第265部

晃一が振り返ると支度の終わった菜摘が抱きついてきた。
「パパ、帰りたくない」
そう言ってキスをしてくる。ほんの数秒だったが心のこもったキスをすると、菜摘は晃一からタクシー代を受け取り帰っていった。
部屋に戻った晃一は、菜摘があれほど激しく求めてきたことに驚きながらも、菜摘が本気で好きでいてくれることを確信して安心した。今日の菜摘は晃一への愛に満ちていた。だからこそあんな格好まで見せてくれたのだ。そして率直に気持ちを伝えてくれていた。もちろん晃一は菜摘が友紀や美菜に対してどれほど心配しているかは知る由も無い。それでも、菜摘の気持ちが身体に素直に表れた結果、あれほど晃一を求めてきたのだと思っていた。
その菜摘はタクシーの中で晃一から渡されたお金だけを入れておく財布をそっと撫でながら、『あれほど激しくしたのに全然嫌じゃ無いのはどうしてだろう?』と思っていた。自分の一人上手を見せたのもそうだが、最後には今までいったことが無いほど大胆におねだりばかりしていた。でも、今は全然後悔してないのだ。それどころか、今は満足感と安心感に満たされている。『まだ、さっきしたばかりだからかな?』とは思ったが、どうもそう言うのとは違っている感じがした。
そこまで考えて、菜摘はハッとした。友紀のことが残っていた。こればかりは自分が悪いのだから、正直に一生懸命謝るしか無い。少し考えたが、菜摘は思いきってタクシーの中から友紀に電話してみた。今の心が満たされている間なら何とかなると感じたのだ。
絶対に友紀は部屋にいるはずなので直ぐに出ると思ったが、だいぶコールがかかってからやっと友紀が出た。
『なによ』
いきなり友紀は冷たかった。友紀はこんな風に電話に出たことなど無いのだ。菜摘は友紀が感づいていることを直感し、ぞっとした。友紀は怒ると、本当に恐い。
「あの・・ね・・・・・・」
『だからなによ』
「友紀・・・・・・ごめん」
『そう・・・終わったんだ・・・』
「うん、本当にごめん。どうすれば良い?」
『どうすればって、どう言うことよ』
「どうすれば・・・許して・・・くれますか」
『ふうん、あんなことしておいて、何かしたら許してもらえると思ってるんだ』
「ごめん。本当にごめんなさい。だから、どうすれば良い?」
『簡単なことじゃ、だめだよ。分かってるの?』
「うん、覚悟してる」
『そうね・・・ちょっと考えるね・・・・・・何か奢って貰うなんて言うのは論外よね。そんな程度じゃ全然収まらないわ。菜摘のことを思って連絡したのに、いきなりあんなのを聞かされたんだから当然ね』
「ごめん。本当に、本当にごめん」
『それなら、もっとおっきなことにしなきゃ』
「うん、いいよ」
『それじゃぁね・・・・・、あ、思いついた』
「教えて」
『だいじょうぶ?覚悟は良い?』
「うん」
『今度の全国模試、私に英語で負けなさい。それとおじさまと一泊で旅行に行かせて』
「え、どういうこと?」
菜摘は驚いた。余りに荒唐無稽で理解できなかったのだ。
『だから、菜摘は英語で私に負ける。私は成績を上げて菜摘に勝つからおじさまに褒めて貰うの。そしてご褒美に旅行に連れてってもらうってこと。もちろん一泊よ』
「そ・・・・そんな・・・・・・・」
菜摘は余りに大きい代償に唖然とした。それはまるで、これだけ勉強を頑張っている自分を全て否定しろと言われているに等しい。同時に自分が本当に楽しみにして目標にしている旅行に先に友紀に行かれてしまう。それでは本当に必死に我慢して勉強する自分が馬鹿みたいだ。
「ねぇ友紀、それだけは許して」
『だめよ。覚悟したんじゃ無いの?』
「でも、それだけは許して」
『何言ってんのよ。前にもあんたは私のを覗いたのよ。分かってる?それでまた今度はこれ見よがしに聞かせるなんて最低じゃ無いの』
