと、美菜が帰ってしまったので気が楽になったので、そのまま菜摘のメールは読まずに持ち歩き、立ち寄った中華料理屋に入って注文をしてから開いてみた。
『パパ、さっきはありがとう。おかげで本当に楽になり、家に無事に帰りました。一緒に居てくれてありがとう。やっぱり私にはパパが居ないとダメみたい。本当にありがとうございました』
ここまで読んだ晃一は満足だった。ただ、その先には予想もしない長いメールが続いていた。
『私の気持ちを正直に書きます。変だと思っても笑わないで下さいね。北海道から帰った私はとても幸せでした。だから勉強もがんばれました。パパに褒めて欲しくて。でも、今は正直な気持ちとしてパパに会うのが怖いです。会って幸せになればなるほどもう一人の私がパパから私を引き離そうとします。この前と同じように。私、ゆっくりとしか変われないみたい。きっと、もう少しすればまたパパに会いたくて堪らなくなると思います。でも、今は会うのが怖いし、パパに待っていて欲しいとも言えません。だって今の私は凄く勝手だから 菜摘』
晃一は八宝菜をつまみにビールを飲んでいたが、正直どっちの味も良く分からなかった。何度もメールを読み返して菜摘の気持ちに近づこうとした。そして今までに菜摘との間にあったことを思い返し、その中に今回のメールの前兆が無かったか必死に探した。菜摘と知り合って親しくなってからのこと。そして、菜摘を抱いてから振られるまでのこと。そしてまた菜摘と付き合えたこと。思い返しながら晃一は冷静に自分の気持ちと比較していた。すると、なんとなく自分の気持ちと菜摘の気持ちは時々一致するが、一致しているときは意外に短いと思った。
そして、それから菜摘の心の動きを改めて丁寧に追ってみた。菜摘が最初に会社の社宅に来た頃から。そして最後にたどり着いた結論は晃一にとって意外なものだった。それは晃一にとって余り嬉しいことでは無かったし、今まで気が付かなかった自分に対しても落胆した。菜摘の素直さや美しさに夢中で菜摘本人の気持ちを余り考えていなかったことになるからだ。
たぶん、今の菜摘はとにかくしっかり勉強がしたいのだ。だからこそ、北海道のお礼の後に続けて勉強のことがメールに書いてあるのだと思った。そして、唐突に終わっている感じなのは、書くのが嫌になったか気持ちが散って書けなくなったかのどちらかだ。多分後者だと思った。と言うことは、今の菜摘は勉強をがんばること以外のことは考えたくないと言うことだ。晃一も内心では認めたくない気持ちが強いが、残念ながらそう考えると全ての辻褄が合うのだ。
考えてみれば、菜摘が晃一と知り合って付き合いだしてから菜摘が真っ先に褒めて欲しがったのが成績がアップしたことだった。あの時は、きっと好きになった人に褒めて欲しくて勉強をがんばったのだと思っていたが、もしかしたら逆なのかも知れないと気が付いた。菜摘自身、気が付いていないようだが、端的に言えば、『勉強をがんばれる理由として恋愛を見つけた』のかも知れない。
だから恋愛の比重が高くなりそうになると、自分で自分に自然に警告を発しているのでは無いだろうか?そんな気がした。
そうであれば、これから晃一が菜摘にできることなど知れている。菜摘の本心が再び晃一の方に向いてくるまで菜摘を応援するしか無い。
恋愛の鉄則は、相手が望む物を与えることだ。それがいつも笑顔を伴うとは限らないが、今の菜摘に対しては予想が付いた。晃一は食事に頼んだ天津飯をゆっくりと食べてから更につまみにチャーシューを頼み、菜摘にメールを打ち始めた。
『菜摘ちゃん、メールありがとう。体調が少し良くなったみたいで安心しました。菜摘ちゃんの気持ちを読んだときはちょっとびっくりしたし悲しくもなったけど、菜摘ちゃんの気持ちが一番大切だからこう言います。しっかり勉強をがんばって下さい。菜摘ちゃんが満足できるくらいの成績が取れたら遊びにおいで。いっぱい頭を撫でてあげます。いっぱい褒めてあげます。だからそれまでの間、きっちりとがんばって下さい。メールはいつでもOKだよ。 晃一』
