第2部

 

「もう、全部読んじゃったんですか?」

「うん、ざっとだけどね」

「私なんかこの2ページを読むのに1時間以上かかって、それでまだ良く分からないんです。だめですよね」

「最初はそんなものじゃないの?分からないところがあったら教えてあげるよ」

「え?いいんですか?」

「うん、かまわないよ。今読んだところで良い?」

「それじゃ、この辺りを昨日予習したんですけど・・・・・」

そう言うと、菜摘は晃一にテキストの一文を指差した。

「あぁ、これね」

「どういう意味なんですか?」

「どういうって、ホテルの予約はアメリカからインターネットでしていたから心配はなかったけど、フロントで英語が通じるか分からなかったので緊張していた、って書いてあるけど」

「そうなんですか。って、あの・・・さっと言われても分からなくて・・・ごめんなさい」

「ごめんね。後ろの方から読んでいくよ。一番最後の部分には予約はアメリカからインターネットでしていたって書いてあるでしょ?」

「through internetって言うのが・・・????」

「『インターネットを通して』ってことだね」

「そうか、そう言う意味か」

「『〜を通して』なんて日本語と一緒でしょ?」

「そう言われれば・・・」

「そうさ、でも、ちゃんと予習してるなんて石原さんは真面目だね」

「私?そんなことありません」

「だって、今日ここで勉強してるんでしょ?真面目じゃないの」

「だって、次の授業で当てられるだろうし・・・」

菜摘は自然に自分の英会話の話を晃一に披露した。そして、その話が終わる頃、菜摘のグラタンが空になった。

「どう?少しは暖かくなった?」

「はい、だいぶ良くなりました」

「そう、良かった。唇の色も戻ったみたいだね」

「はい。少し暖かくなったみたいです」

「まだ服は濡れてるでしょ?」

「それは・・・・・・」

「もう一着ジャージがあるんだから、電車に乗る前に新しいのに着替えたら?外に出ると濡れたジャージだとまた寒くなるよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

「その方が絶対良いと思うよ」

「はい・・・そうします」

そう言うと菜摘は着ていたジャージを脱ぎ、もう一着に着替えた。

「あれ?」

袖を通した菜摘が不思議そうに言うので、

「どうしたの?」

と言うと、

「なんか、さっきのより大きいみたいで・・・・・・」

と言った。

「あ、言うのを忘れてた。ごめん。それはLなんだ。さっきのMのが二つ無かったんで、緊急時だったしLでも良いやって。ごめんね」

「ううん、そんなことありません」

菜摘はそう言うと、袖を通してジッパーを上げた。確かにさっきより一回り大きいのが分かる。

「どう?脱いだ方を持ってごらん。重くなってたらその分だけ雨を吸ってくれたって事だけど」

「あ、だいぶ重くなってる」

「良かったね。それなら、今度の新しい方は、前のが雨を吸ってくれた分、暖かくなるよ」

「はい、本当にありがとうございます」

「それじゃ、出ようか」

「はい」

そう言うと、二人は洋食屋を出た。駅までの短い道のりの間、二人は特に話をすることもなかったが、改札が近くなったときに菜摘の方から声を掛けてきた。

「あの、三谷さん」

「ん?なんですか?」

「今度、また会ってくれますか?」

「うん、いいよ」

その返事があまりにもさりげなかったので、菜摘は言葉を失ったらしい。

「はい、それじゃ・・・・・・」

「気をつけて帰ってね」

「はい、でも、一緒ですよね。方向」

「あ、そうか。それじゃ、途中まで一緒に行こうか」

「はい」

そう言うと二人は快速の乗り場へと向かった。帰りの電車は朝ほど混んでいないので気軽に話をしながら乗っていける。もちろん座るのは無理だが。

菜摘の高校の話を聞きながら、晃一はあの少女と二人で話をしているのが不思議で仕方なかった。あのまま自然消滅する可能性が高かったのに、今は二人で話をしている。

菜摘の話が一段落したとき、その話を思い切ってしてみた。

「あのね、俺たちは顔は知ってたけど、たぶん、話をすることなんて無いと思ってたんだ。だって、話をするほど親しい訳じゃないし、傘を貸したって言っても、それだけだからね。だから、こうやって話をしているのがとっても不思議なんだ」

そう言った時、菜摘の表情が変わった。

「三谷さんは、そう思ってたんですか?」

その言い方は悲しいような、怒っているような、変な言い方だった。

「うん。思ってたよ。石原さんは?」

「私は・・・・・・」

そう言うと菜摘は黙り込んでしまった。『何か、機嫌が悪くなるようなことを言ったかな?』晃一は怪訝に思いながらも突然止まってしまった会話を繋ぐ方法が見つからず、そのまま菜摘の降りる駅に着いてしまった。