「そうだけど・・・だからごめん」
『だから?謝ってるから許してもらえて当然だってこと?』
「そうじゃ無くて・・・・・でも、それだけは・・・・・お願い・・・許して、お願いだから」
菜摘は必死に頼み込んだ。友紀が怒っているだろうことくらいは想像していたが、これほど友紀の怒りが強いとは思っていなかったのだ。
『そうねぇ、そこまでするのは可愛そうかなぁ?』
「そう、だからお願い、許して」
『それじゃあね、どっちかでいいわ。菜摘、選んで』
「え?どっちか?」
『そう、英語の成績で負けるか、おじさまと旅行に行っても良いか』
「・・・・・・・・・・・・」
『でも、考えてみれば英語の成績で菜摘に勝ったって仕方ないわよね』
「・・・・・・・・・・・・」
『だから条件を変えるわ。今度のミーティングで私に電話してきた時のことを発表するか、おじさまと旅行に行かせるか』
「・・・・・・・・・・・・」
『どうしたのよ。選びなさいよ』
「ちょっと待って・・・そんな選択・・・・・無理よ」
『何言ってんの。もう一度聞くけど覚悟したんじゃ無いの?』
「それはそうだけど・・・・・・」
『自分に都合の良いことだけ覚悟したってこと?』
「・・・・・・・・・・・・」
『前に覗かれた時は一発ぶったから素直に許したけど、それで許したのは間違いだったってことよね。だから今回はきっちりと落とし前付けて貰うわ』
「そんな・・・・・・・」
菜摘は目の前が真っ暗になった。
『良い?今まで私はおじさまの所に行っても、思いっきり菜摘に気を遣ってたのよ。菜摘が一番だって分かってたから。それなのに、あんたはあんな事したんだよ?本当に分かってる?』
「うん・・・・・ごめんなさい・・・・」
菜摘は後悔しても仕切れなかった。何故あの時、あんなことを許したのだろう?肉棒が当たっていれば、当然ああなるのは自分が一番良く分かっていたはずなのに。それなのに自分から電話を掛けてしまったのだ。本当に馬鹿なことをしたと思う。もしかしたら『友紀と話している時でも晃一を感じていたい』という奢りがあったのかも知れないが、それは明らかに友達の仁義に反している。だから友紀が怒っているのも当たり前だと思っていた。
『分かってるんなら選びなさい、今すぐに』
友紀の口調からは妥協の余地が無いのがはっきりとしていた。菜摘は進退窮まった。何か言わなければと思うが言葉が思いつかない。その時、ちょうどタクシーが家の近くに着いた。菜摘はそのまま友紀との電話を繋いだままお金を払い、そのまま家に帰った。そして家に入ってもまだ友紀と話そうとしていた。母親に姿を見せて食卓に用意されている食事を指差し『後で』と口の形だけで伝えてから一度部屋に入って荷物を置いたが、妹が勉強していたので洗面所に入った。妹と部屋を共有しているのでプライベート空間の無い菜摘はトイレか洗面所くらいしか誰にも知られずに電話できるところが無いのだ。とにかくもう一度謝った。
「友紀、本当にごめん・・・・」
『いつまでそんなこと言ってるのよ、菜摘、あなたが自分で選んで』
友紀の態度は全く変わらない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
『どうしたのよ。言いなさいよ』
「それは・・・・・・」
『早く。黙ってたって何も変わらないわよ。さぁ』
「お願い、やっぱり・・・・それだけは」
『だめよ。何回聞いても頼んでもだめ、早く選んで。時間の無駄よ』
「そんな・・・・・・」
『選べないの?それなら私が選んで・・』
「分かった分かったわよ。選べば良いんでしょ?」
『どっちにするの?』
「ミーティング・・・・」
菜摘にしてみれば、それ以外に選びようが無かった。どちらも嫌だが、どうしてもと言うなら自分で恥を掻く方がまだ良い。
