第246部

「そうか。普通の恋人同士にね。分かったよ」
「はい・・・・・・」
「ありがとう。よく話してくれたね。気持ちを開くのが大変だったろう?」
「・・はい・・」
「今はそこまでにしておこうか。いきなりじゃ心が疲れちゃうからね」
『もう疲れている』と詩織は思った。ただ、こんな店の中で晃一と話ができたのは意外だし、少しだけ安心した。
「ねぇ、詩織ちゃんだって勇気、あるじゃ無いの。こんなこと、なかなか初対面の人に話せないよ」
「だって、初対面ていうことじゃないから・・・」
「初対面みたいなものだろう?」
「はい・・・」
「うん、偉いよ。よく頑張った。取り敢えず、ここまで頑張った詩織ちゃんにお疲れ様って言うことで、まず食べちゃおうか」
「はい」
そう言うと詩織は生のフルーツがゴテゴテ入っているアイスにスプーンを入れた。もうだいぶ柔らかくなっている。晃一はコーヒーを飲みながら、目の前にいる少女の悩みがかなり深そうだと思った。これ以上踏み込んでいけば話し合う二人とも辛くなるのは避けられないようだ。これから先どうなるかは詩織次第だが、少しでも役に立ってあげたいと心から思った。
詩織はアイスを食べながら、心に溜まっているものが少しだけはき出せたと思った。その分だけ少し心が軽くなったようだ。しかし、その分、心の表面に不安が浮き出てきたことも間違いない。もし晃一に、更に気持ちを打ち明けて、それを否定されたらどうしよう、と言う不安が大きくなっている。ただ、詩織の感はたぶんそんなことにはならないと告げていた。少なくとも晃一は、詩織が心配したように『大人の立場から評価』しているのでは無い。何となくだが詩織の気持ちを軽くさせようとしてくれているのが感じられる。だから少しだけ詩織は晃一が自分の近くに感じられた。
「あのぉ・・・・・・???」
「ん?なんだい?」
「三谷さん・・・・・、なんて呼べば良いですか?」
「なんて?あぁ、呼び方?別に何でも良いんだけど・・・おじさん、でも、おじさま、でも、三谷さん、でも何でも良いよ。詩織ちゃんの好きにして」
「そうは言っても・・・・・」
「だって、呼びやすい方が良いだろ?」
「それはそうだけど・・・・・大人の人になんて・・・・・・」
「まぁ、これだけ年が離れていればタメ口って訳にもいかないだろうけど、気楽に呼べる呼び方なら何でも良いよ」
晃一は、どうせ詩織との付き合いは長く無さそうなので、本当に何でも良いと思った。
「はい・・・・ちょっと考えます・・・・」
そう言うと詩織は少し黙り込んだ。
晃一はそんな詩織を見ながら、とても几帳面な性格だと思った。
「それじゃ、やっぱり三谷さん、にしていいですか?」
「あぁ、いいよ。もちろん」
「友紀とかはなんて呼んでるんですか?」
「おじさま、だね」
「そうか、友紀らしいな」
「どうしてそう思うの?」
「だって、友紀は『おじさま』のこと、とっても尊敬してるみたいだから」
詩織は右手の人差し指を左右に振りながらそう言った。
「尊敬?そうかなぁ?」
「はい、そうです。でも、私は三谷さん、て言います。それが一番呼びやすそうだから」
「うん、分かった。名字で呼んで貰ってありがとう」
「それで、三谷さんの下の名前はなんて言うんですか?」
「晃一だよ」
「ふうん」
「ありふれた名前だけどね」
「・・・・・・・・・」
詩織にしてみれば、晃一の名前などどうでも良かった。ついでに聞いてみただけだ。
「ところで、ミッドタウンも行ってみる?」
少し思い話をした後なので晃一は気分転換が必要だと思った。
「はい、できれば・・・」
「ちょっと距離があるけど、疲れてる?それならタクシーに乗っても良いけど、どうする?」
「どれくらい歩くんですか?」