「それじゃ、またね」

晃一はそう言ったが、菜摘は軽く頷いただけで出て行ってしまった。『どうして黙ってしまったんだろう?それまではそれなりに親しげに話してくれたのに』晃一は何度も考えてみたが、菜摘が黙り込んでしまった理由は分からずじまいだった。だから、自分の部屋に帰って食事をしてから軽く酒を飲んでも、その事が気になって気分が乗らない。本来なら、あの女子高生と話ができたのだから喜ぶべきなのだが、どうもそう言う気分ではないのだ。

『ま、人と新しく関われば、良いことばかりじゃないってか?そんなもんだよな。だから人生は面白いって事か』と無理やり心に整理をつけ、布団に潜り込んだ。

それからは、毎朝電車に乗ると常に菜摘を捜してしまった。『もしかしたら今日も会えるかもしれない』と思うと自然に心が引かれてしまうのだ。晃一と菜摘は年が大きく離れていて、親子の年齢差に近い。だから、菜摘のことばかりを気に掛けるのは良くないと分かっているのだが、自分でもどうしようもないのだ。ただ、気になっているだけで恋心とは違うと思えるのは幸いだった。

すると、程なく朝の電車の中で菜摘が晃一の前に立った。座っている晃一を見てニッコリと笑う。その笑顔は先日の黙りとは別人のように朗らかで可愛らしかった。そして、ふと見ると、菜摘の足は晃一の膝とほとんど触れ合わんばかりに接近している。普通、満員電車でも、どうしようもない場合以外、立っている客の足が座っている客の足に触れることはない。少なくとも十センチくらいの距離は開いているものだ。十センチ、それが満員電車で取れる足の間隔だった。しかし、今日は無理に押されているわけでもないのに菜摘の足は晃一の膝にほとんど触れそうになっている。晃一が足を動かしたわけではないから、菜摘が自分から足を近づけてきたことになるが、菜摘は気が付いていないのかも知れなかった。人にはそれぞれ安全距離と言うものがあって、その距離を自然と自分から取るものだという話を聞いたことがある。その距離は人によって様々だが、その距離の1センチでも外にいれば気にならないのに、1センチでも内側に入った途端、違和感を覚えるらしい。もしかしたら十センチという距離は普通の人の膝と膝とのぎりぎりの距離なのかもしれなかった。

晃一は自分の席を指差し、菜摘に『座る?』と合図してみた。しかし菜摘は『まさか』という感じで首を左右に振って座ろうとしない。そして、膝の距離が気になっている間に二人が降りる駅に着いてしまった。ただ、晃一が降りようとして立ち上がるとき、菜摘から小声で話しかけてきた。

「今日、改札前で待ってます」

それだけ聞くのが精一杯だった。駅で降りる客の流れが二人を引きはがしていく。晃一は菜摘の方を見たし、菜摘も晃一を見ていたようだが、電車から吐き出された後も人の流れには逆らえず二人はどんどん離れていく。晃一は改札で時間を聞いてみようと思った。しかし、晃一が一足先に改札に着いたとき、菜摘は友人の女の子と二人で話をしながら出てきた。そして晃一の前を通り過ぎるとき、チラッと視線だけを交わしていった。一瞬だけ見せた笑顔が脳裏に焼き付き、晃一は良く分からないながらも夕方を楽しみにするしかなかった。

 

菜摘は授業が始まると、思い切って晃一に声を掛けた自分を褒めていた。『良くやったね。がんばった。偉い偉い』もともと一瞬の時間しかないのは分かっていたので、一つ前の駅を出たときからタイミングを図っていた。改札で晃一が待っていてくれたことで晃一にちゃんと伝わったことは確認できた。ただ、改札までの途中に友達から話しかけられたのでそれ以上の会話ができなかったのが残念だったが。

もともと菜摘は、晃一が菜摘に気付いた頃、つまり最初に偶然席を譲って貰ったときから晃一を気にしていた。と言うか、正直に言えば好感を持っていた。だから、雨の日に突然傘を差し出されても素直に受け取ることができたし、びしょ濡れになった日に手を引かれても素直に付いていくことができた。傘を返したとき、もう少し上手に会話できていたらもっと自分の好感の本質を探れたのに、と思って後悔したこともあったが、『びしょ濡れ事件』以来、急速に心が晃一に近づいたことで菜摘の心の中にはいつも晃一がいた。菜摘にしてみれば親ほど年が離れているのは分かりきっていたが、晃一の立ち振る舞いはいつも大人の魅力を感じさせ、その前にいる自分も一人の女性として扱ってくれているような気がして、いつも晃一に心が近づいていくのを素直に受け止めていた。

そして、晃一を発見して以来、同じ高校の男子がまるで子供に思えて全然魅力を感じなくなってしまった。だから、それまで友達と追っかけていた3年のサッカー部の男子も最近はどうでもよくなり、完全に友達に追っかけは任せっきりの状態だった。