実は最後の部分で晃一は『待ってるからね』と書いては消し、書いては消していた。自分としては書きたいのだが、菜摘がメールでわざわざ否定しているのだから、最終的には書かないことにした。書いても菜摘を縛るだけだし、書いたから菜摘が戻ってくると言う物でも無いだろうと思ったのだ。こう書いて相手が喜ぶのは相手も待っているときだけなのだから。
書き終わったメールを送った晃一は、菜摘に次に会えるのはいつなのだろうかと思った。そして、もしかしたらずっと会えないのでは無いかという不安に襲われ、それに耐えなくてはいけなかった。結局夕食に立ち寄っただけの中華料理屋で晃一は更につまみにシナチクやピータンを追加し、更に紹興酒をしっかりと飲んでから帰宅した。
以前菜摘が急に何も言わずに離れたときは理由が全然分からなかったし、直ぐ横に友紀が居てくれたので余り不安になることは無かったが、今回は菜摘の心の動きが読めて全ての辻褄が合ってしまっただけにショックは大きかった。
こういう時は酔って酒の勢いで寝るのが一番だった。
その夜、実は菜摘は送ったメールのことを後悔し続けていた。正直な気持ちを晃一に伝えるのが一番良いと思ってそうしたのだが、晃一から返ってきたメールは半分別れのメールのようだった。自分が今一番心配していることを的確に抑えて返事をくれただけに、本当なら喜ぶべきなのかも知れないが、今は全然嬉しくない。それどころか、こういうことをする自分がとても嫌だと思った。晃一の気持ちを無視してこんな事をする自分が更に嫌になっていた。ただ、これで勉強に集中する理由も見つかったとは思った。晃一に会いたければしっかりと勉強すれば良い、と言うのは晃一自身にも納得して貰ったのだから。
ただ、以前のように晃一の胸に飛び込む時をひたすら心待ちにして勉強に集中できるかどうかは微妙だった。さっき送ったメールの最後に書こうかどうしようか迷った言葉だ。でも、自分からあんなことを言っておいて『待っていて下さいね』とはどうしても書けなかった。だからもし、成績を上げた後に会ったらどうなるのか不安が募る。晃一の心が離れてしまっているかも知れないと思うといたたまれなくなるのだ。
もちろん、勉強を褒めてもらって晃一に全てを愛してもらう時の喜びは何物にも代えがたかった。もう一度あのように愛して欲しい、愛されたい、と強く願っている自分は確かに居るのだ。
しかし、それに夢中になってしまえば友紀のように成績が下がってしまうのは明らかだった。自分が本気で夢中になればどうなるかは予想が付くだけに、それだけは何としても避けたかった。そこまで考えて、菜摘は一つ重大な発見をした。
そこまで夢中になるのを怖がっている理由の一つは、自分が晃一との別れがいつか来ることを予測しているからなのだ。だからその後に何が残るのかを心配しているのだ。菜摘は自分の気持ちの中に恋愛までも計算高く算盤を弾いている自分に気が付いて更に落ち込んだ。
しかし、菜摘だって好きでそうなったのでは無い。自分の後には妹が受験しなくてはいけない。今、母は好きなところにいけば良いと言ってくれているが、自分が仮に私立大学に行ったとしたら妹は私立に行けなくなるのは明らかだ。それくらいの想像はついた。
母子家庭の姉だから菜摘は何とか学費の安い大学に入らなくてはいけない。国立は無理かも知れないが、公立か、そうでなければ私立の奨学生にはなりたい。中学の時は自分の成績を心配したことなど無かったのに、この進学校に入った途端に成績が悪くなってしまい、なかなか上がらないのでどうしても心配してしまう。
だから今の菜摘はなんとしてでも、どんな理由を付けてでも成績を上げる必要があった。それはタイムリミットがある、もう2年生の半ば、厳しい挑戦なのだ。菜摘自身、それは常に意識しているわけでは無かったが『何となく』守るべき事として強く意識の下に刷り込まれていた。