「まっすぐなら15分くらいかな?距離は近いけど、なんだかんだで歩くからね」
「それくらいなら歩きます」
「疲れてない?大丈夫?」
「大丈夫です。そんなに弱々しく見えます?」
そう言うと詩織は少し力なく微笑んだ。
「ごめん、そう言うことじゃ無くて、ちょっと・・・・ごめん。良く分かんなくて」
「大丈夫です」
詩織が食べ終わると、晃一は席を立つことにした。
「それじゃ、行こうか」
晃一はそう言って詩織を促すと、歩き始めた。
「あのぉ・・・・」
「どうしたの?」
「ちょっと・・・お手洗いに・・・・・」
「ごめんごめん。それじゃ俺も行くかな?」
「それと、ここも少し歩いてみても良いですか?あんまりゆっくりできなかったから」
「気が付かなくてごめんね。うん、今日は天気も良いからそうしようか。どっちみちミッドタウンまで距離は1キロくらいしか無いんだ。少しくらい歩いたって時間はかからないよ」
そう言うと二人でトイレに寄ってから外に出た。
ただ、広さから言えばミッドタウンよりもヒルズの方がずっと広い。オフィスエリアが大きく、ショッピングエリアが相対的に小さいだけでヒルズを全部歩き回るとかなりの時間がかかる。晃一は詩織を連れて外に出ると、グランドハイアット側からフェラガモやビィトンの方を回ってテレ朝の前を通り、ぐるっと回って六本木交差点へと出た。しかし、詩織はブランドショップには入ろうとしなかったし、どちらかと言うと静かに晃一について歩いていただけで、余り興味深くあちこちを見ているという雰囲気では無かった。それでもかなり遠回りをしたのでミッドタウンに着いた時は40分以上歩いていた。
ミッドタウンは見て回るのには都合の良い配置になっている。オフィス棟がメインのヒルズとは大違いだ。だから二人は二つのビルを順番にゆっくりと歩いて回った。詩織は途中、足を止めることはあったが、晃一に遠慮したのか、店の中に入ることはほとんど無かった。それでも、二人が一通り回り終わった時には5時を回っており、ヒルズからの遠回りと合わせてかなり足が疲れた。そこで二人はカフェで軽く休憩した。
「あぁ、お疲れ様」
晃一がアイスモカに口を付けてそう言うと、詩織も、
「はい、ちょっと疲れましたね」
と軽く微笑んでバナナブラウニーにフォークを刺してアイスカフェラテをぐいと飲んだ。
「やっぱり、一通り歩くだけでもかなりあるね」
「ふふふ、そう。なんか途中からオリエンテーリングをやってるみたいな感じで面白かった」
「オリエンテーリングか、チェックポイントとかは無かったけどね。本当に、どれだけ歩いたんだろう?結構な距離を歩いたはずだよね」
「そうです。ちょっと足が痛いかも・・・」
「いつもはそんなに歩かないの?」
「どうなんだろう?いつもよりは歩いたと思うけど」
少し詩織の口調が柔らかくなってきた。晃一と一緒に居ることに慣れたのかも知れない。
「駅から学校までは遠いの?」
「友紀の学校よりは遠いから、歩けないこと無いけど、私はバスに乗っちゃうので・・・・、歩く距離は却って短いかも」
「そうなんだ。バスかぁ」
「だから今日の方が歩いた気がします」
「そうか、それじゃ、お昼に食べたものはだいぶこなれたかな?」
「たぶん。だって、さっきから食べたり飲んだりしてるじゃ無いですか」
「あ、そうだったね。でも、たぶん運動量の方が勝ってると思うんだ」
「そうかも。喉も渇くみたいで、さっきから何度も飲んでるのに今でも飲んじゃってるし」
「そうだね、それでだんだん良い時間になってきたよ。お腹の具合はどうかな?」
「はい、この分なら少し早めでも良いかも」
「それじゃ、一休みしたら夕食に行こうか」
「もう、そんな時間になったんだ」
「だって、お腹、空いたろう?」