『三谷さんて素敵だな。結婚してるのかな?きっとしてるよね、あんなに素敵な人だもの。どんな奥さんなんだろう?子供はいるのかな?いくつかな?』何度も何度も同じ事を考えてみる。もちろん答えなど出るはずもないが、次に晃一を見かけた時に何か小さな事を一つでも発見すると、同じ事を考えても結論が少しずつ変わってくるので飽きることはなかった。

ただ、残念だと思ったのは、晃一と一緒に電車で帰ったときの自分の反応だった。晃一はあの時、『このまま話をすることなど無いって思ってた』と言った。それは菜摘にとって『わざわざ話をする価値のない程度の女の子だと思ってた』と言う風に聞こえた。とてもショックだった。何故なら、それまで話しかけるところまでは行かないにしても、晃一をもう一度見たくて、もう一度近くに行きたくて、何度も何度も電車を変えたり時間を変えたりして晃一の乗る電車と時間を見つけたのに、やっと話をしてみれば何のことはない『石原さんとは話をするなんて思っても見なかった』と言うのだ。晃一は全てが偶然だと思っているらしい。

『偶然なわけ、ないっしょ』その時のことを考える時だけ、いつも菜摘は腹が立つ。晃一をもう一度見ようと思って初めて気が付いたが、生活パターンが全然違う人の乗る電車を見つけるのがこんなにも大変だとは思わなかったのだ。当然のことながらチャンスは一日に行きと帰りの2回だけしかない。それに、菜摘にだって予定や用事はあるから、いつも晃一を捜せるわけではない。その中で僅かな期間に晃一を見つけられたのは、晃一のパターンがとても単純だったのもそうだが、菜摘の探し方に気合いが入っていたからなのも事実だった。その結果を『単なる偶然』と言われてしまえば菜摘だって傷付くのは当然だった。

ただ、どうやら晃一は本当に全てが偶然だと思っているようだった。確かに菜摘のしたことは菜摘以外誰も知らないことなので、偶然だと晃一が思っても仕方がないのかも知れない。そこんところを分かってあげれば、あの時も電車を降りる前にもっと違った対応ができたのに、と思うのだ。

確かに、傘を借りたときのことは完全に偶然だった。それは神様に誓っても良い。急に学校に置いてあった物を取りに戻る必要があったのだ。だから、あの時は本当にびっくりしたし嬉しかった。そしてそれ以来、いつもに晃一を捜すことになったのだ。

そして、晃一には絶対内緒だが、『びしょ濡れ事件』はほとんどは偶然だったが、たぶん2割くらいは菜摘の意志も入っていた。誰にも言えないことだが、あの時学校を出る時点でぱらぱらと雨が当たっていたのでもうすぐ本格的に雨が降ってきそうなのは分かっていた。そして、もしかしてあのおじさんが助けてくれれば、と思って駆け出したのが本当のところだった。だから、いきなりびしょ濡れになったときは自分でも本当にバカなことをしたと思った。でも思い通りに(?)晃一が現れたときは本当に驚いたし、あまりにも酷い格好なので逃げ出したくもなった。ただ、あれだけ思いっきり濡れたことで、還って晃一のことをよく知ることができた。

今の菜摘の心の中の晃一は“理想的なおじさん”だった。菜摘のことを理解して優しく包んでくれる大人、とでも言ったら良いだろうか。菜摘にとっては大人への入り口みたいなものかも知れなかった。だから最近は友達付き合いも減らして晃一を捜すことばかりに時間を掛けていた。いつもの友人から離れてみるとかなりの時間が作れる。自分でも『女の子って、本当にいつも誰かと一緒に居るんだなぁ』と改めて気が付く。その日も学校が終わってから晃一が駅に現れるまでの時間を一人で過ごすのはちょっとしんどかった。だって、友達に見つかりやすいところにいれば声を掛けられて一緒に行動する羽目になりかねないし、無理に断れば何かと詮索されるのは目に見えている。だから菜摘はわざと駅と通学路から少し外れた場所の本屋で時間を潰していた。『通学路に一人きりでいるって、結構大変』と思った。

立ち読みで時間を潰している間、実は頭の中は晃一に会ってから何を話すか、何をするかでいっぱいだった。だって、会ってからのことは何も決めていなかったのだ。とにかく声を掛ければ何とかなると思っていたので、今朝までは声を掛けることに集中していた。しかし、それを成し遂げた後は急に心配になってきた。『会いたい』とは言ったが時間だって決めていない。今は夕方の5時前だからたぶん会社が終わる時間ではないのでここに一人でいるが、この先のことなど何一つ決まっていないのだ。だから今日は会えるかどうかすらわからない。更に考えてみれば、声を掛けられた方は何か用事があるから声を掛けられたと思うのが普通だ。晃一に『何の用ですか?』と言われても答えることなどできない。まさか『声を掛けたかっただけです』とも言えないではないか。