その日、菜摘に友紀から来たメールは少し不思議だった。本当なら幸せを確認してうれしがっているはずなのに、どちらかと言うと菜摘のことを心配して親身に相談に乗ってくれようとしている。菜摘は自分のことで一杯ではあったが、友紀に何かあったのかちょっと心配になった。
更にその日は夜遅くになって美菜からメールが来た。それは菜摘と晃一の関係を聞いているもので、相談を続けて良いかと尋ねていた。もともと相談とかは口実だったはずだから、菜摘は美菜が晃一について興味を持っているのだと分かった。しかし、美菜が晃一と付き合うというのはどうしても美菜の性格からして考えられなかった。美菜は今まで彼氏に人気のある男子ばかりを選んでいたので美菜が晃一とデートしているシーンはどうしても思い描けないのだ。
付き合うわけでは無いのに興味を持っているとしたら何か?そこで菜摘は、晃一に心を許し始めている美菜が真剣に何かを相談したがっているのだと解釈した。こういう推理は友紀なら得意だが、いつもはそんなことなどしたことの無い菜摘にとって珍しいほど冴えた推理だった。ただ、そうなるとその次には何が待っているのか、は敢えて考えないようにした。今の菜摘が考えても仕方ないのだから。しかし、菜摘の気持ちは少しだけ整理がついた。考えるところまで考えたので、良い悪いは別にして取り敢えず自分で納得できた。だから菜摘は正直な気持ちのメールを返した。
メールを送った後、不思議とちょっとだけ気が楽になった。
そして翌日の昼になった。晃一はまだ菜摘のメールを理解はできたが納得できずにいた。軽いジョギングの後で熱いシャワーをたっぷりと浴びたことで、昨日、部屋に帰ってから更に飲んだ酒がやっと抜けたところだった。
約束の時間まではまだ2時間近くある。本当ならラーメンを食べたいところだったが、美菜が来るのだから香りの強いものはやめておいた方が良さそうだ。仕方なく晃一はマンションの最寄り駅の近くのバーガーショップで済ませることにした。
最近できた店だ。もともと殺風景な駅なので小さなバーガーショップでもかなり目立っている。晃一は気に入ったのが見つかれば良いがと思いながら中に入った。すると、目の前に思いがけない子がいた。
「あれ?美菜ちゃん、どうしたの?」
「あっ・・・・・こ、こんにちは・・・・」
晃一も驚いたが美菜も驚いたらしい。なんと言って良いか分からないという感じだ。しかし、ここは美菜との距離を縮める良い機会だ。
「ねぇ、ちょっと提案があるんだけど、聞いてもらえる?」
そう言って晃一は美菜をオーダーカウンターから引き離した。美菜は昨日『日曜日の昼は家族で一緒』と言ったことをどう取り繕おうか困っていたので話題が変わったことは渡りに船だったから直ぐに載ってきた。
「美菜ちゃん、ラーメンとかって、好き?」
「はい、食べます」
「よく食べたりする?」
「美味しいラーメンて結構高いし遠かったりするから、良くって言うほどじゃないけど・・・・、家族で行くとテーブル席を待つのも大変だし・・・」
「良かったら、これから一緒に食べに行かない?二人なら気にしなくても良いでしょ?」
「おじさまと、私が?」
美菜は驚きの提案に少しひるんだ。家族以外の男性と一緒にラーメンを食べた経験は無くは無いが、その時の相手は彼氏か中学から仲の良い男女のグループだけだった。『ここで良いです』と言えばそれまでなのはよく分かっていた。
「うん、そうなんだ。正直に言うと、今はラーメンが食べたいから・・ダメかな?」
「いいですよ」
美菜は案外気楽に答えてしまった。答えてからちょっとだけ『しまった。もっと考えた方が良かったか』と思った。
「それじゃ、取り敢えず出ようよ」
美菜が賛成してくれたので晃一は喜んだ。店を出ると美菜が、
「それで、どこに行きたいんですか?」
と聞いてきた。
「うん、前から気になってた店があってね、美菜ちゃんを見たらちょうど良い機会だと思い付いたんだ」