「あ・・・はい・・・・」
「それじゃ、ちょっと空いてるか電話かけてくるから待っててね」
「はい、でも・・・・・」
「ん?なあに?」
「あの・・・こんなこと失礼かも知れませんけど、あんまりちゃんとしたって言うか、高級なのは・・・・、私、お昼みたいなのは緊張しちゃって」
「居酒屋みたいなのが良いんだろう?」
「はい、そうです」
「うん、任せといて。ご希望通りのお店にするから。ただ、その分、お昼みたいに回りが静かじゃ無いよ」
「わかってます」
「その分、大きな声で話してね」
晃一は席を立つと、目星を付けた店に電話をかけてみた。すると、1軒目は席は取れたものの貝類の良いのが無かったので断念したが、運良く2軒目で席を確保でき、新鮮な貝類の他、ナスや鶏肉もあるという。晃一は貝類のセットを取り置いて貰うように言ってから詩織の席に戻った。
「どうでしたか?」
「うん、大丈夫。ちゃんと新鮮な貝もナスも鶏肉もOKだよ」
晃一がそう答えると、詩織は少し戸惑いながらもはにかみつつ微笑んだ。晃一はこの時、詩織の雰囲気が少し変わっていることに気が付いた。なんとなく、友紀や美菜などに近い、親密な感じが出てきたと思ったのだ。
「そうなんだ・・・・・・良かった・・・・」
詩織はそう言ったが歯切れが悪い。
「詩織ちゃん、それじゃ、今日は何から挑戦するの?やっぱり貝類から?」
「いえ、それは・・・・・やっぱり着いてからじゃ無いと・・・・決められない・・・・、三谷さんのお薦めはあるんですか?」
「そうだね、やっぱり貝焼きかな?一番美味しさが分かると思うんだ」
「貝焼きって、貝を焼いたの、ですか?」
「そうだよ。ただ、これから行く店は自分の前に炭火のコンロが来て、そこで焼くんだけどね」
「そんなの、危なくないですか?」
「大丈夫さ。店員さんがきっちり手伝ってくれるから。ほとんど手を出さなくても上手にできるよ。ま、行ってみてのお楽しみだね」
晃一はそう言いながら席を立ち、二人でタクシーに乗ると神田に向かった。
「詩織ちゃん、言いたくなければそう言ってね。お父さんはどんなお仕事をしていらっしゃるの?」
「パパ、父は会計士をしています」
「お母さんは?」
「母は主婦です。時々頼まれて働いたりしているけど・・・・」
「頼まれて?何か資格でも持ってるの?」
「母は看護師なんです。それで、知り合いの病院が忙しい時とかに頼まれて」
「凄いね、それは。だって、看護師ってなってから後もいっぱい勉強し続けないと直ぐに進歩に追いつけなくなるって聞いたよ」
「そうみたいですね」
「ふうん、だからかな?食事とかお母さんの好き嫌いがそのままになってるって言うのは・・・。気を悪くしたらごめんね。きっと忙しくて好き嫌いを直すどころじゃないのか持って思ったから」
「いいえ、三谷さんの言う通りなんです。もっと好き嫌いを直してくれれば良かったのに」
「そうか、だから詩織ちゃんは自分で直そうとしてるんだ。まず食べず嫌いから」
「いいえ、今日はたまたまそうなっただけで・・・・・。でも、そうかも知れないです」
「よし、それじゃ、まず第一歩だ。気合いを入れて挑戦してみよう」
「はい」
二人は立ち上がると外に出てタクシーに乗った。
「一日に2回もタクシーに乗るなんて、初めてです」
「そうなんだ」
「タクシーなんて、滅多に乗らないから」
「高校生だとそう言うもんかも知れないね」
「三谷さんは良く乗るんですか?」
「そうだね。週に何回かは乗るよ」
「会社が出してくれるんですか?」
「よく知ってるね?ほとんどはそうだよ」
「でも、タクシーってとっても高いでしょ?さっきだって・・・・・」
詩織は昼食にタクシーで向かった時、三千円以上の料金がメーターに表示されていたことを覚えていた。