『そう、分かったわ。ミーティングでみんなに話すのね』
友紀の声が急にはっきりと明るくなった。
「うん・・・・そうすれば許してくれる?」
『もちろん』
「本当よ?ちゃんと話すから、それで許してくれるよね?」
『心配しなくて良いって、大丈夫。安心しなさい』
友紀は急に機嫌が良くなったようだ。今まであれだけ怒っていたのが嘘のようだ。菜摘はひとまず安心すると共に、ここまで急に友紀の機嫌が良くなった理由を計りかねていた。
『セッティングは任せといて、それじゃあね。お休み』
そう言うと友紀は電話を切った。ちょっとすっきりした。もちろん、友紀は菜摘に全部話させるつもりは無かった。それをしたら自分のことだってグループのみんなにばれてしまうからだ。だから適当に助け船を出して際どいところで菜摘を解放するつもりだった。それくらい簡単だと思っていたのだ。
だから菜摘にはそれまで心配していて貰おうと思っていた。それくらいはしても良いだろうと思っていた。
ただ、心の中では本当は分かっていた。自分がしようとしていることは明らかにやり過ぎだと言うことが。そして、そのやり過ぎさえも結局受け入れた菜摘は、自分との関係を大切に考えてくれていると言うことが。だから友紀は電話を切った後、少しずつ心の中で不安と後悔が大きくなっていくのを感じ、なかなか眠れなかった。
菜摘がミーティングを選ぶのはある程度分かっていた。それだけ晃一とのことの方が大切だと言うことだ。もしかしたら堂々と晃一と旅行に行けるかも知れないと想っていたが、菜摘の一途な性格から余り考えられないのは分かっていたのだ。それは最初から分かっていたので菜摘の選択を聞いても余り驚きはしなかったし、どちらかと言えば当然という気もしていた。それに、友紀には『その気になればおじさまといつでも旅行に行ける』という漠然とした自信があった。特に根拠は無いが、神戸のホテルではあれだけたくさん可愛がってくれたのだし、いつもたっぷりと可愛がってくれるので何となくそう言う気がしていたのだ。
そう思うと気持ちも次第に落ち着いてきた。すると、だんだん菜摘が可愛そうになってきた。みんなの前で麗華に絞られながら顔を真っ赤にして話している菜摘の様子が目に浮かぶ。やはり何とかしなければならない。友紀の気持ちの中では、菜摘がミーティングを選んだことで既に贖罪は終わっていた。後は菜摘を助ける場面なのだ。
友紀はどうすれば良いのか考えた。どうすれば自分にも菜摘にもプラスになる事を起こせるだろうか?それを考え続けていると、一つの考えにたどり着いた。『そうか、元々無理だったんだ。それなら普通にすれば良いんだ』友紀はベッドの中で次第に考えを纏めていった。
友紀がベッドで夢の中に入っていった頃、菜摘は疲れているにも関わらず遅くまで勉強していた。もちろん、あんな事があった直後だから記憶系の勉強は全然進まなかったので数学の問題を機械的に解いていただけだったが。そして、こんなことになってしまった根本的な原因を考えていた。そして、その原因は自分がグループの仲間に秘密を作ってしまったことにあるという結論に達した。だからこそ、友紀にあんなことを選択させられる羽目になったのだ。もちろん菜摘にとって、もう一方の選択肢である晃一との旅行など絶対に受け入れられない選択の余地の無いことだった。だから菜摘にとってはミーティングで正直に自分の恥ずかしい姿を告白するかどうかだけが選択の余地だった。そしてそれは菜摘にとって、友達としての友紀を失うことよりは小さなことだったのだ。
だから菜摘は、このような状況自身に無理があることを認めざるをえなかった。そしてそれを打開するにはどうすれば良いのか、考えることにした。その日、菜摘が寝たのは2時を回っていた。