「東京?」
「違うよ。電車で行けるところじゃないって言うもの行きたい理由の一つかな。タクシーに乗るからね」
「タクシーに乗ってラーメンを食べに行くの?」
「世の中は車で無いと行けないところの方がずっと多いんだよ。タクシーを使った方が車を持つよりずっと安いしね」
「そうなの?」
「そう、車を持てば車検だ保険だっていっぱいお金がかかるからね」
そう言うと晃一は駅前でタクシーに美菜を押し込み行き先を告げた。最初は当然美菜も知っている景色だが、直ぐに知らない景色になる。美菜は晃一の方を見る気にはならないし、初めて見る景色が面白くてずっと外を見ていた。晃一の方も、何と言って話しかければ良いのか分からなくて横目で美菜の横顔を見ているだけだった。
ラーメン屋は沼のほとりにあった。と言っても回りは綺麗に開発されていて沼と言っても小さな湖みたいな感じだった。
「ここだ、近くに止めて下さい」
そう言って晃一はタクシーを降りると、美菜を小さなラーメン屋に連れて行った。食券を自動販売機で買う今時のタイプだ。美菜は興味津々と言った感じで店内を見渡している。
「最初に言っておかなくちゃ、脂っこくても大丈夫?味も強いよ?ダメなら次の店に行くけど?」
「こってり系なの?ぜんぜんOKよ。家族で行くときは醤油系が多いから」
「それは良かった。何でも好きなのをどうぞ。トッピングも楽しめるね。高校生なんだからいっぱい食べてね」
しかし、ラーメン自体にはさほどバリエーションがあるわけでは無く、麺の茹で加減や背脂の量とたれの量で味の濃さを決めるのが主なところで、あとはさほどの違いは無い。結局美菜は特製チャーシューメン、晃一は同じ物にネギを増量してもらった。
「足りなかったら無料で麺の追加ができるみたいだよ」
「おじさま、前から知ってたの?」
「うん、もともとこのお店の源流になるお店が池袋の環七沿いにあって、そこの暖簾分けらしいんだ。元のお店の方は昔よく行ったよ」
「その頃からファンだったんだ」
「そう、その昔のお店って言うのはちょっと変わってね。注文を取った後に一度に作れる数が決まってて、15杯くらいかな・・、それをそれぞれの注文に合わせて一気に作るんだけど、それをお客さんが食べている間に次の15杯をみんなで注文するんだ。注文してお金を払うと割り箸がもらえて、それが次にカウンターテーブルに着く権利になるんだ」
「ごっちゃになったりしないの?」
「それがならないから不思議なんだ。それに、前の日と次に食べる人では割り箸の色が違うんだよ。だからかな?」
「ふぅ〜ん、おもしろいの」
「そこのお店から背脂ちゃっちゃ系って言うのが始まったらしいんだ」
「ちゃっちゃ系?」
「今は背脂系って言うみたいだけどね。見ててごらんよ。ほら」
美菜がカウンターを見ると、確かに丼の上からザルのような物で背脂を降らせている。
「ああするからちゃっちゃ系って言うんだ、おもしろ・・・」
「そう、とにかく県内で一番こってりしてるって評判らしいよ」
「ふう〜ん、なんか張り紙って言うか注意書きも多いし、なんかうるさい感じだなぁ」
美菜は店の雰囲気に馴染めないようだったが、今更逃げ出すわけにも行かず、ラーメンが来ると大人しく食べ始めた。
「何回か上下にしっかり混ぜろって書いてあるでしょ?」
「うん、分かってるけど、混ぜにくい・・・・重い・・・・」
「がんばれ」
「うん・・・・・・・」
美菜は制服にはねないように苦労しながら上下に慎重に混ぜてから食べ始めた。
「どう?」
「うん、まぁ・・普通に美味しい・・・・かな・・・・」
「美味しいなら良かった。結構食べ始めるまでに苦労が多かったからね」
「そう、メニューの選び方だってアレでしょ?それにあっちこっちに注意書きがいっぱい」
「まぁ、いろんなノウハウが詰まってるって事で許してあげてよ」
晃一はそう言いながら自分の分も食べ始めたが、ふと見ると美菜は結構真剣に食べている。