「そうだね。安くは無いよね。たぶん、地下鉄を乗り継いで行くと少し余計に時間がかかるけど、何倍もかかるわけじゃ無いしね。少なくとも地下鉄代とタクシー代の差ほどじゃ無い」
「そう」
「だけど、タクシーならずっと座っていられるし、場合によっては運転手の人と話もできる。ただ、混雑する場合もあるから電車より余計に時間がかかる時もあるけど雨が降っても強くなければ傘は要らないこともある。良いこともあれば悪いこともあるってことだね。お金は余計にかかるのにね」
「それならどうして・・・・」
「タクシーを使った方が詩織ちゃんが楽かなって思っただけ。自分一人なら使わないよ」
「私なら・・・・・そんなタクシーなんて・・・・・」
「ごめんね。俺のやり方なんだ。気を悪くしたなら謝るよ。ごめんなさい」
「そう言うことじゃ無くて・・・・」
「俺はできることはみんなやる、そう言うやり方なんだ。詩織ちゃんと仲良くなれて、少しでも役に立つなら何でもやろうと思ったからタクシーだって使ったんだ」
「そんなことして貰わなくても・・・・・良いのに・・・・・」
詩織はなんと応えて良いのか分からないといった感じで答えた。
「詩織ちゃん、詩織ちゃんにどんなことをすれば良いのか、助けがいるのかどうなのか、は、詩織ちゃんが決めるんじゃ無くて、周りの人が決めるものだよ」
「え・・・・」
「詩織ちゃんが好きな人がきっと周りにたくさんいるだろ?家族とか友達とか恋人とか周りの人が」
「いえ、家族はそうだけど・・・」
「友達と恋人は?」
「友達は私のことなんてきっと・・、恋人って言ったって・・・・」
そこまで言ってから詩織は黙り込んだ。何か考えているらしかった。
「学校でもそうだけど、自分の評価は人がするものだよ。それは大人になったって全部同じ。会社だってみんなそう。その会社自体の評価だって他の会社がするんだから。その人に何をすれば良いか、だって同じことさ。自分で何をすれば良いのか自分だけで見つけられることだってあるけどね」
「それじゃぁ、ほとんど自分では分からないってこと?」
「結果で人は判断するからね。だから、その過程には人の助けがあった方が良い。一人で回りのみんなが満足する、やるべきことを見つけるのは大変だから。でも周りの人の助けがあれば何をすれば良いのか探すのはグッと楽になる。俺はその助けになれば良いな、と思ってるんだ」
「そう言うことか・・・・・・」
詩織はまた少し考え込んだ。
「友達に相談できれば良いけど、友達同士のことって友達には相談しにくいものだし、恋人のことは恋人には相談できないだろ?俺みたいな第三者の方が良いことだってあると思うけどな」
「そう・・・・・・かな・・・・・・」
詩織の頭の中では何かがぐるぐると回っていたが、それがなんなのかは分からなかった。
タクシーは少しだけ混んだ道をほぼ順調に走り、15分ほどで目的地に着いた。
「さぁ、着いたよ」
「はい」
詩織は晃一に促されて外に出た。ヒルズやミッドタウンとは異なり、無機質なビルの谷間だ。
「ほら、あそこにJRが見えるだろ?神田駅の直ぐ近くなんだ」
「はい・・・・・・・」
そう言われても詩織にはピンとこない。
「ほら、予約したお店はあそこ。本との居酒屋だろ?」
晃一が指差した先にはビルの1階に居酒屋があるのが見えた。8階建てくらいのビルだが、他は普通の感じなので通りに面した下の部分以外はどこかの会社なのかも知れない。
「ささ、行こうよ。なんかお店を見たらお腹が減っちゃったよ」
晃一は詩織を促すとどんどん先に進んでいった。二人が入ったのは神田駅からさほど遠くないビルで、入ってみると狭いところだった。電話での予約を告げると、カウンター席に案内された。