翌日の朝、菜摘は晃一を見つけると静かに晃一に寄り添っていた。それは不自然では無い程度に近い距離だったが、少し混んでいたので晃一に微かに触れる程度だったのが少しだけ安心した。
晃一が小さな声で話しかけてきた。
「菜摘ちゃん、昨日は疲れた?」
「ううん・・・それほどでも無かった・・・・」
「そう、良かった。ちょっと心配していたんだ。直ぐに疲れて寝ちゃって勉強できなかったらどうしようって」
晃一は全く脳天気だった。友紀との電話の事など全く気にしていない。確かに、その後の友紀との会話を知らない晃一にとっては大したことでは無いのかも知れないと思った。
「なんだか元気が無いみたいだけど・・・・???」
「ううん、そんなこと無い。大丈夫」
「良かった。今日は授業、大変なの?」
「いつも通り。頑張って勉強しなきゃ」
菜摘は無理に微かに微笑んだ。そして、晃一にこれ以上心配させないようにしなくては、と思った。それでも、大した話もしなかった朝のこの時間は自分にとって心が少し温まる大切な時間だと思った。
その日の昼休み、菜摘は母親が作ってくれた弁当も食べずに真っ先に美菜を探した。各時間の間の10分休みでは話せないことだったから昼間で待っていたのだ。菜摘は時々しかしないが、美菜はいつも売店でパンを買って自分の席で食べるので見つけるのは簡単だった。幸い教室で空いていた美菜の前の席に座ると、美菜は予想通りという顔をして、
「早いじゃ無いの」
と言った。幸い周りには誰もいない。
「もちろんよ。ねぇ、どう言うこと?みんなに自分から話すなんて」
「あぁ、そのこと、ね?」
「何かあったの?美菜が自分から話すなんて信じられないから」
「ううん、大したことじゃ無いから心配しないで。名前を出すわけじゃ無いし」
「それで、麗華にはなんて言われたの?」
「最近はミーティングも盛り上がらないから、ちょっとゲロって盛り上げてくれってさ」
「なにそれ?それでOKしたの?」
「まぁ、そういうことね」
美菜は何となく他人事のように答えた。
「何?まだあるんでしょ?教えてよ」
「ううん、偶には自分から話題も提供しないといけないかな?なんて思っただけよ」
「本当なの?今まで一度も話したこと無いじゃないの」
「そうだったかな?」
美菜の答えに、菜摘はきっと何か裏があると思った。美菜は自分の体験を他の子に話すようなことは絶対にしないはずなのだ。菜摘はじっと美菜を見つめた。
「そんな目で見ないでよ」
美菜はそう言うと、ふぅ、と息を吐いた。
「ふぅ、言うわよ、正直に。そんな目で見ないでよ。言えば良いんでしょ?」
「やっぱり」
菜摘はほら見ろと思った。やはり自分の勘は当たっていたのだ。
「あのね、グループを抜けることにしたの。昨日、麗華から話せって言われた時、それを条件にしたのよ。それだけ」
「・・・・・・・・・・・」
「つまり、それが麗華の条件て訳。抜けるなら一度くらい話をしろってね」
「それでOKしたの?」
「うん、一度くらいなら良いかってね。どうせ抜けるグループだし、秘密は固いの知ってるから」
「そうか・・・・・・」
美菜が話すと言うのは意外だったが、グループを抜けるというのは何となくしっくりした。それならあり得るというか、麗華と美菜の間の会話ならあり得ることだだと思ったのだ。
「菜摘だって聞きたいんじゃ無いの?どんなことしてたか、さ」
「それは!そんなこと・・・」
「ほら、あんたが顔を真っ赤にしてどうすんのよ」
菜摘にとっては猛烈に知りたいが、同時に絶対に知りたくないことだった。
「何よ、言いたいことがあるなら言いなさいよ。それとも、やっぱり知りたくない?」
「あの・・・・・これからも・・・・同じ?」
菜摘は一番気になったことを聞いた。菜摘は美菜が晃一との関係をこれからどうするのか聞いているのだ。